今、我が国では、医療従事者と家族が「延命至上主義」に走り、短絡的に医療を押し付けて、かえって、本人に無用な苦しみを与える過ちを犯しているのではないでしょうか。

2000年の三宅島噴火で避難して来た認知症のおばあさんが、入所5年目を過ぎたころに誤嚥して肺炎を併発した時のこと。口から食物を摂取できないため経鼻胃管で栄養を補給したところ、島から来た息子さんが泣きながら私に訴えたのです。「島ではこんなことはしません。水だけそばに置いておきます。本人に生きる力があれば、自分で手を伸ばして水だけ飲んで1カ月は生きます」。それを聞いて私は思いました。自分たちが当然のことと思っていた医療行為が、いかに人の心を無視した一方的な押し付けであったかと。

マツさんはもう水さえ受け付けません。目を覚ますことなく、いつまでも眠り続けました。そして10日後、まるで眠りの続きをまどろむように、そのまま静かに息を引き取りました。それは、初めて私が目の当たりにした自然な最期でした。私は感動しました。何もしないとこんなに穏やかに逝けるのかと。私は、この素晴しい自然の最期の仕組みは、まさに神の恩寵だと思いました。「食べないから死ぬのではない、死ぬのだから食べないのだ」という三宅島に伝わる考えを、私はマツさんの旅立ちに重ね合わせて、ここに真実があると知りました。

自然死の場合は、〃自然の麻酔〃がかかるのです。徐々に食べなくなって、最期には水分も栄養も受けつけなくなって、眠って、眠って、苦痛なく旅立たれるのです。食べなくなるというのは、体の中の余計なものを片付け、捨てて、捨てて、身を軽くして天に昇るためなのだと知りました。水分をほとんど取っていないというのに、最期まで排せつがあるのですから。

「『平穏死』を迎えるために延命至上主義からの脱却を」石飛幸三、『エコノミスト』H310229