- ルソーの一般意志の議論にも示されているように,フラン
ス革命は個人の意志と共同体の意志を,あまりに直接的に結び付け
るものであった。ジャコバン派による恐怖政治も,自らこそが人民
の意志を代表するのであり,敵対する者はすべて人民の敵であると
いう論理に基づいていた。
しかしながら,個人と共同体との関係ははるかに複雑なものでは
ないか。ヘーゲルは,個人がいかにして国家へと媒介されていくの
かを問題にしていった。 - ヘーゲルは,国家を単に個人の利益を実現
するための手段とみなす立場を批判し,そ
のようなとらえ方を外面的国家と呼んだ。政治社会の設立を個人の
所有権保護に見出す社会契約論も,結局のところ,国家と個人を分
離したものとして対立的にとらえている。これでは,いつまで経っ
ても国家と個人の深い内面的なつながりは生まれないとヘーゲルは
考えた。 - もちろん,人間には欲望がある。とはいえ,ただ欲望に突き動か
されるばかりでは,結局は欲望の奴隷であり,自由ではない。単に
欲望に流されるのではなく,むしろ理性の命令に主体的に服従する
ことが自由である。それゆえに,理性の支配と人間の自由は決して
矛盾するものではなく,むしろ両立するとカントは考えた。 - ヘーゲルが普遍性
の担い手と考えたのはあくまで,国家の統一性を体現し,最終的な
意思決定の主体となる君主権と,市民社会の諸利害から中立的な官
僚による執行権であった。 - 個人の自由と権利の
実現をめざし,そのために人民主権をめざしたフランス革命は,な
ぜ恐怖政治に陥ってしまったのか。このような問いを探究する中で
自由主義者たちが注目したのがルソーであった。 - トクヴイルは「多数者の暴政」や「民主
的専制」といった言葉を用いたが,これ
は伝統的なTyrannieやdespotismeの概念を,君主ではなく,多数
者やデモクラシーと結び付けたものである。民主的社会においても
なお,個人の自由が抑圧されることがある。自由にとっての新たな
危険性をトクヴィルは指摘したのである。 - デモクラシーを専制に陥らせず,むしろ自
由と両立させる道は残されていないのか。トクヴイルはその鍵をア
メリカに見出した。
第一は自治である。アメリカにはニューイ_ングランドと呼ばれる
地域を中心にタウンシップと呼ばれる自治があった。地域
の問題に住民自身が取り組む自治を通じて,人々は身近なことから
公共の利益を知るようになる。アメリカのデモクラシーを支えてい
るのは,一般の人々の日常的な実践であるとトクヴィルはとらえた。
第二は自発的結社である。デモクラシーの社会において,伝統的な
つながりは失われ,それを補うものがなければ個人は孤独に陥る
ばかりである。トクヴイルが着目したのが,自発的結社の技術であった。
アメリカにおいて,人々はあらゆる目的に応じて結社を作る。
個人主義を克服する鍵を,トクヴィルは結社に見出したのである。 - 人間の快楽には質的
な区別があり,むしろ個人の多様性や個性こそが価値であると考え
るようになった。
このように考えたミルは,『自由論』において,自由は個人の発
展にとって不可欠であると論じた。 - トクヴイルと同じく,個人の自由への脅威は国家だけではないと
考えたミルは,「多数者の暴政」を批判し,意見の多様性を認めず,
個人を隷属させる社会の同質化圧力を告発した。また,政治に参加
することで,人々が公共の事柄を学ぶという政治教育の効果にも着
目した。個人の自己陶冶による能力の開花にこそ,ミルは期待した
のである。
宇野重規『西洋政治思想史』
伊勢雅臣の本