この「世界史的必然」としての新覇権文明・中国による日本の併呑-これこそが、端的に、今日本が置かれてゐる「危機」に他ならない。ところが、私は、日本の知識人がそれを、「危機」=「転機」として、明確かつ痛切かつ俊敏に自覚し、主体化してゐるとは到底思へないのである。

とりわけ懸念されるのは、保守派の議論が、過度に、中国蔑視論、崩壊論に傾き続けてゐることだ。中国が親日的な民主国家に生まれ変はる可能性はない。全周を敵性国家、民族に囲まれた十五億人の多民族国家の統治が、西側民主主義で可能なはずがないからである。むしろ、軍閥を単位とした、混乱・分裂した中国になるであらう。経済力を持った北朝鮮が幾つもできるやうなものだ。

日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益ではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。しかし、言ふまでもなく、その中国共産党の長期戦略こそは、事実上の日本の属国化に他ならない。

日本においては持続的な対外「危機」は白村江の戦ひまでであり、その後、我々にとっての「危機」は、日本の内部における権力争奪戦に限定されてきた。しかもその際、日本人は思想戦を一度も戦ってゐない。我々は、一方で極めてプラグマティックに権力構造上の処理をしながら、政変の究極の根拠を天皇に置くことで、「危機」に対処し続けたからだ。

プラグマティズムと天皇理念ーこの往還で安定した国柄を生み出してきたのは日本の智慧である。だが、逆に言へぱ、我が国の天皇理念は長期的な対外戦争や終結の見込みのない他者との主権争奪戦を、一度も経験してゐない。

知識人らの「思想」の営みが欠如してゐる中で、この安倍ドクトリンは、現実への有効な処方菱であるのみならず、外交思想としても高く評価されて然るべきであらう。しかし同時に、それが対処療法
として生まれたものであり、世界史の現実に早晩追ひ越されるのは
確実だといふ点も看過してはならない。

相変はらず日本が負け続けてゐる核心も、ハードパワーによる尖閣の脅威や沖縄の情報工作といふ局所戦以前の、愛国を軸にした知識人の育成と世界への展開といふ、人間力そのものに勝負させるソフト戦術面での極端な立ち遅れにあるのではないか。現に、米・欧・中・日といふ世界の四軸の一種でありながら、世界論壇における日本の存在感は無に等しい。

「『危機』と『知識人』」小川榮太郎、『正論』H3003