勉強になる本はたくさんあるが、

好きな本となると・・

 

以前はずっと、

パラマハンサ・ヨガナンダの著書であった。

 (「あるヨギの自叙伝」は精神世界に興味を持つ方のベストセラーで、

   定番中の定番であるが、今も好きな本ではある)

 

ニサルガダッタ・マハラジの本は今も好き。

 (読むという行為を通してであるが、

  L1(腰椎一番)を通して私をして整体の状態に戻してくれる。

  それはアジャシャンティやステファン・ボディアンの本もそう。

  ステファン・ボディアンといえば彼のノンディアルティの師であるジョン・クラインよりは、

  圧倒的に金森さんの本は好き。(サイトも好き)

  片面ではあるが(【風の学校】のみ)、実際にお会いした時に、

  「全く同感です。実はこれはノンディアルティのティーチャーも言っていないのだけど・・」

  という言葉に続けて仰ってくれたことは、

  青木宏之先生の生き方そして先生が新たに書き直した「十牛図」ととも同じであった。

  その部分で金森の本自体は片手落ちとも言えるかもしれないが、その意味では全くの同感で、

  まず一読しなくては【氣道の学校】(“氣道”の接心)には薦めまい。

  十牛図と禅のことを書いたが、禅の中では無いなぁ。 

  沢木興道や師の丘さん等の伝記逸話は面白いが、“雲”の姿が書かれている本なので、

  言葉を通して、即ちL1を通して整体の状態に戻すには、

  言葉が言霊としてつまり詩とならねばなるまい。

  その意味では臨済禄は実感はあった。詩として行間を読むキョウサクの感があった。

  しかし臨済たちの体癖がL3タイプなのが肌に合わないが(晴哉先生が好みなのは分かる)

  きちんとL4の“青空”実現の力は宿っている本だろう)

 

先の「私の好きな駅」同様、

こうして問われると、中々に思いつかない。

 

果たして「今、一冊の本を持って無人島に行くことになったなら・・」

うーん。

あっ、晴哉先生の本も良いが特に「整体操法」を作る前の野口法時代の本や

随筆はいい。

どれも“青空”と共にある表現であり、基本的にL4タイプの体癖なので端的な表現が多いが、

先生は“雲”の在り方、大切さを説いているのと、

その優しさから皆に分かるようにと少し饒舌なところは無人島には似合わない。

しかし個人的には大正時代や昭和初期のは持っていきたくなる文章もある。

それはカザルスの演奏が1910年代に限ると感ずるのと同じである。

 

拙著も「氣道」(写真集)の中には良いと思うものも数頁あるが、

同様の理由で持っていかない。

本だけでなくCDも持っていかない。

先の無意識③に書いた事と重なると思うが、

まず“風”に沿いたい。

それに沿える促しを私をして齎す本が上記以外に今後出てくるのかもしれない。

 

まぁ、これは現在の私という“雲”による

勝手な感受性故の呟きである。

 

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皆さんはアイソレーション・タンク(サマーディ・タンク=感覚遮断タンク)に入ったことはあるだろうか?

 

そうした宇宙空間のような「無重力状態」(無感覚状態)

に行くだけで、

様々な変容が訪れるという。

(人為的“青空”への科学的逆襲であろう)

 

それを重力のある中でも味わおうとするのが、

“氣道”であるが、

(そして重力に戻ってからも楽しもうと・・)

 

今の私にとっては無人島はうるさ過ぎるかもしれない。

 

そして都会もまた閑かなのである。

(その中で飲む・打つ・買うなどの要求があるのならその“風”に沿うことも自由)

 

そう、いつも閑か。

整体という状態は、

息深く心閑かである事は確かにそう。

 

何故ならこの世が夢であることを真の意味でしっているから。

ほんとうの自分が“青空”であることをしっているから。

そして、そこから離れることができないことをしっているから。