ring.95 ハイスピード
アンジーが、正文の前を歩く。
互いに気兼ねなく戦える舞台へと先導する。
正文は、アンジーの背中を眺めていた。
狼のリアライザであれば、そこは灰色がかった獣毛で埋めつくされているはずだった。
しかしアンジーはパーカーを着ており、毛は1本も見当たらない。
ホットパンツから伸びた足へ目を向ければ話は別だが、少なくとも背中は人間と大差なかった。
パーカーが持つパステル色の迷彩柄が、正文の視覚を刺激する。
視覚だけではない。
(今回は、左目が…使える!)
色の違いは、太陽光をどれほど吸収するかが異なるということでもある。
つまりわずかではあるものの、色によって温度に差がある。
正文の左目は、その差を感じ取れるのだ。
左目が作り出す擬似視界は、右目で見るのと全く同じ色を彼に教える。
(右目だけで見るのとは、やっぱり見え方が全然ちがう。めちゃくちゃ見やすい)
正文はこれまで2体のネームドと戦った。
スカーフェイスとイノセンスである。
スカーフェイスには全く歯が立たなかった。
イノセンス戦では、相手の尻尾を踏むことで動きを封じ『火炎(ジグ)』の魔法を使って勝利を得た。
これら2戦の違いは何か。
相手が自由に動けていたかどうかである。
(名無しなら右目だけでもなんとかなる。でもネームド相手じゃスピードについていけない)
狼のリアライザが人間を食い、独自の名前を得た存在。
それがネームドである。
バルディルスから聞いた話によると、『メギルェの細胞』つまり『魔人エンディクワラの異細胞』は共食いによって成長するようだ。
名無しとネームドの間には、明らかな能力差がある。
それはつまり、狼のリアライザがここ一坂郡南部につれてこられた人間を食った時に、『異細胞同士の共食い』が成立するということを意味する。
南部の人々がいつ異細胞を得たのか。
これについては、キルメーカー運営のみが知るところだろう。
何しろ、一坂郡全域を殺人ギャンブルの舞台にしたのは、プロフェッサーを筆頭とする彼らなのだ。
そして今は、その事実を追っている場合ではなかった。
(俺もイノセンスを食うことで『共食い』した。頭だけが残ってる状態だったからパワーアップするってわけにはいかなかったが、それでも…バルディルスのおかげである程度の力を取り戻せた)
正文は左目だけでなく、鎖と鉄球も使えるようになった。
まだ体が完全に復元できていないため、これらを使う場合はデメリットが存在する。
(鎖と鉄球を使えば、その分だけ『メギルェの細胞』が減る、つまり『魔人の異細胞』が減る……でもここでアンジーを倒して食えば、全部帳消しにできる!)
イノセンスを食い、バルディルスに『省エネモード』を解除してもらったことで、正文の胸部と右腕部が復元した。
アンジーに勝利しその体を食えば、たとえ異細胞が減っても補充できる。
それだけでなく、他の部位も復元できるだろう。
正文は、この予測に絶対の自信を持っていた。
だからこそ、アンジーの背中を眺めたままこうして考え事にふけっている。
しかし、彼女が向かう先の様子が明らかになるにつれ、正文は周囲を確認する必要に迫られることとなった。
「…あれ…?」
アンジーにつれられる形で、正文は『ゲームセンター ハザキ』の店内に入った。
そこに問題はない。
彼女の日課に、ゲームセンターで踊るというのがある。
慣れた場所で戦いたいというのは自然なことだと、正文も納得できた。
それに店内というせまい場所であれば、大きな鉄球を繰り出すだけで勝利が確定する。
正文にとっても願ったりかなったりなのだ。
だが。
(何も置いてない…!?)
『ゲームセンター ハザキ』の店内には、何もなかった。
ゲーム用機材を収めた箱型容器である、筐体(きょうたい)が1台もない。
両替機すらもなく、古い蛍光灯が店内を薄暗く照らすばかりだった。
(踊るって、てっきり『タプエボ』で遊ぶとかそういうことだと思ってたのに、なんにもないぞ……!?)
『タプエボ』というのは、『タップダンスエボリューション』という名前のダンスゲームである。
音楽に合わせてステップを踏んで遊ぶ。
ゲーム自体を動かす筐体だけでなく、ステップを踏むためのパネルも必要となるため、自然と占有面積は広くなる。
店内にあればひと目で見つけられるはずなのだが、どこにも見当たらない。
「いい顔するねえ」
いつの間にかアンジーは正文の方を向いていた。
店の中央に立ち、両手を腰に添えている。
「ゲーセンで踊るって言ったから、『タプエボ』でもしてると思った? ザーンネン、ここにはなんにもないよ」
「…そうか」
正文は気を取り直し、アンジーとその周囲の状況を確認する。
店内に窓はなく、奥に従業員専用のドアとトイレの入口が見えた。
出口は、正文の背後にしかない。
「なんにもない…つまり、逃げ場もないってことだな」
「逃げる必要なんてないよ」
アンジーが笑う。
「アタシはあんたを殺すし、あんたはアタシに殺される。そしたらいつも通り、アタシはここから出ていくだけ」
「踊るっていうのは人を殺すって意味か。だが、お前に俺は殺せない」
「そう? 悪いけどアタシ、イノセンスほどガキじゃないよ」
アンジーはそう言うと、その場で軽くステップを踏み始めた。
正文も上半身をわずかに前傾させ、戦闘態勢に入る。
「……」
「………」
両者、しばしにらみ合う。
その直後、ほぼ同時に動いた。
正文は直線的に前進する。
これに対し、アンジーはステップをやめて前方へ宙返りした。
獣の体が持つバネを活用した宙返りは、地面に手をつかずとも十分な飛距離を持つ。
「いきなり終わっちゃうねえ!」
アンジーは回転の力を利用し、右手の爪で襲いかかってきた。
正文は速度を落とすことなく前進を続け、左前腕で受け止めようとする。
彼の防御は、アンジーの目に愚策と映った。
「あっははっ! 腕1本もーらいっ!」
アンジーが嘲笑とともに爪を振り下ろす。
彼女の右手が、正文の左前腕に当たった。
これにより正文は、左前腕を失う。
と思いきや、彼は体を反時計回りに回転させ、アンジーの右腕を受け流しながら巻き込んでいく。
巻き込んだ先にあるものは何か。
それは正文の右拳だった。
「うぉらああッ!」
「えーっ!?」
アンジーは驚くものの、表情と声は半笑いである。
彼女はギリギリのところで頭を左に倒し、正文の攻撃を避けた。
そして彼から離れると、床から天井、天井から壁、壁から床、もう一度床から天井に行ってから床に着地する。
1秒間に5回もの跳躍という、およそ人間には実現不可能な動きを経てようやく、砲弾のごときスピードにブレーキをかけた。
(なんて速さだ…)
正文は目を見開くが、ぼんやり立ち止まってなどいない。
(…でも見える!)
彼は床を強く蹴り、ブレーキをかけたばかりのアンジーへと突っ込む。
アンジーも不敵な笑みでこれを出迎えた。
「どういうこと? なんで腕飛ばなかったの?」
「教えてやる義理はない」
ふたりは、会話しながら交互に攻撃をしかける。
正文が拳を繰り出せばアンジーは避け、アンジーが爪を振るえば正文は彼女の手首を止めることで防御する。
「いーじゃんケチ! 別に減るもんじゃないでしょ」
「獲物に手の内を明かすほど、俺はヒマじゃないんだ」
「ちぇー」
話している様子はなごやかだったが、どちらの攻撃も風を切るような速度と鋭さである。
並の人間では、ふたりの手が今どこにあるのかすら見えない。
(メギのおかげだ!)
正文にはわかっていた。
(今の俺は、イノセンスと戦った時より明らかに速い! メギが底上げしてくれてるんだ。俺の一部が元に戻った分を、スピードアップに回してくれている!)
正文の胸部と右腕部が復元したことで、メギは同化時にそれらの部位を用意しなくてもよくなった。
つまり同化の負担が減った。
負担が減ればその分楽もできたはずだが、彼女はそれをよしとせず、正文の速度向上に力を使っている。
だからこそ正文は、アンジーの尋常ならざるスピードに対応できている。
それだけではない。
(ギアはもっと上げられる!)
「!? えっ、ちょ…!」
アンジーの顔から余裕が消える。
正文が防御ではなく、体ごと回避し始めたことに驚いたのだ。
しかも正文は、回避の勢いを利用して攻撃のスピードを上げた。
アンジーは回避できなくなり、防御するので精一杯になる。
「うっ、ウソ、でしょ!? デブのくせにっ、なんでこんな……」
「そろそろ終わりにしてやる!」
正文はそう言い放つと、体を大きく左下へ傾ける。
これまでと比べてやけに動きが遅い。
アンジーは、この遅さを逆転のチャンスと判断した。
「油断したねッ! アタシはまだ終わらな」
「うおおおおおおおおッ!」
正文は雄叫びとともに、右上へ動く。
左下へ傾けた遅さとは対照的に、トップスピードで伸び上がった。
攻撃しようとしたアンジーとすれちがうような体勢をとりつつ、彼女の腹部に左拳を叩き込む。
「ぅぐえっ!?」
「おらぁああああッ!」
正文は力強く殴り抜けた。
アンジーの体が勢いよく吹っ飛ぶ。
「おぶゥ!?」
彼女は背後の壁に激突した。
わずかに体がめり込み、足が床から浮いたままとなる。
もはや正文にとって、アンジーは『動かない的』だった。
「これで終わりだぁあああああッ!」
正文は床を蹴って標的に接近しつつ、右拳を振り上げる。
トドメの一撃を決めようとした、まさにその時だった。
「しょーがないなあ」
かすれたつぶやき声とともに、蛍光灯が消える。
ただでさえ暗い店内が、闇に包まれる。
その一瞬後、まばゆい光があたりを照らした。
闇と光の早替りは、正文に驚く時間さえ与えない。
右目の視界が白一色になった。
まばゆい光はわずかに熱もはらんでいたため、左目が作り出す疑似視界も白で埋め尽くされる。
直後、鋭く強い声が正文の鼓膜を震わせた。
「<<雷槍投射(ダイ・アグレェ)>>!」
白い視界を突き抜けて、何かが飛来する。
それは黄金色の槍であり、正文の胸部中央を過つことなく刺し貫いた。
→ring.96へ続く
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