芭蕉は木曾義仲を敬愛した。そして詠んだ。

 

「木曽の情 雪や生(はえ)ぬく 春の草」

 

芭蕉は、「無名庵」と称されていた頃からここ(大津・義仲寺)で句会を催し、死後の墓所は義仲寺の、それも義仲の墓の隣にと早くから決めていた。

 

夏草や強者どもが夢のあと

五月雨の集めはやし最上川

荒海の佐渡によこたう天の河

無惨やな甲の下のきりぎりす

旅に病んで夢は枯野を駆け廻る

 

 だがこれらを味わって読み返すと、「夏草」は中尊寺であり、「甲の下」は「奥の細道」で小松の多田神社に斎藤実盛という武将の甲だと聞いて詠んだ。

 

保田与重郎「我国人の具体的な歴史と風景に触れて、国人として泣き悲しみ憧れた」。

 

保田輿重郎『芭蕉』(講談社学術文庫)

 

「宮崎正弘の国際情勢解題」 R030118