日本海海戦で破損した装甲巡洋艦「日進」の前部砲塔

 

連合艦隊は6隻単位で編成されており、東郷司令官は第一戦隊の先頭を担う旗艦「三笠」に乗船、しんがりは巡洋艦「日進」

連合艦隊が左回頭を始めた時、バルチック艦隊からみれば、回頭中の艦は止まっているように見える。

ここぞとばかり旋回地点に猛攻撃を開始。

日進は最後尾のため、しだいにロシア側の照準が合い、砲弾が命中してき甚大なダメージを受けます。

「十二インチ砲弾が飛んできて、前部主砲の砲塔に命中……。このため右側の砲身は吹っ飛んで海中に落ち、弾片が四方に散ってその一部は艦橋にいた参謀松井健吉中佐の胴から下をうばって即死させ、さらに鉄片群は上甲板、中甲板、下甲板を襲い、十七人を死傷させた。そのあとさらに九インチ砲弾が、すでに廃墟になっている前部主砲の砲塔に落下して大爆発し、その破片は司令塔のなかに飛びこみ、司令官三須(みす)宗太郎中将や航海長を負傷させた」
司馬遼太郎『坂の上の雲』

 

 

ガルシア大佐、後に海軍大臣、

退役後はアルゼンチン日本文化協会会長

 

当時アルゼンチン海軍は、イタリアで建造途中だった最新鋭装甲艦2隻の購入権を、日本海軍に譲渡します。

ロシアとの戦争に備えて戦力を増強したい日本と、チリとの紛争が既に終結してしまって戦力を増強する必要がなくなったアルゼンチンの利害が一致した為です。

その2隻の建造担当だったマヌエル・ドメック・ガルシア大佐は、完成した2隻を日本まで送り届け無事に引き渡しを終えましたが、その時すでに日露戦争が始まっており、そのまま観戦武官として乗船することになりました。

最新鋭装甲艦だった2隻は「日進」「春日」となり即戦力として編入され、日本海海戦で活躍しました。

参謀の秋山真之は後年、「「日進」「春日」は開戦直後に到着したのだが、この2隻がいなかったらと思うと私は今でも戦慄せざるを得ない」と発言しています。

 

その当時の状況からすれば、世果中の海軍軍人たちのほとんどすべてがロシアバルチック艦隊と戦う日本海軍は負けると判断していたようです。

 

観戦武官は基本的には中立の立場で、戦争をしている現場を観戦し、自国戦争時の参考となる事実を確認するという役割ですので、戦場に近い場所におもむくのですが、陸と違って海戦という場では戦闘艦に乗り組む必要がありました。

海軍の観戦武官は20名以上いたそうですが、負けるであろうと予想されていた日本艦隊に乗り組むという決断をした人物は英国海軍軍人とアルゼンチン海軍軍人の2人だけでした。

 

日進は集中砲火を浴び危機に瀕します。

砲塔にも被弾して大損害をうけただけでなく、指揮官など人的な被害も大きかったのですが、その後もまるで平然と戦闘を続行し続けたと記録には残っているそうです。

 

この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていた砲術士官でもあったガルシア大佐は、戦闘中に負傷した士官がいる中、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を手伝うのです。

 

この秘められた史実は、平成11年にガルシア大佐の孫ホラシオ氏が初めて明らかにしたものです。

曰く、「祖父は砲術士官であり、『日進』の破壊された砲台の射手として手伝ったことを常に自慢して話してくれました。……祖父は日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念をもって協力に踏み切った」と。

日露戦争終結後、明治天皇はガルシア大佐に金蒔絵(まきえ)の文箱と菊の御紋章入り一輪挿しを贈られています。

 

 

 

ガルシア大佐は帰国後、詳細な観戦「報告書」を作成しました。

報告を要約すると、「艦船・装備・弾薬・練度・士気など全ての点で日本が勝っていた。あらゆる面で努力していた日本が勝利するのは必然だった。しかし、あれほど見事な勝利となったのは将兵ともに人材が優秀だった」

また「報告書」には、砲撃方法や戦略などの当時の日本海軍が編み出した独自の戦法が記録されていたので、長い間アルゼンチン海軍の軍事機密とされました。

「報告書」は現在アルゼンチン海軍歴史博物館で展示されています。