インドネシアの国立英雄墓地(カリバタ英雄墓地)

 

 

インドネシアの南ジャカルタ市にある国立追悼施設。

 

インドネシア独立戦争に参加した戦績のある者で戦後生き残った元戦士も、没後はここか国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。

 

葬儀の費用やその後の管理費用も全て国家が負担します。

 

独立の英雄としてこの墓地に埋葬されることはインドネシアで最高の栄誉とされており、葬儀には国防省代表、国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊がさんかして厳粛に執り行われています。

 

このカリバタ英雄墓地には27人の日本人戦没者(インドネシア残留日本兵)が埋葬されています。

 

また独立戦争を生き抜いた日本人元兵士にはゲリラ勲章が授与され、死後、本人が望めば英雄墓地に埋葬される権利を与えられました。

 

インドネシアの島々は約300年ほどオランダの植民地として「東インド」と名付けられ支配されていました。

 

1941年12月8日、大東亜戦争が勃発するとオランダ政府は12月10日に日本政府に対して宣戦布告。

 

 

これに応じて日本軍は1942年2月末から3月にかけてスマトラ島とジャワ島に進行し3月10日にオランダ軍は降伏。

 

日本軍はオランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動家を開放し、インドネシア人を現地官吏に登用。

 

「インドネシア」という呼称を公の場で使用し「インドネシア語」を公用語にしました。

 

1943年10月にはインドネシア人指揮者が自ら率いる郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織しました。

 

1944年3月には「小磯声明」を発表し将来の独立を容認。

 

1945年3月に「独立準備委員会」を設立、スカルノやハッタたちに独立後の憲法を審議させました。

 

1945年8月15日、日本が降伏。

 

しかしスカルノ、ハッタ等は前田海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法を基に独立宣言を採択。

 

8月17にはインドネシア独立宣言を発表しインドネシア共和国の建国を宣言。

これに対し旧宗主国のオランダ軍はその権益を回復しようとインドネシアに上陸し、ここにインドネシア独立戦争が勃発しました。

 

一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。

 

しかし日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある。

 

その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った

 

日本に引き揚げずにインドネシア独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上った

 

各国の独立運動支援のために武器を持ったまま義勇軍に加わる日本兵も少なくなく、インドネシアの場合、その数は通常3千人といわれ、千人がオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれる。約2000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた。 

 

 

 

 

 

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫君と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。

市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ

 

 

ジョージ・S・カナヘレは著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析している。

日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(ペタ)を設けて訓練した。オランダ復帰に抵抗して闘ったこの革命軍将校と数万の兵士の組織と訓練、そして日本軍があたえた大量の兵器なしに、インドネシア革命はあり得なかった。 — ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』

 

 

 

1987年の訪日の際、アラムシャ第三副首相は、日本占領時に創設されたPETAでの人材育成に感謝し、連合軍に敗戦後もインドネシアに残留し独立戦争に参加した日本兵らについても語っている。

日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。 — アラムシャ第三副首相、1987年