著者 ジュリアーノ・ダ・エンポリ
『ポピュリズムの仕掛け人』に続き、エンポリの著書を読んだ。
ポピュリズムは、リベラリズムも衰退させている。衰退どころか、絶滅させかねない勢いだ。
そのリベラリズムの衰退を分析したのが本書だ。「仕掛け人」が「捕食者」となったのだ。
そして、このリベラリズム衰退に対して、本作でもエンポリはナラティブ(物語)を活用した対抗策を強く推している。
しかし、それに対して、私は『ポピュリズムの仕掛け人』でも感じたのだが、ナラティブ(物語)による対策には違和感をぬぐい切れない。
まずは、本書についてまとめると、
リベラリズムとは、一言で言えば「個人の自由と権利を、国家や集団の強制から守り、理性的に対話して社会を運営しようとする思想」だ。
そして、その中心には4つの大きな柱がある。
☆リベラリズムの4つの柱
1. 個人の尊厳と自由(Individual Liberty)
リベラリズムの出発点は「個人」だ。誰の人生も、王様や宗教、あるいは多数派の意見によって勝手に決められてはならず、「自分の人生は自分で決める(自己決定)」という権利を何よりも重んじる。
2. 「理性」への信頼(Reason and Rationality)
これがエンポリの議論で最も重要なポイント。リベラリズムは、人間は言葉を尽くせば、共通の「事実」に基づいて「論理的」に合意に達することができると信じている。暴力で解決するのではなく、「話し合い(熟議)」で解決するのがリベラルな社会のルールだ。
3. 法の支配(Rule of Law)
「権力者は何をしてもいい」という独裁を否定する。
憲法や法律によって権力を縛り、たとえリーダーであってもルールに従わなければならないという考え方だ。
これにより、「予測可能な社会」が作られる。
4. 寛容と多様性(Pluralism and Tolerance)
「自分とは違う意見や価値観を持つ人が隣にいてもいい」という考えだ。真理は一つではなく、異なる立場の人々が共存することこそが社会の豊かさであると考える。
☆リベラリズムの「弱点」としての誠実さ
リベラリズムは、ある意味で非常に「行儀が良い」システムだ。「反対意見にも耳を貸そう」「エビデンス(証拠)を確認しよう」「ルールを守って手続きを踏もう」
しかし、エンポリが描く「捕食者」たちは、この行儀の良さを「弱さ」として利用する。
リベラル側が丁寧に事実を確認している間に、捕食者たちは嘘を100個並べてSNSを炎上させ、人々の心を掴んでしまうからだ。
つまりリベラリズムは「大人のための、知的な忍耐を必要とするシステム」なのだが、AIとSNSが「子供のような原始的な本能」を全開にさせる現代において、そのシステム自体が非常に苦しい立場に立たされている、というのがエンポリの捉え方だ。
そこで、エンポリが示唆しているのは、「18世紀のOS(古いリベラリズム)で、21世紀のハードウェア(AIとSNS)を動かそうとするのは無理がある」ということ。
要するに、リベラリズムは、その核となる「個人の自由」や「法の支配」という価値観は維持しつつも、コミュニケーションの手法においては「感情」や「デジタル技術」を正しく使いこなす「2.0」へのアップデートが求められているというのだ。
リベラリズムの最大の弱点は、政策を「数字」と「エビデンス」だけで説明しようとすることだ。これに対し、捕食者は「怒りと共感の物語」で語るが、エンポリは、それに対して、 正論を振りかざすのではなく、「自分たちはどんな社会を目指しているのか」というワクワクするようなナラティブ、あるいは心に響く物語を再構築する必要があると主張しているのだ。
要するに、エンポリは、理性だけでなく、感情(情動)の土俵でも戦えるナラティブ(物語)のような準備が必要と考えているのだ。感情という、捕食者側の土俵に乗るということだ。
しかし、私は、エンポリが描く「捕食者」の時代も、実はすでにナラティブは飽和状態に達しつつあるような気がするのだ。
そして、特にデジタルネイティブ世代にその兆しがみえているような気がしている。
「デジタルネイティブ」と呼ばれる世代にとって、SNSはもはや魔法でも何でもなく、ただの「日常の背景」であり、同時に「面倒な劇場」でもある。彼らが持っているその面倒という「冷めた視線」こそ、実はエンポリが危惧した「AI帝国」に対する最大の防御壁になるのかもしれないと思っている。
なぜ今の若い世代が「冷めて」見えるのか、そしてそれがどうリベラリズムの希望に繋がるのか、
1. 「魔法の裏側」
以前の世代にとって、SNSで「怒り」や「感動」が拡散されるのは衝撃的な体験だ。しかし、今のネイティブ世代は、それが「誰かの演出」や「アルゴリズムの計算」であることを、理屈ではなく肌感覚で知っている。
「あ、これバズ狙いの炎上だな」「この感動ポルノ、裏に広告主がいるな」「この政治家の発言、切り抜きでしょ」このように、情報の背後にある「意図」を瞬時に見抜くメタ的な視点を持っている。これは、一種の「認知的免疫」が形成されている状態だ。
2. 「公的な広場」への絶望と撤退
エンポリが指摘した「カオス」が起きているのは、主にX(旧Twitter)のようなオープンな広場だ。しかし、今の若者はそこを「戦場」として避ける傾向がある。彼らは、自分のプライバシーを切り売りしたり、見知らぬ誰かと殴り合ったりすることの不毛さに、すでに「飽き」ている。代わりにより閉鎖的で、より少人数の、信頼できる「身内」との対話(DiscordやDMグループなど)を重視している。これは、「ナラティブの洪水」から自分の身を守るための避難でもある。
3. 「冷笑」という名の防衛本能
それを「冷めている」と感じるのは、彼らが「熱狂することのリスク」を本能的に回避しているからかもしれない。リベラリズムが「理性」を重んじるなら、この「冷めた感覚」は、情動に流されないための現代版の理性とも言える。熱狂して誰かを攻撃したり、特定の物語を盲信したりすることの「ダサさ」を知っている。
この「ダサさ」の感覚は、どんな道徳教育よりも強力な抑止力になるかも。
つまり、
第1段階: テクノロジーに圧倒され、感情をハックされる。
第2段階: その仕組みに気づき、疲れ、距離を置く。
第3段階: 冷めた視線を持ちつつ、新しい形の「誠実なつながり」を作り直す。
デジタルネイティブ世代は、第2段階から、第3段階に移行しつつあるのかも。
つまり、今のSNSも、そういつまでも今のような拡散性も影響力も持ちえないかもしれない。デジタルネイティブ以外の世代でもSNSから距離をおく人々も増えてきている。
☆「冷めた視線」が作る新しいリベラリズム
「今の世代の冷めたところ」は、実は新しいリベラリズムの大きな武器になる。
かつてのリベラリズムは、どこか「熱く、重々しい」も。しかし、これからのリベラリズムは、もっと「軽やかで、疑い深く、でも一線は越えない」というスタイルになるかもしれない。
旧: 「全人類は一つ!理想を語ろう!」(大きな物語)
新: 「とりあえず、変なアルゴリズムに踊らされるのはダサいよね。嘘はやめようよ。」(等身大のリアリティ)
この「冷めた」感覚があるからこそ、カオスの技師たちが仕掛ける「熱狂的な分断」の罠にかかりにくくなる。それは、知性が「進化した」というより、「学習して、スルーする術を身につけた」と言えるのでは。
☆まとめ 新しいリベラリズムとは
それは、「人間は賢くないし、世界はカオスだ。でも、だからこそ、最低限のルールと誠実さだけは手放さないでおこう」という、非常に控えめで、でもタフな知性のあり方かも。
「ナラティブ」のような、人を操る手法を嫌う私のような違和感ある感覚は、この「新しいリベラリズム」の誠実な部分と深く繋がっているように感じる。
少人数や小さなグループ内からの新しいリベラリズムがリベラリズム再生の再スタートになるのかも。
しかし、それが微かな希望にしか他ならないということも十分意識している。