誰かの権利はそれ以外の人の義務であるという、権利と義務の論理的関係である。
 たとえば、表現の自由すなわち自分が思うところを好きなように表現する権利は、この表現行為を邪魔してはならないという義務を他人に課している。また、健康で文化的な生活を営む権利は、こうした生活が送れるよう支援する義務を他人に課している。

 

基本的な人間の権利があるとすれば、当然、「基本的人義」とでもいうべき、それに対応する基本的な人間の義務が存在する。
権利の拡大は、同時に義務の拡大をもたらすことで、我々の自由を制約し、耐え難い状況を引き起こしかねない。

 

義務にはふたつのタイプがある。ひとつは、他人が権利を行使する際、それを邪魔してはならないという消極的義務。もうひとつ
は、他人の権利行使に対応して、なんらかの行動を強いられる積極的義務である。
人間として生まれた以上、自らの幸福を自由に追求することにお互い最大限の考慮を払いあうべきであろう。したがって、他人に消極的義務を課すだけの、表現の自由、身体の自由、結社の自由などは、まさしく基本的人権といってよい。

 

一方、積極的義務を他人に課す基本的人権を想定することは難しい。積極的義務を果たすには、おカネがかかる。国家の義務と言ったところで、国家は打ち出の小槌ではなく、個人から強制的に徴収した税金を配分しているにすぎない。

 

愛知トリエンナーレに関して言えば、表現の自由という基本的人権が要求するのは、気に食わなくとも好きにさせるというところまでである。それ以上の義務を他人に課すものではなく、支援しないからといって基本的人権を侵害したことにはならない。

 

「基本的人権と義務は表裏一体だ」福井義高、『産経新聞』R011025