當時、札幌では保北光線のあたりは田舍とみなされてね。
あれは1984年ころだつたと思ふ。
帝都の御店に入り札幌に轉勤といふ形で戻つてきた。御店の寮が北漆條東壱零丁目くらゐにあつてね。ん?「おまいさんもそこに?」
いや。吾はその御店の壹課といふ配屬で生意氣にもマンシヨンをあてがわれていたんだ。
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寮に住む同期から「寮のそばに札〇會館てえ ポルノ活動寫眞專門會館があつてよ。そ此後ろのハアモニカ飮み屋會館にいい店見つけたから來いよ」と誘いが入る。
吾は當時、會社からあてがわれた北伍條西弐捌丁目のマンシヨンに住んでいたんだ。當時は東豐線もなくあつちこつちやりくりして行つてね。
K子といふ店だつた。そこに吾より漆才は年上と思ふH美さんがいた。當時。絶大な人氣の松田某のコピーのやうなね。
仲良くなつて「毎日、來たら飮み題はいらないから。ご飯も下で私のつけで食べて、」とかね。
いつぱしの燕ですわ。ある日、K子ママに「Jちやん。H美はね。察してゐると思ふけど。年季があけたら出てくる旦那がゐるんだよ。」つてね。
吾も氣づいていた。併し吾もだう此まとわりついて何かから拔け出さうと考へてゐるときであつたんだ。
(續く)

 

 

ご同輩の中には覺えてゐる向きもあるであらう?
「ちび陸ラアメン」
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バイト先の調理パン屋で哀れを裝い食パン壹斤をいたゞく。
その足でスウパーに向かいちび陸ラアメンを購入する。
おつとそのまゞ食べてはいけない。
これには流儀がある。
吾が把握してゐる流儀は肆つほどだが吾が行う流儀を紹介したい。
おもむろに壹個の乾麺を取り出し洋天パンでゆでる。
乾麺が柔らかくなつたら水氣を切りそこに適量のサラダ油を注ぎ炒める。
役目が付いたらウスタアソヲスをぶつこむ。
さうしてこれまた壹斤を適當にちぎつた食パンで食す。
「スウプがボクるのではないか?」
いやいやわざと殘すのだ。
やがて來る殘金壱弐零圓の日の爲に。
パンだけはバイト先で手に入る。
スウプはその時に湯で溶いてちぎつたパンを浸して食すのだ。
これで壱弐食は賄えるといふわけだ。
次囘は壹斤のパンの食し方にも觸れやうぞ。

 

 

大學の學食と呼ばれる食い處である。
晝前後は學生や職員でごつたがえす日常。
通人はそんな時間に云つてはいけない。そこで出される味、情。美が體驗出來ぬであらう。

 

嵐の去つたやうに靜まり返る拾肆時 まだ我慢するのだ。
食い處が閉まるのは拾伍時。
拾肆時貳拾分 その時間こそが行くべき時間なのだ。

券賣機で飯、納豆を買ふ
棄てられし子犬のやうな上目遣ひで食い處の小母さんの顏を見る
決してまつすぐに見つめてはいけない。
恥辱と飢ゑをその目に宿し斜め上目遣ひだ。

小母さんは默つて食券を壹瞥しやがてアルマイトのトレイに
具の何も入つていない餘つたカレヱルウ、同じく何も具の入つていない餘つた味噌汁
而して納豆を乘せて差し出す。
短いお禮の言葉を云い 席に座る。
決して厨房の小母さんの方を向いて座つてはいけない。
背を向けて座るのだ。
さうしてかつこむ。
背中でさらに小母さん建ちに哀れを見せつけ憐憫を呼ばうと云う小賢しいことをするのだ。
情の味を噛みしめ かつこむのだ 食らうのだ 而して生き延びなければいけない。
其の壹聯はまさに生き延びる爲の美だ。

併しだ。それにぶら下がつてもいけない。
それは貳週間に壹度の儀式なのだ。
「あの子はだうしてゐるだらう?」と小母さん達の腦裏に過る頃合いを見極めなければならない。
嗚呼
そのかけひきも味であり その行爲中の美中の美であるまいか。

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汚大路弩參品(きたなおうじ・どさんぴん 1960~)

堕泥市虚栄村出身 極貧の中の美を求め歌舞音曲、随筆、絵画、写真などの活動を行う

主な作品に「樽前山」(誠真書房1993年刊行)「躑躅(つつじ)」(1989年カタレプシー出版)などがある。

彼が師事した文化人に有栖川下種麻呂がいる。