今日はキーマカレーと

昨日見失ったちくわ参上、ハムとシソくるくる

にした。



朝の情報番組で

夫婦がずっと共働きだった場合の世帯年収と年金額、

片方、嫁側が仕事を辞めた場合の差を図で示して暗にさあ、働けといっていたが

そんな単純な机上の計算ではかれるかよ、とは思ってしまった。

女の自立だとか、会社側の支援だとか。

女が資本主義の世界から離脱して、

子どもとその周辺、妖精やら蛙やらと仲良くすると何が困るのか。



専業主婦がいて、家族が笑顔ならそれでよく

共働きでも子どもに負担がかからないならそれでいい。



だが、実際はフルで夫婦が働いた場合、

業界にも寄るんだろうが

一切残業や急な対応などがない正社員なんかあるんだろうか。

公務員じゃあるまいし。



保育園はいい。

保育園なら手厚いし会社側も時短やらなんやらある。

小学校以降はどうだろう。



子どもが急に病気になったりはもちろん、

心と体のケアは本当に母親が働いていてなんとかなるもんなんだろうか。



大人側の盆休みは5日くらいでも

1ヶ月以上ある夏休み、学童だけで事足りるんだろうか。

(うちは学童合わず、毒親実家義実家たよれず)

実家、義実家に頼れない家は少なくないはずだ。



机上の計算で

はかれない家族の形。



金の上では共働き万歳、でも

暮らしの上では成り立たないからパートや

主婦なんてそんなことは選択肢としてあっていいのに。



なかなかの働け、

働いて税金払え、の圧力だなと思う。

(ちなみに私は専業主婦ではない。自分の稼いだ金で酒飲みたいという理由で)

働きたい人は働けばいいし

働きたくない人はズルいなどと白い目で見られることなく

放っておけばいいし、

働くこと以上に大事にしていることがあれば配偶者控除あたりが狙われる。


 


都会が花ならば農村、漁村は根である。

根から吸いあげた養分で花がぜいたくなおごりを営むように、都会は農漁村から吸いあげた物資で生活の装飾を続けている。ところで植物ならばそれでよいのだが、人間は植物とは違うのだ。




上は『赤い蝋燭と人魚』などの児童文学を書いた小川未明の言葉だが、都会とムラだけでなく、経営者と労働者、親が子どもを一方的に搾取し続ける毒親が支配する昔のやべー家族含め、そういう一方的な関係は続かないと思っている。



「食っている」を自覚して、あとあと食わせるか。

「食われて」誰かの栄養となり、養分となることを自ら選びとって喜びとするか。



8歳の岡本太郎が漫画家で売れっ子だった父親の岡本一平に対して「今まで母さんが食われてきた。今度は父さんが食われる番だ」と言い、それ以降、岡本かの子は小説家、歌人として花開いていく。



岡本一家は特殊にしても、

自立した関係、共依存じゃない関係というのは

毒親育ちほどピンときていないんじゃないか。

形は一見似ているようでまったく違う。


そう考えると、

みんなが食ったり食われたり、お互いさまで呑気にやれるなら良いが

母親になると、トタンに呑気を許さない人も多く、

子どもが絡むと呑気にしてたらなかなかバッシングくらったりする。



「苦労自慢」やマウントの取り合いになりがちなのも、私こそ搾取されている、と誰もが思いがちだからだろう。



昔、子どもなんかもちろん生む気もなく

私自身、仕事だけできたらいいという価値観で生きてきた。



ずっと結婚願望も皆無で
子どもなんか見るのも嫌、小さい子をみて
「キャワイイィ〜」なんて黄色い声で叫ぶ同級生の女の子たちに内心けっ、と思っていたほど子どもが苦手ではあった。


大人になっても、
虐げられていた子ども時代の記憶は曖昧で混沌としており、
どんな親でも親に感謝するのが当然で
親のせいにするやつはただの甘えだとすら思っていた。


その上、仕事、仕事、仕事に逃げ込み
三度の飯より酒を煽るように飲み、
帰りは缶チューハイ片手に終電で帰るような片足以上、オッサン化した女だった。


結婚なんてしたら最後、
キッチンドランカーでアル中まっしぐらですわ、アハハとみなに豪語していた。


ただ、私のそんな元々の子ども嫌いは
自分と親の関係性に起因しているのだろう。


本心から子ども嫌いだったかどうかは今でも分からない。


20年も昔、広告営業兼ディレクターだったころ

客だった年配のマダムに連れられ

法善寺横丁にあるカウンター席のみの天ぷら屋に入った。



そこの女将とマダム二人から

なんで結婚しないんだ、なんで子ども嫌いなんだと責められ

仕事して稼がんと。子ども生んだら仕事できなくなるのが嫌、みたいなことを言うと



「何言ってるんや。20年くらい捨てたらええんや、あはは。

人生長いんやから。80年のうちのたかだか20年くらい」



と、海老反り気味で大口で笑われたのは今でも覚えている。



そのときはものすごく腹が立った。

こいつ、何言ってんねん、

自分はこの店の主で仕事しながら子どもも育てられたやろうけど、

この業界で一回離脱したら二度ともどられへんわ、そもそも長生きするつもりないし、適当なこと言いやがって、うんぬんかんぬん。



と、まあ、顔では笑いつつも、

天ぷらはうまかったが、

かなり腹が立ったからこそ、今でも覚えている。



なんで、女がキャリア捨てにゃならんのだ、と。



ただこの歳になって、

たしかにな、と思える部分もある。



捨てろ、と言われたら腹も立つが

捨てたつもりはなく、

それ以上に得られた時間があるといおうか。

仕事一辺倒では見えなかった世界。


かと言って生んだ女が偉いとも思わない。

まったく。

身体をあちらからこちらへ通過させただけで、母親は偉くない。

母性なんか幻想だと今でも思っているし

息子にも言っている。

他人さまを、宇宙あたりからどこからかやってきた何かをただ通過させただけで、母親なんて偉くも何ともない、と。



子持様を勧めはしないが、否定もしない

そんな感じだ。



みんな盲目的にそれぞれ専門家もおっしゃるが

世代を超えていろんな他人と接しては

「違和感」をただ拒否するでなく

自分の内に溜めておくのもアリだ、と個人的に思う。