本日は鯖弁当。

冷凍のつくねは保冷剤役も兼ねて。


なかなかご飯の量が定まらず
息子と軽く言い合いになる。
小さい頃はこれでもか、というくらい大盛りにしていれば良かったが、
どれくらいがいいの?と聞いても
どれくらいでもいいと言われ
足らないかな、と自信がないときに足して盛ったら、重かったらしく
じゃあ減らすってどれくらい減らしていいかわからんと言うとどれくらいでも減らしていいといわれ、もう訳がわからずくじけてきた。


疲れ果てる親を尻目に
息子は高校生活を
わきめもふらずに楽しんでいる。
本人は忙しすぎてしんどい、などのたまうが
皺シミまみれの
よれよれの疲れ果てた母親からは、ひたすら輝いて充実しているようにみえる。


演劇部に入り、
1年生ながらもオーディションを経て
役をもらい、
先週末に公演があるとかで、
毎日夜遅くまで部活に取り組んでいる息子。
ずっと本の虫、ゲーマーとばかり思っていたが、
いつのまにかそうなっていた。


声も顔もいきいきとして、
「ああ、今、まさに青春まっただなかなんだな」と思う。
一生懸命取り組む、夢中になる。


苦しさも楽しさもすべて
充実した「一瞬」の中に。


夢中になって、何かをやれるなんて素敵なことだ。
歳を取るとなかなか夢中になれることなんてない。



ギルバート・グレイブという映画があった。
まあ、若くてきれいなジョニーデップと
幼いディカプリオの奇跡の共演。







障害をもつ弟、レオナルドディカプリオにふりまわされる兄がジョニーデップ。


母親は食べることで、
あらゆる問題から逃げ回っている風。



息子を気にかけるが、口で命令するだけ。
自分は自分ですら、思うように動かせない。


そんな母親が死ぬ直前
家に縛られていた母親自身、
母親が家に縛っていた?今でいうヤングケアラーのような
ジョニーデップ演じる息子に対して、


お前はまぶしく光り輝いている、 Shimmering glow.



みたいなことを言うシーンがある。



光り輝く息子。
寂しくもあり、誇らしく。
もう光を失い、家と共に朽ち果てようとする太って醜い母親。




若い輝く命はまるで内側から発光するようだ。
私からみれば息子も、羨ましいほどだ。



自分はどうだっただろう。
そう思い出すと途端に惨めになる。



私が息子の歳のころ、
いつも母親の機嫌は悪く、怒鳴られるのは私で
妹は夜遅くまでテレビを見ていようが
髪を伸ばそうが何をしようが自由だった。



阪神の震災で家は朽ちたまま。
斜めのまま住んでいた。
老後のためだとか、なんだかんだ金はあるのに直しもしない。
いつか嫁にいく娘に金を使うのはもったいないそうで。
年収一千万超えの父親はいつもそういって外でおいしいご飯を゙食べて帰ってくる。



家ではもらいものの、
虫のわいた臭い古米だ。




さらには、うちの糞母親は
「私だけ」を惨めにするのが好きだった。 



この「私だけ」というのがポイントだ。


姉妹共に、だと
ただの横暴で陰険な母親だが、
姉だけであれば、
「お前は頭がおかしいから」
「お前は頭がかたいから」
「お前は劣っていて、どうしようもないから」


何か「私側に理由」があって、虐めることができ、
しかもそれは親として正義であり、正しく、「気持ちいい」ことだからだ。


いつも私は、あっちがゴールだから走れ!と言われ
慌てて走り、ゴール間際で、
「こっちなわけないでしょ!あっちに決まってるのに」と言われ
また逆方向に走る。
そんな感じだ。
振り回され、右往左往し、ただ疲弊し、自分を見失っていく。
輝いていていていいはずの歳は
混乱の泥の中に沈んで浮き上がることすらできず
毎日消えたい、いなくなりたいと思っていた。


いつも家族の機嫌に振り回され、
自分の「好き」や「興味」など何ももつことができなかった。


着る服は母親が決める。
私の「好き」も「嫌い」も母親が決める。
髪型も体型も友達も糞母親に従うべき案件。
妹は何も言われない。


妹は自分で選んでいい。
私が間違えば「色気づきやがって」と毒づいては
娘が惨めで、汚く、みすぼらしくあるのが
お好きな母親だった。


そんな風に育った私は、自分が毒にしかならないと知っていた。
だから、なるべく悪影響の及ばないところで息子が大きくなるのを眩しく遠目で見ていたようなものだ。


子どもが輝いてみえる。
羨ましいほどに。


それは、いきいきと自由にふるまい、
こちらに目もくれず、親なんかに意識を向けず、
感謝もせず、一直線に好きなことに向かって進んでいる。


そんないい笑顔のそばでは
毒親は惨めでしかない。それで正解だと思っている。


本当の毒親は
そんな風に自分が惨めになりたくないから子供を惨めにする。無意識に、やる。
子どものために、といって
振り回され必死なフリをして自分が注目され輝くのが目的だ。


孤独になりたくないから、自分と同じ「惨めさ」の中におく。
うちの糞母のように。



そうすることで自分の惨めさや孤独と向き合わずに済む道をよしとする。


私は手のひらにのせて
じっくり自身の惨めと向き合ってきたので
息子が輝いて去っていくのは
楽しみでしかない、といえば嘘になる。


が、自分の毒をも跳ね返す
眩しさを子どもが持つことができたのなら、
私の汚れが及んでいない証拠だから
やっぱり良かったと思う。