上越物語~夢への一歩 -112ページ目

職人のパパ~回復

父の意識も回復して点滴もひととづつ取れていき、1週間程度すると体調はだいぶ回復しましベッドは、徐々にまた入口付近に移動したのですが、救命センターにあまりに長くいすぎたため、父はぼけてしまいました。
救命センターは、24時間動いていて、生死をさまよっている人が沢山やってきてそれを24時間見続けたのが原因だったのでしょう。
強靭な神経の父もさすがに精神的に疲れてしまったようです。
30分間の面会時間の中で父が「天井に白い点があって迫ってくる」と言っていました。
回復したある日のこと、面会時間に救命センターの外に出たがり、車椅子を借りて先生の付き添いのもと外に出ると売店に行きたがりました。「何をしたいの」と聞くと、タバコを吸いたかったらしく、タバコを買うことができないとわかると「帰る」といって父です。その父の執念はすごいと思った。

救命センターから出なければならないときがやってきました。
もう元の病院に戻されることも受け入れようと覚悟を決めていると、先生から「一般病棟に移します。」言ってもらいました。ほっとしたのを覚えています。
そしてもうひとつ先生から「僕は明日から北海道に転勤になります。最後まで診ると言っていて最後まで診れないことが残念です。」と言い残して大学病院から彼は去っていきました。

嬉しくてホットしたのと同時に悲しかったのを今でも覚えています。先生に申し訳ない気持ちで一杯でした。
父の件で、先生の将来をもしかしたら台無しにしてしまったのではないかと今でも心の中で「ごめんなさい」そして「ありがとうございます」という気持ちでいっぱいでした。

一般病棟に移ったある日何週かんぶりで、廊下でばったり教授の先生と会いました。
教授から「お父さんは、我慢しすぎてしまったのだよね。もう少し早かったら…」と話をしてもらって、私はただ、「父をよろしくお願いします。」としかえませんでした。

私はその時あまりに、悔しくて悔しいと思うことすらできませんでした。

父の一般病棟での生活も2週間くらい過ぎたころ、看護婦さんから「これ以上病院にいても変わらないから、家に帰って自宅療養したほうが、お父さんお予後のためにもなるのではという話をしていただきました。」

そして父は、2000年8月15日に大学病院を退院しました。

はじめに 長い闘病生活のはじま 手術の翌日 手術の翌々日 急変 回復 退院 驚異的な回復力
運命を変えたテレビ

職人のパパ~急変

父がどうにかもう少し大学病院にいられないかと、知り合いの力のある人に相談すると、病院に置いてもらえるように話をしてくれることになりました。

何の変化もなく数日が過ぎ、私自身の中ではやれることはやったし、父の傷口も癒え流れに任せて元の病院に戻ることも受け入れていたときの面会時間にありえない様な事が起こりました。

手術前には、癌が腸を破壊してほとんど腸がなくなっていても痛いといわなかった父が「お腹が痛い」と訴えてきたのでした。
そのときに頬はげっそりとやつれていました。

不振に思い近くにいらっしゃった、前の病院から父を連れてきてくれた先生に「なんだか父の様子が変です。おなかが痛いといっているのですが大丈夫でしょうかと聞いてみました」
先生はポツリと「さっき教授が来ておなかぐりぐり押していたからそれでかな」と

先生に「大丈夫でしょうか」
と聞くと、先生は「大丈夫でしょう」と答えられました。

また先生から「君の希望とおりお父さんをもう少しここの病院に入院していてもらうことにしたよ、
よかったでしょ」といわれました。
自分の行動で病院が動いたことにびっくりしたことと、後ろめたさがあり、私は「ありがとうございます」としか答えられませんでした。

次の日の朝、病院から電話で「お父様が夜中から急変して、夕方から手術したいので許可をください」とのことでした。

私と兄は、仕事を早退して、お昼ころから母を連れて病院に駆けつけると、父のお腹は夕方までもたず、腹膜炎を起こし、破裂して助教授による緊急手術がおこなわれていました。

その日は忘れもしない兄の誕生日でした。

手術は、7時間にも及ぶ大手術になり、父は一命は取り留めたものの、私のやったことで死に掛けている父をさらに死のふちまで追いやってしまったことの後ろめたさで一杯になりました。

父は、また救命センターに戻って、一番入口に近い軽傷者のベットから、奥の重病者がいる場所へと移されていました。

父の体には、9つの点滴がつけられていて、自分がしてしまったことの恐ろしさから、本当だったら教授を訴えることもできましたが、ひたすら父が目覚めてくれないかと祈るだけでした。
そして、私の中にあったもうひとつの感情はこのまま死んでくれたらどんなに楽だろう。
父の末期がんは、何も変わっておらず、意識が回復したとしても治ることはなくいずれ近い将来、同じ思いをするならせめて今死んでくれたほうがどれだけ楽だろうか。
と本気で思っていました。

1、2、3…と数えると、緊急手術を終えた父の体には9つの点滴があり、前の病院から父を連れてきた先生がこん睡状態にいる父を前に「お父さんはわざと眠らせています。起こすこともできますが、かなりの痛みを伴うので寝ています」という説明でした。

そして、しばらくすると父のベッドの周りに看護婦さんやほかの先生方がいなくなったときに、先生は人がいないのを確認して「この病院にいれてよかったね」といってくれました。
彼のこの言葉が私の救いとなりました。

そして、この先生が唯一のこの病院の父の病状を本気で思っていてくれる主治医だと再確認しました。

先生に「父をよろしく願いします」とお願いして帰路につきました。

大学病院から、帰りの地下鉄に乗るまでの道では、毎日悔しい、悲しい、自分の無能さをかみ締めていました。
家に帰ると母と仕事と自宅の仕事を沢山のやることが待っていて、泣いている暇もなく、あの大学病院から地下鉄に乗るまでの帰り道に出何度も涙たことが苦い思い出になっています。

そして、救命センターにいる父は1日、1日、回復をしていきました。9つあった点滴も1つ2つと取れていき、後は意識の回復を待つばかりとなりました。

意識が回復して、お見舞いに来てくれた人に最初に父が話していたことは、「自分のベッドの周りにすでに死んだ親戚やお友達などが沢山集まっていて自分のベッドを取り囲んでみんなが見つめていた」「そこから川を渡ろうとしたら2人の友人に手を引っ張られて川を渡らなかった」と話していました。すごい生命力の父です。

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運命を変えたテレビ

今日はオフのはずだったのに…

やった~

23日は完全オフ!

って

福ちゃんは、土日休みだし(イエイ

美佳さんは、御用があってこないんって(やった~

何日前から、一日寝ていようと思っていたのに…

日程表にも休みって書いていたんだけど、

どうしても夕方からやらなくってはいけない緊急が発生して、休みは午後の3時までになりました。

3時まで、ウダウダと寝てました。

寝るのが大好きな私です。