(前回の続き)

 

その驚くべき仮説(私は事実だと思っている)に至ったのは、

つい最近のことであるが、

それにより、私は今まで謎であったことが、

氷解した。

 

潜在意識に答えを問う時、

多く夢の活用を薦めるが、

外応といって、外の現実によって答を得ることが出来るのも

その理由であろう。

バナナを思えば、今まで気づかなかったバナナに気づくではなく、

何故かそれが現れるのも然りだし、

インフルエンザやコロナは鎖骨窩で改善するが、

最初から鎖骨窩の硬結を除けば罹らないのは当然として、

その時に、部屋中のインフルエンザやコロナウィルスの量自体が変化する、

という私の仮説も、

量子力学的な考察を用いなくとも、

この考えによって氷解した。

 

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昨夜、前回の「無意識」を書き終えたあと、

(「無意識」よりも「無意識の発見」あるいは「無意識のありか」

 のほうが題名として良かったかもしれない。)

床につき、

思い浮かんだ言葉がこれ。

 

「然して その鏡から「我」を抜くと何になるか?」

 

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潜在意識の現れ、というか

内も外も実は無いため、

潜在意識そのものでもある私たちが見て聞いて感じている現実というものは、

まるで鏡の如し。

神社や神棚では鏡を置くが、

それに対する時、我(が)を抜けば

カガミ - ガ

であるから、そう神となる。

神の道の最終奥義が鏡を用いるのも然り。

(ヴェーダで生は神のリーラというのもその意味だろう。

 そう、この世はまさしく夢である)

 

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これ(上記の神道の最終奥義)こそ、

現実という潛在意識にとって、

最高の潜在意識教育といえよう。

 

しかし実際の鏡を用いなくとも、

すでにそうであるということ。

即ち生活自体が潜在意識教育の機会であるということ。

 

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ともあれ、

だからこそ人生は一人相撲(造語)

なのである。