子育てをしていて色んな人に出会う。
私は親バカを自覚しているが、時々、バカ親に遭遇する。
バカ親という言葉は使いたくないので、盲目親と言い換えよう。
恋は盲目とはよく言うけど、子育てこそ盲目になりがちだ。
テーラワーダ仏教といって、ブッダの教えを弟子が解釈せずそのまま受け継いできた宗派があって、その長老のアルボムッレ・スマナサーラ師の著書に、
人は皆自分が一番かわいい。だから最初に自分が幸せであるように願って良い。それは皆同じだから、人の幸せも尊重しよう、という内容の事が書いてある。←ざっくりしすぎてすみません。
自分が1番というエゴを押し殺したり、無かったことにせず認めて、
それは皆同じで自分が1番かわいいんだから、お互い自分を大事に思うように人にも思いやりを持てるという、この思考プロセスに私は深く共感して納得できる。
自分より隣人を優先せよ!!犠牲こそが愛!!と言われても、そんな聖人の域には達する事は難しそう。
だからいつも読んでいる千の顔さんのブログで、仏教、キリスト教、イスラム教と宗教が退化していると書かれていた時、なるほど!!と思った。退化とも言えるし、どんどん狭義に低次になっている感じもする。
話を戻して、この自分かわいさ、我が子が1番、自分の取り組みが1番と言う態度は、盲目親にならない為にも控えるように留意している。
そしてこちらのブログで書いてある、プロに学ぶことについて私も思うところがある。
私の友人N、彼女はある演奏家の大ファンで、その楽器を娘達にやらせているけど、地元にいるプロの奏者レッスンを受け、家で練習する時も音大生を雇って伴奏してもらっている。
私はこの現象を、子どもの人生乗っ取り気味と、思っている。
熱量が、過ぎるのだ。
プロの奏者になるのは狭き門だと思う。けど、音大を優秀な成績で出て楽団に入ったりプロになれた人たちは、幼少期に皆プロに習っていたわけではない。
私の弟も奏者だが、幼少期は技術は勿論大事だけど、楽しくて時間を忘れる経験が必要だそう。弟は今でも休日は8時間弾き続けるが、あれ、もう夕方?!となっている。
弟曰く、プロとしての技術は、大学で一流奏者について学べる。基礎の段階でプロに習うのは勿体無い、プロの無駄遣いとまで言う。指も動かないのにプロに習ってどうするの、と。だから弟は自分の子を、演奏のプロではなく、初期教育のプロに預けている。
基礎がある程度のレベルに到達したら、プロに見てもらえば良いと。
サッカーも楽器も他の習い事も、最初からプロ!一流に触れさせる!と意気込む親は、あちこちにいる。
けど、最初から一流に触れるためには、プロに習わなくても、プロの演奏を聴いたり試合を見たりすれば良いと思う。
入門期からプロに教えてもらえるのは幸せな環境だとは思うけど、それは盲目親、、、とも思ってしまう。
プロ!プロ!
と、結果にフォーカスするのではなく、
楽しんで夢中になるという過程を、全ての子供に大事にして欲しい。
『葬送のフリーレン』で勇者ヒンメルが旅したように、息子のサッカーライフを楽しんで歩いていきたい。
(サンデーうぇぶりで無料で読めるので是非。)