• (伊藤博文を指導したウィーン大学教授)シユタインは一八四一年十月から一年半、パリに留学した。彼がそこで見たのは、フランス革命以来活発化していた社会主義・共産主義の諸運動であり、産業化の進展によって産み出されたプロレタリアートの存在、また、それと同時に促進される階級分化、階級間の不平等の強化・固定化という事態であった。このような階級間の敵対構造を放っておけば不断の革命状況を醸成することになる。
  • 行政権力が上から強力に社会改革に乗り出し、市民社会に積極的に介入することで国民間に融和をもたらし国民の福祉を増進させる。シュタインはその担い手を行政官僚に見出し、彼らを国家を担う「国家人」として養成するために「国家学」を構想した。彼の考えこそは行政国家・福祉国家の先駆といわれている。
     伊藤がシュタインから学んだのは、このように自由民権家が依拠していた理論を一歩も二歩も先取りした当時としても極めて先進的な学問であった。階級対立化状況の中で自由民権家が依拠したルソーやミルの思想は、もはや時代後れのものになっていた。
  • 伊藤らは行政の力によって国民の福祉を増進すべきというシュタインの考えに伝統的な「仁」の発想を重ね合わせようとしていた。
     ただ、シュタインの理論は当時としては故国ドイツには全く受け入れられず、この頃、シュタインは全く孤立していた。その時、シュタインの目の前に現われたのが伊藤ら一行であり、シユタインは好機到来とばかりに、自らの理想の国づくりを明治日本に託そうとしていた。
  • シュタインは渡日を断ったが、その後も日本から訪ねてくる政府関係者や留学生を極めて懇切に指導した。また彼らの口から「ヨーロッパに行くならシュタインを訪ねよ」ということが語られ、当時、「シュタイン詣で」なる社会現象があったほど、シユタインは日本人から頼られた。明治天皇もまた侍従の藤波言忠を派遣してシュタインの計三十三回にわたる憲法講義を筆録させ、間接的に聞いたほどである。
  • (シュタインの講義)「開明に熱心なる国家が改良進歩を試むるには、……国風すなわち歴史上の慣例を保ち、これによりてもって道義すなわち宗旨上の教化を助け、……この国風道義の両器具をもって愛国の精神をも養成すべきなり。
  • シュタインは、このように国家の進歩改良にあたっては「建国の大体」や「慣例教化」を重視し、決してそれを損なってはならない。あくまでそれらに基づいた改良が必要であって、その点に留意しないで唐突にそれをやれば国家は混乱に陥るだけだ、と拙速な西洋近代化を戒めたのであった。

八木秀次『明治憲法の思想』、p98