さて、この連載の②で、

「ここでは氣道の説明を書きたかったわけではなかった。

 氣道の立処を書きたかったのだが、

 そして、それがお二人のことを語る基盤になるかと思ったのだが、

 つい氣道自体の説明で饒舌になってしまった。」

と書いたが、

いよいよ氣道の立処について書く。

「立処」といっても、そんなに大したことではない。

すごくあったり前のこと。

 

それは大きくいえば二つだけ。

事実と、私にとっての事実ということ。

 

(その順番はどっちが先でもOKだが、

 そして、皆さんはこの文章を読んでいるわけだから、

 後者のほうを先にしたほうが分かりやすいと思ったのだが、

 また、氣道の研修順番としても体が先なので、

 そのほうが氣道としては順接的なのだが、

 今日お会いした金森さんから聞いた本には書かれていないとっておきの話

 (もし、それを聞きたい方は当日(2021年7/26)質問してね)

 の流れで上記のようにした。

 ちなみに今日は私にとって第三の誕生日にもなった)

 

「事実と、私にとっての事実」

と言われても分かりにくいというなら、

うーん、

他と自(分)と言ってもいいかもしれない。

 (結局、他も自分も分かれていないので、

  こうした二つに分けて語ると矛盾が生ずるのだけど┄)

 

矛盾ついでにいえば、

 (そして、それぞれの言葉の定義によって生ずる矛盾もあろう)

それは無と有ということ。

 

体(の症状)でいえば、

外因と内因ということ。

新型コロナウィルスがあって新型コロナウィルス性肺炎になる、というのが外因。

鎖骨かに硬結という渋滞があり肝臓の機能が及ぼす免疫系の不全があるがゆえに、

つまり新型コロナウィルスに引っかかる体があるから

新型コロナウィルス性肺炎になる、という考え方が内因。

 (これは中学の時の保健体育の教科書に書いてあった。

  前者が現代医学の視座。

  後者が東洋医学の視座で氣道は概ねこちらに属する)

 

心のことでいえば、

「みんなの影響でこうなるのだから仕方ないやん」というのが前者の「事実」

「思うようになるかも」というのが後者の「私にとっての事実」。

 

繰り返しになるが、

こうした譬えは矛盾が色々な意味であるだろう。

それでも、

このように二つ並べると分かりやすい人もいると思い、

 (以下、矛盾が多いが同様に並列していこう)

 

事実と私にとっての事実。

無と有。

外因と内因。

他からの影響と自分での創造。

(ここまでは上記した)

 

絶対世界と相対世界。

タオと自我

神と私

他力と自力

水落と丹田

心と体

いのち(命)と個体(生)

風の学校と夢の学校

無意識と意識

感覚と思考(感情)

無我と無常

無為自然と有為自然

陰と陽

 

そして、

陰極まれば陽生ずの如く、

これらは円環になり、

それを創っているのが太極といわれる。

 (それ故、上記では、

  前者に太極の同義語であるタオやいのちを持ってきていることは矛盾な訳である(重要))

 

その太極の視座からいえば、

すべては運ばれている。

 (まさに「運命」である。

  否、上記の表現でいえば、いのち(命)はタオなので、

  「運生」といえよう)

しかし、生ある個体の後者の視座からいえば、

すべては創れる。

なぜなら、そう私(思考)が捉えたから。

だからこそ、すべてが自分の責任である、ともいえる。

見ているもの、聞こえてくるもの、触れているもの、

「自分(生の私)」がそう感じているに過ぎない。

 

けれども、そこに思考を交えず、

ただ感ずると前者の陰にいき、

そして┄

 

この陽から陰への運びによって生ずる感覚を色即是空という。

それを目指そうというのが求道家というものであり、

そしてそれを優しく厳しく援助しているのがアジャであろう。

 

而して晴哉師はどうか。

上記の譬えでいえば、

「無為自然」と「有為自然」の違いといいたい。

前者は老子の立場であり後者は荘子の立場であること、

文献を繙くまでもなく衆知の表現である。

 (そのため、以前の「はじめての氣道(氣道入門会)」では必ずこの表現を使っていた。

  特に公の講座であった朝日カルチャーセンターでや、早稲田大学では。)

 

けれども、

老子もまた有為自然を知り、

荘子もまた老子の視座を知る。

 

アジャと晴哉師の立場役割を私をして譬えるとそうなるが

パラマハンサ・ヨガナンダジの表現では、

それらを上記の太極の如く包括する言葉が多い。

それ故、今回の講座の視座を、

パラマハンサ・ヨガナンダジと講座案内では書いたのであったが、

それは三者の役割によることに過ぎない。

 

そして、そう私(淨潤)が捉えていることに過ぎない、

┄と、読者ののために、上記の後者の立場にたった視点の言葉も書いておこう。

そう、後者の「私が捉えているに過ぎない」からも道は大きく拓ける。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 禅でいう

 不立文字

 のことにどうしてこのように言葉を重ねるのか?

 

 幾つかの理由があるが、

 

 ┄┄と今日の日記ではここまでにしよう。

 

 明日は【心理の学校】である。⇒次回は9月の開催予定です。どうぞお楽しみに!by永井

 まさに、

 言葉を通して、

 援助する講座である。

 

 いらっしゃる皆さま楽しみに!        

 

 明日いらっしゃる方には、今日金森さんが最後に言った言葉をお伝えしよう。

 開始は12時!

 皆さんお間違えのないように。