については、ホームページでも書籍でも書いてきたことなので、
ここでは短くさせて頂くが、
一言で言えば氣の道である。
「そのまんまやん!」
と言われそうだが、
では「氣」とは何だろうか?
「道」とは?
となると、それぞれの言葉の定義(言葉の指し示す内容)になっていく。
そして、それは一般的に言われているものでも、
皆さんが各自思われているものでもないだろう。
そのため、様々な表現で、私をして語ったり記したりしている。
そしてまた、
その二つの言葉を組み合わせることによって生ずる定義も然り。
私は「はじめての氣道」などで、
「神道は神ながらの道と言われるが、
『ながら』というのは二つの意味があり、
それは「○○しながら」という時間軸の意味と、
「○○と共にある」という空間軸の意味があり、
氣道もまた然りである」
と説明してきたが、
それもまた各々の方が、
各々の色眼鏡(観念形態)を通して感じられる可能性があろう。
(そして、こうして書いているこの文章自体も)
そのため、
「氣道とは、そうした表現を通して、あるいは各自の体感を通して、
顕れ、浮かび上がるもので、
それはちょうど炙り出しのようなものである」
とも常々言っていた。
さて、
ここでは氣道の説明を書きたかったわけではなかった。
氣道の立処を書きたかったのだが、
そして、それがお二人のことを語る基盤になるかと思ったのだが、
つい氣道自体の説明で饒舌になってしまった。
けれども「はじめての氣道」などの講座に出られた方なら、
お分かりと思う。
氣とは、タオのことであり。
タオとは空であり、無であり全であり、
それは瞑想そのものという沈黙であり、静寂である、ということを。
つまり、アジャの言う「静寂」と「氣」は同義語であり、
それが本来の意味の「元氣」であることを。
(その元氣が生をまとう時、元気となることも)
これは氣道の視点からであるが、晴哉師の視点でもそうだろう。
(ただパラマハンサ・ヨガナンダの視点は少し異なる)
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今回の講座は私の師であるヨガナンダジの視点から語る、
と会報に書いてしまったが、
そうなると、上で書いたことだけでなく、
静寂=氣=神としている氣道における言葉の定義と、
若干異なる面もある。
定義は異なるが、それをヨガナンダジも伝えていきたかったことであること、
それは時折り師の著書でも触れていることなのだが、
多くは神を、この二元である相対世界から観た立処から語っていく。
そのために氣道や晴哉師やアジャとは異なった感を抱く方も多いだろうが、
その理由についても著書で多く語っている。
(ちなみに、ヨガナンダジは、初めて神(=氣=静寂)に触れた時、
その傍らにいた師スリ・ユクテスワの言葉によって、
静寂(=氣)が神であることを知った。
神が人格神ではなく一元のものであることを知った。
その経緯は「あるヨギの自叙伝」に記されている)
師(ヨガナンダジ)の視点にも触れてしまったため、
饒舌に輪を重ねてしまったが、
次回は、先述した“氣道”の立処について触れていきたい。
それが今回の講座における不立文字の部分に最も関わることだと思うからである。
(そのため、講座のレジュメ的な記載になってしまうかもしれない)
あるいは、アジャの本の紹介などになるかも。
その意味でも、ここで、
この連載について幾つかお断りさせて頂く。
●この連載文章が今後当日までどのような形になっていくのかは分からない。
(本の紹介は「読書日記」の形でしたい)
●重複の部分も多々あると思う。
(講座や整体(指導)のため、連日に書けないので、
以前に書いたことを見直すいとまが無いことを言い訳にさせてほしい)
●矛盾した表現や、妙な表現も多いかと思う。
(これも、言葉化できないことを言葉化するため、という言い訳にしたい。
上記のこともそうだが、単に私が忘れっぽいだけなのだろうが)
●時々の話題も織り込んでいくと思う。
(【心理の学校】、【整体マスターコース】、【滝行合宿】なども間近のため。
そう、さっそくここに時々の話題を書いてしまうとなれば、
明日(7/1)の「研修会」の冒頭に行うユーチューブ撮影会の内容は、
「ワクチンの対処法」 →アップしましたらこちらのブログでもお知らせします。どうぞお楽しみに!byながい
である。
(愉氣セラピスト(整体の学校卒業生および現在の参加者)や
愉氣マスター(心の学校卒業生)なら参加可能なので、
その後に行う予定の圭くんの体塾チェック応援の為にも奮ってご参加の程)
なお、7/7の「七夕会」は、
野口晴哉師の奥義中の奥義というか、
野口整体の中核であり、先生の魂の叫びの伝承である。)