自分を知ること | Diary

Diary

The way I am…

自分を知りたいと思うのって青いでしょうか?

人によっては、自分のことについて何か問題を感じても見ないことにして、とりあえず前に進むっていう大人な歩き方もあるかもしれません。でも自分というものに少しでも気付き出すと、そのまま見ないで済ますことができなくなります。

 

 

自分を知りたい、本当の自分て何?なんて思い出したのは、夫が亡くなって支えを失った時に、今までずい分自分が夫に依存していた、もっと遡れば母に依存していたと気付いたことからでした。夫を亡くした悲哀の整理のつもりで専門家に話を聴いてもらっていたのが、いつしかそれは、それまでの自分を振り返ることになっていったのです。

 

 

人間は智恵や知識が身についたからと言って、自分自身のことが見えるわけではありません。人に話を聴いてもらうことで、返ってくる言葉に今の自分が映し出されていて、気付くことがあって、そこからまた自分で考えて、それを繰り返している内に、だんだん自分てこうなんじゃないかと見えてくるように思います。

 

私の場合は、自分が長い間、人に合わせて表面だけ、ことなかれで過ごしてきたことや、人の陰に隠れてきたために、自分がなくて、空っぽのようになっていたことに気付き、そういう自分を変えたいと思いました。

 

 

自分について考える時、何も考えが浮かんで来なくて、頭がコトリとも動かず、一歩も進まない時があります。そういう時、考えるより、むしろぼんやり浮かんでくるものを頼りに思い巡らしたりすると、考えが進むことがあります。それが心の奥底にある無意識というものなのかもしれません。

 

夫を亡くした喪の作業と同時並行の自分の振り返りは、結構エネルギーがいる作業で大変でしたが、その2つって別々のものではなく、交互に関係し合っていたので、2つを同時に考えることで両方が進んだ気がします。大事な人を喪った悲哀を経験している状況だからこそ、夫との関係での自分、母との関係での自分について、振り返って考えられたような気がします。自分のことだけを考えても、自分のことって中々見えてきませんが、身近な重要な他者との関係で考えると、見えてくることがあります。

 

そして、自分を知ることって、自分のいい面だけでなく、弱い面、嫌な面も見えてくるので、幸せなことばかりではありません。同時に不幸な事でもあります。善悪だけで捉えていては解らなくなるし、嫌で切り離したい自分も受け容れるつもりでないとできないです。

 

 

 

また、生きて動いていると、何かしら前に立ちはだかる問題が起きてきます。攻略法を考えて登る高い壁もあれば、自分が囚われているだけの目に見えない透明なビニールのような壁の場合もあります(私の感覚です)。何故かわからないけど押し戻されて前に進めない。そんな壁こそ、自分を知るきっかけになったりするので、迂回ではなく立ち止まって考えます。囚われているものの正体がわかって、それから自分を解放すると、プツンと針でついたようにプシューとしぼんで一つ自分の問題を克服できたりします。

 

以前ある先生に、あなたはどこを切っても金太郎飴のように見えてくる特徴があると言われて、何のことかわからなくて気になったことがありましたが、今はハハーンと思い当たる節があります。それを直したつもりでも、思いがけない時にまた出てきてがっかりするの繰り返しでもありますが・・・。少し見えてきた自分は、結構凸凹が激しくて、自分と認めたくない部分もありますが、笑って受け容れることにしてます。

 

自分を知る作業に行き詰った時に、白洲正子さんの随筆で次のようなことが書かれていたのを読んで、励まされたことがあります。

「いかにして」「なんのために」自問自答するうちに、必ずハタと行きあたるものがあって、それが あなた であり、 あたし である。総合的に統一のとれた人間の姿で、少しもあいまいなところがなく、はっきりした自己の姿であれば、小さくても、みすぼらしくてもそれはそれなりに美しい。心身が健康な人が美しいように、芸術がそうであるように総合的な美しさにまさるものはない。そしてその姿というのは、知識でははかり知ることの出来ぬ、見ることも出来ぬものであり、智恵はそうしたところから生まれてくるのだ。

 

人間て複雑なので、知識だけでははかり知れないのは当然と思います。自分ではわからないので、人と話して確かめたり、それとなく漂う感じを掴んでそれを手がかりに考えたり、そうやって知っていくのかと思います。エネルギーのいることですが面白いと思います。そうして知ることができた自分は凸凹があっても、それが偽りのない自分の姿であれば、自信が持てると思います。

 

自分を知ると、私のこれからの人生が変わって、何かいいことがあるかもしれません。人生の先輩方からは、あなたはまだ若いわよ、何でもできるじゃない、と言っていただくことがあります。何でもできるは言い過ぎですが、まだ自分にももう少し何かできるかもしれないと思って模索しているところです。その方が楽しめるから。