日清戦争での犠牲者は戦死者は1417人である一方、病死者は1万1894人であった。コレラ汚染が特に著しいという報が入る。明治28年6月から8月末までに23万人が400艘以上の船舶で凱旋してくる。戦争に国力を蕩尽していた日本の緊急事態である。

 

陸軍次官・児玉源太郎が事態対処の指揮官であった。

ロベルト・コッホ研究所に留学経験のある内務省衛生局長の後藤新平に着目、抜擢。

 

検疫の場所には、広島宇品の似島、大阪の桜島、下関の彦島の3つの離島を設定、兵舎の造営はもとより大型の蒸気式消毒罐と呼ばれるポイラーを導入しての対処を決意。

 

1日に600人以上の兵士を消毒罐の中で15分間、60度以上の高熱に耐えさせコレラ菌を消滅させるという設計であった。船舶消毒、沐浴、蒸気消毒、薬物消毒、焼却施設を整え火葬場まで建設した。勝利の錦を故郷に飾りたいと帰心矢の如き兵土たちに憤懣が募る。指揮を執る後藤に対しての非難には轟々たるものがあった。これを制したのは果断をもって知られる児玉の機略と権威である。

 後の記録によれば、3つの離島の検疫所で罹患が証明された兵士の数は、真性コレラ369入、擬似コレラ313人、腸チフス126人、赤痢179人であった。この数の罹患者が検疫なくして国内各地に帰還していった場合に想定される事態の深刻さはいかばかりのものであったか。

 

後に、後藤は台湾総督として赴任する児玉に同道、総督府民政長官として植民地経営史に名を刻む事業を次々と展開していった。

 

わが国の指導者、指揮官にはその並大抵ではない苦労がやがては報われ、新しい日本モデルの構築へとつながるのだという気概をもって事態に対処してほしい。新しい地平を拓いた者の名誉は、後世の人々がこれを必ずや大いに顕彰するにちがいない。

 

「緊急事態への対処 明治の教訓」渡辺利夫、『産経新聞』R020319