5月5日のコンサートはとても楽しく充実した気持ちで終えることができました。


予想してたよりも、はるかにいいショーで、バンドの音もよかった。。



ただ、コンサート前は仕込み、終わったら次の日から仕事入れてしまってたので、休む暇なし。。


ブログのチェックも自分の更新もままならぬ日々が続いております。


チェックしたいブログや、コメントしたり、自分も書きたいことがありますが、パソコン立ち上げても、しばらくして寝落ちする日々で、


メッセージ等の返信・レスポンスが滞りがちになってしまって、不躾な状況を大変申し訳なく思っています。



今も、寝落ち寸前。。。



近々、あらためて。


Zzzz...




体の異変(?)の話し。。




ハタチ頃の話し。


音楽専門校で合宿授業があり、新潟で何泊かして、その帰りのバスの中でのこと。


二日酔いでぐったりと気持ち悪かったので、僕はおしゃべりせず、目を閉じてうなだれていました。



その頃、普段でも、何回か、まるで幽体離脱でもするかのような感覚を体験したというか、なんだったかはわかりませんが、そういうことがあり、いつも例によって強制解除をしてました。



しかし、この時、このざわついたバスの中で、それが起こりました。


それも、今までで一番強烈に。



金縛りを解く気力もないのに、それになり、と同時に、ふわっと、頭2個分くらい上に浮いたような感覚が。。


ちょっとしたパニック状態と恐怖とで、急いで元の感覚を取り戻そうと、もがいた記憶があります。


怖くて目を閉じていたので、本当に抜けていたかは実はわかりません。


そうとうもがいたので、ちょっと人に見られてたら恥ずかしいと思った記憶があります。


見られてたらというか、見られてないはずはないのですが。。。


そういう状態だったとして、目を閉じるという感覚があるのかも、わかりませんが、


とにかく、体が異常に軽くなって、「上」にいる感じは強かったです。。



目を開けると、みんな普通に騒いでいて、「すごいもがいてたよ、大丈夫か?」とか、声もかけられずにいたので、ちょっと不思議に思った記憶があります。。







前のブログでも、少し書きましたが、


30才越えたころも、何かが体に入ろうとしてるのか、自分が出て行こうとしてるのか、


どちらかわからないような感覚のことが頻繁にあったころがあります。


当然、毎回強制解除でめちゃめちゃもがきました。


だって、それが起こるのは、たいがい決まって、会社の車ん中で、同僚と仮眠してるような時だからです。



金縛りとヴ~ンというようなノイズがシグナルです。


体がガクガクガクっと痙攣して麻痺する感じ。。地震でもおきてるのかと初めの頃は思いました。


強制解除するときはビクン!という大きな痙攣を伴い、それで目が覚める。


また、まどろむと、同じことが起こる。これがしつこく何回か続くのでした。


しかも、時には、若いころに経験した、何者かが話しかけてくる前兆の、あのむにゃむにゃ音も聞こえてくるので、なおさら強制解除する気になってしまいます。。(笑)



僕はきっと、この体のガクガクガクは実際に体がそうなってると思ってて、恥ずかしく思ってました。


しかし、車が揺れるくらいの相当な痙攣(傍からみたら、ぎょっとするような状態)のはずなのに、いつも同僚はスヤスヤと仮眠してるので、気になり、ある時ちょっと、尋ねたことことがあります。


「オレ、さっき、ちょっと変になってなかった・・?」


すると、別になんでもないですけど。。という返事が返ってきます。


一回大きくびくっとなってましたけど、疲れてたりするとなりますよね~あれは。  とか。


僕としては一回どころではなく、尋常じゃない痙攣状態で、恥ずかしいなと思ってたので、不思議でした。。


今でも、なんだったのかと思ってます。






こんなふうに、こういう現象をことごとく拒否してきた経緯が僕にはあります。


最近、これがなんだったのか、わかってきましたが、(体外離脱の前触れである場合があるようです。。)


理解して、恐れを克服した(つもりの)今は、全然こんなことが起こりません。。。(笑)







もうひとつ、とても変わった感覚のことがあります。


言葉で説明しずらいのですが、


これも二十歳くらいのころ。



朝、目覚めると、体の感覚が違う。。


感覚というか、意識が違う。。


自分の意識(というか自分自身?)が、背中か背骨の狭いエリアに凝縮されたようで、


自分の体をコントロールできない。


意識はあるのに、肉体は別。みたいな。。



一番しっくりいく表現は、何かに体を乗っ取られたような感じです。

何か自分以外のもう一人が体にいるのが感覚的にわかるのです。。

僕の意識は、背中のほうの狭いところにいる感じ。。。。



寝起きとともにこの感じで。。


「なんじゃ?」と思いましたが、不思議とあまり恐怖はなく。。寝ぼけているのか・・?くらい。。



寝ぼけ感がなくなってくるのと同時に、僕の体にいるもう一人の誰かが、鳥のようにさーっと抜けていき、2~3秒の間で、自分の体の感覚が戻ってきました。


その存在は、正面の窓のほうに飛んで行った感じを受けました。。



このような体験は、この一回きりのことで、その後、似たようなことはありませんでした。


我ながら、とても不思議な感覚でした。

スピリチュアルな体験というのは、日常生活のあらゆる場面の一つ一つなんだと、


若いころ何かの本で読みました。




その頃より、今のほうがずっとそのことが理解できます。






特別な体験ばかりが、スピリチュアルな体験ではないということ。




心の共鳴・感動・喜怒哀楽のすべてがそれであり、




それらが大きな発見やシンクロに繋がったりする。






心に反応するすべて、恐怖や怒りも含めたすべてのものが、心の糧となり、




自分を知る、より良くする素材となりうる。(その意思があるならば。悪くしようという意思は当然そちらへ働く。)






心のアンテナの感度をよくするということは、前向きな好奇心もさることながら、




果敢に生きることではないかと。








様々な心躍るような発見は、心を否定的にする発見と同じくらい、普段の仕事、会話、趣味、娯楽にいくらでもあることがわかりました。






キーワードは、果敢に生きること。




わくわくするようなことがなければ、果敢にも生きられないのもわかりますが、




最悪な経験があっても、(そこまでじゃなくても、)嫌な仕事から帰宅してからでも、読書や、テレビや、知人・友人との会話にわくわくがあるなら、続けることです。




そのわくわくが、次第に果敢に生きる原動力になる。




少しずついろんなことが繋がり始める。




アンテナが感度よくなってきて、心の共鳴が増えてくる。




心に栄養が与えられてることを少しでも実感してくると、




その感覚は、十分にスピリチュアルな体験といえると思う。




他の誰かと、その気持ちを共有したときは、さらに実感しますよね。




共有には「愛」が付き物だとも感じます。








共有するのに、言葉が必要とも限らない。。




心の通った友人や恋人のやりとりなんかがそうであるように。






僕は、音楽をやってますので、音楽(音)を通して、気持ちの共有を感じることができます。




その人数が多ければ多いほど、




また、その気持ちが温かいものであればあるほど、気持ちの方向が同じであればあるほど、




感動を伴った大きな共有を得られることが、今になってわかりました。




これは、スピリチュアルな体験以外のなにものでもない。。






これが、人々の「祈り」だったらと考えると・・




すごいことになる。。








普段の生活の些細なことから始まった大きな感動への扉。






死んだも同然の心から、ここまでのことを思うと、




普段の生活に、スピリチュアルな体験を感じる欠片がたくさんある。。




そう、思うのです。