「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」二人の人間が、内戦の危機から日本を救った。
 

■■ 転送歓迎 ■■ No.3412 ■■ R06.01.30 ■■ 4,183部■■


■1.「天下の太平を祈る」

 慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いに負けて江戸に戻った将軍・徳川慶喜は、2月13日の払暁、ひそかに江戸城を抜け出し、上野の寛永寺で、ひたすら恭順の意を表して謹慎していた。

 慶喜を追って薩長の官軍はすでに駿府(静岡)に入り、江戸を攻撃せんとの構えを見せていた。一方、幕府の方でも主戦論者が、将軍を擁して薩長と一戦すべし、と訴えていた。

 その最中に、山岡鉄太郎(鉄舟)は将軍に呼び出されたのであった。将軍は官軍の大総督宮に恭順の意を示したいと思ったが、警備の任にあった高橋泥舟から、そのような大役を果たせるのは、義弟の山岡をおいて他にはいない、との推挙があったからだ。

 この時、山岡は33歳。身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢で、剣禅一如の精進を続けていた。

 御前に現れた山岡に、将軍は、汝を呼んだのは「駿府の官軍に対し、慶喜の恭順謹慎の実を貫徹せしめ、天下の太平を祈るにあり」と語った。山岡は将軍の憔悴した様子に驚き、この言葉から「余の責任は死よりも重し」と感じた。


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