今日は満月会だった。

金剛さんの演奏のお蔭で、

その後の「季節の整体法」のあとの

臥禅(=寝禅=yogaでの死体のポーズ)に恙なく進み、

そして静けさが現れた。

 

金剛さんの演奏のお蔭と書いたが、

それは道場内に流れる“風”(=無意識)に依るものでもあろう。

そしてそれは、今日いらっしゃった方々によって作られたもの。

 (青空禅を提唱されている伊東医師もご参加下さった。

  11/23の講座が楽しみである)

     *11/23は、横浜道場に伊東先生をお迎えしての「青空禅」講座を開催予定!

  講座詳細は、10月末にはこちらのページでご案内します!by永井

否、それらの方々がいらっしゃることにした背後の働きに依るものでもあろう。

 

生は神々のリーラである、

とヴェーダではいうが、

私の言葉でいえば、

生は青空から吹く“風”である。

 

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今日も、無意識②で書いたことを満月会で言ったが、

別の視点からいえば、(これもよく言うフレーズであるが)

「すべてが逆」

ともいえるだろう。

そして、その逆は対極的な逆だけでなく、

それを包括するさまざまな逆もある。

多重奏な逆は線的あるいは平面的、立体的には逆で無くなることもあるが、

それらは次元による視点の違いに過ぎなく、

視点を持たなければ逆も実は無い。

 

すべては空であり、タオである。

 

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そうしたこと、

私はいろいろな本を通して知ってはいた。

しかし知識ではなく、

やはり体験というか、経験というか(その経験は個体(肉体)でするのではなくあちらとしての経験)

する意義を、

この年になってひとつ分かってきた。

 (もちろん分かるという認識は、この個体に戻った時の感覚)

そしてまた、分からさせられている。

・・というのが先の真意。

 

それは、整体操法時、演奏時、会話時に訪れる

「自分がこうしたい、ということと、そうさせられている」

との同居である。

(“雲”は“風”によって生れている)

 

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先にひとつひとつ気づく(気づかされる)こともある、と書いた。

たとえば、この個体という“雲”が、ほんとうの私である“青空”に戻ったとしよう。

そしてその後、

個体という“雲”も同居して味わったとしよう。

それはちょうど、

眠りから醒めたときに訪れる一瞬の思考の空白に似るが、

それを大切にする時、

私たちは自分の思考が働き始めることを感ずる。

 

クリシュナムルティがいう如く、

自己観察(“氣道”でいう自観法)が起こる。

そう個体としての私たち“雲”は思考の産物といってもいい。

そして、そこから感情も生れる。

 

そして同時に思考ではなく、

個体としての“雲”自身の純な要求もある。

それは肉体的な要求といってもいい。

(食欲、性欲、睡眠欲その他)

むしろこれは“青空”から吹く“風”が、

私たち個体という“雲”を通る時の自然な流れといえよう。

 

そんな二つがあるなぁ、

と感ずる時に思い出すのは、

晴哉先生のいう一側のことである。

然り。

いつも先生が仰っていたように(本としては「体運動の構造Ⅱ」にある)

一側の線は二つの流れがある。

「野生の哲学」の中では、その発見を心理学の視点から見事に解説している。

私もフロイトのいうリビドーの流れが下からの一側の線だとしたら、

ユングのいうリビドーは上からの一側の線だと30年前から言っていたが、

そうしたことを頭で理解するのでは、

晴哉先生が観察したことを元にしているに過ぎない。

 

上記の二つの人間の宿命(思考と要求)が、

そうした上から下からという一側の線に現れていると感じた

どこで思考の奴隷になっているのか、

どこで肉体の奴隷になっているのか。

そのように、この肉体という“雲”に現れているのだな

・・ということをここで言いたかっただけである。


上記は一つの例であるに過ぎないが、

文字にするとこうして長くなってしまい申し訳ない。

そう、ここで書いてあることを鵜呑みにすれば、

それまた晴哉先生がいっているから、
〇〇さんがいっているからの奴隷になることになってしまう。
申し上げたいのは、
自分で感ずること。
少なくとも感覚は確かに在る。
そしてそこを在らしめる“風”に沿っていこう。
=“氣道”(【風の学校】)
 
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それは、

「私がある → 私は在る」

への道でもある。

 

即ち、“雲”→“青空”への道である。

 

然して、私たちはすでに今生きている。

そしてこの文章を読んでいる。

この言葉を思考で捉えている。

“雲”として活発に働いている。

 

そして、その“雲”としての活発さも、

上記の如く“青空”から吹く“風”だとするなら、

晴哉先生のいうこの言葉の意味は実感できる。

「溌剌と生くる者にのみ深き眠りがある。

 生ききった者にのみ安らかな死がある。」

 

つまり“雲”としてのあがきではなく、

“青空”からふく“風”という要求に沿った生くるである。

ならば、

「私は在る → 私が在る」

そして「私は在る」に戻る道でもある。

=“氣道”(【夢の学校】)

 

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その両者の道を【氣道の学校】で伝えている。

否、どこでも伝えている。

伝えていきたい。

そんな“風”によって、

私は生れてきたのかもしれない。

 

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こうして文章にすると偉そうなことを書いているが

(そしていつもそうだろう)

まぁ、自分に言っているようなものなのかもしれない。

(そうした“風”が今吹いているのだろう)

何故なら、思うに、

「あら自分はここで不整体(つまり“風”の流れの悪い“雲”の状態)になってしまっているなぁ」

 と、それこそ“雲”として気づくことが多々あるからである。

 (飲む・打つ・買うを遺書(写真集)にもプロフィールに書いた私ですが、それらが純粋であるかどうか)

 

しかし、それも“雲”として私が気づくジャッジである。

 “青空”から吹く“風”を留めてしまう。

 

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 「天行健」

 

整体とは“青空”から吹く“風”が、

個体である“雲”の中を流れゆく状態だと定義したい。

 

まずはこう言ってみよう。(うむ。まずは)

 

 

 「大丈夫」

 

 

と。