ring.88 はかりごと | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

ring.88 はかりごと


結界魔法とは、魔法陣を描いて発動させる異世界の力である。
基本的には魔法陣自体を『結界』とし、その範囲内に効果を及ぼす。

精霊魔法の発動には術者の魔力と精霊の協力が必須であるのに対し、結界魔法の場合は魔法陣を描けさえすれば発動できる。

(ってことは、俺でも使えるってことだ)

ただしデメリットが精霊魔法の比ではない。

結界魔法の発動には魔法陣の描画が不可欠だが、この魔法陣に不備があると魔法が暴走する。
暴走時の被害は、効果が強力であればあるほど大きくなる。

術者が死亡するだけならまだいい方で、血縁者とその関係者が全員まとめて消滅することもある。
ただ消滅するのではなく、場合によっては存在自体が最初からなかったことになる。

(じゃあ、魔法陣の不備って…なんだろうな)

結界魔法の発動時にチリひとつでも魔法陣に落ちていれば、それは不備となり暴走の原因となる。
これを解決するために編み出された方法が『古代魔法を用いた魔法陣の描画』だった。

(古代魔法っていうのは、異世界の古代語を使って発動させる魔法……古代語で書かれた文章を詠唱しなきゃならない…)

術者の魔力だけでなく声、そして詠唱を終えるまでの時間をも必要とするが、その自由度と威力は精霊魔法や結界魔法を圧倒する。

この古代魔法を使い、『暴走を防ぐ構文』を含んだ魔法陣を描くことで、結界魔法をある程度安全に発動させることが可能となるのだ。

暴走を防ぐ構文は例外なく結界魔法の威力を大幅に下げるが、安全には代えられない。
場合によっては術者だけでなく、発動させようとした結界魔法そのものも消滅することがあるからだ。

(つまりメギは…『お菓子の家っていう結界魔法を安全に発動させるための魔法陣を描く古代魔法』を使って、その上で結界魔法『お菓子の家』を使った…ってことなんだな)

”また復習してるの?”

メギが正文に尋ねる。
その思念には、どこか呆れた響きがある。

”ずっと魔法のことを考えてるなんて、まぁくんも好きだね”

(魔法なんて、ゲームでしか触れる機会がなかったんだぞ。それが現実にもあるって知ったら、そりゃきちんと知りたいってなるだろ)

正文は不機嫌そうに思念を返す。
だがメギには彼の気持ちが理解できない。

”そういうもんかなあ…? あっ、じゃあさ、まぁくんも『お菓子の家』作ってみる?”

(い、いや、いい)

”なんでー? 大丈夫だよ。まぁくん勉強熱心だから、すぐに作れるようになるって”

(勉強に熱心なのと、実際に勉強できるかどうかは別なんだよ…高校の頃、それでひどい目にあった)

”そうなの? それって…あんまり訊かない方がいい?”

(できればそっとしといてくれると助かる。悪いけど、『お菓子の家』はメギが作ってくれ)

”うん、わかった。でも作りたくなったらいつでも言ってね。ちゃんと古代語教えたげるから”

(ああ…)

正文は曖昧な返事をする。
これをメギは、彼が高校時代のつらさを思い出したのだと感じて、余計なおせっかいと追及をしないよう自重する。

だが全ては正文の計算だった。
彼は高校時代のつらさなど、微塵も思い出していなかった。

バルディルスなる者からメギに、そしてメギから正文にもたらされた異世界の知識。
正文は日中の間ずっと、これについて考え続けていた。

異世界というものについて興味があるのは確かにそうだったが、それが第一の理由ではない。
ある思いを、同化しているメギに伝えないために、彼は異世界について考え続けていた。

それは自責の念である。
正文の能力である8匹の蛇が、七不思議たちとミカガミ、そしてメギの男性成分を食ってしまったことへの罪悪感だった。

異世界の知識は、この星この国に生きる彼にとって突拍子もないものだ。
しかしだからこそ、繊細な気持ちを塗りつぶすには都合がよかった。

(メギと同化してる間は、俺の気持ちがダイレクトに伝わってしまう…メギに気をつかわせたくない)

かといって、簡単に消せるほど自責の念は軽くない。
どうしたものかと悩んだ末に思いついたのが、異世界の知識で頭をいっぱいにしてしまうことだった。

昼はそれでいい。

外にいれば、狼のリアライザたちと戦うこともある。
脳内を別の思考で埋めるのは、思ったよりも容易だった。

問題は夜だ。

(お菓子の家は安全だし、疲れも病気もケガも一瞬で吹っ飛ぶ。俺とメギは人間じゃないから、メシや睡眠が絶対に必要ってわけでもない…)

しかしだからこそ時間が余ってしまう。

お菓子の家では、正文とメギは分離して直接思念を伝え合うことはできなくなる。
ただそれでも正文が自責の念に沈んでいれば、メギは彼の表情から即座にそれを感じ取るだろう。

結界魔法『お菓子の家』には、プロフェッサーの『変化』による察知を無効にする効果がある。
正文とメギが、外では同化しお菓子の家では分離していることも、プロフェッサーは認識できない。

その効果時間は約24時間であるため、ふたりは1日に一度は必ずお菓子の家を作って中に入る必要がある。

(朝になると、お菓子の家は虫に食われる…)

証拠隠滅と考えれば合理的ではある。
初回のみ、バルディルスなる人物は高級ソーセージを文字通りエサにして、アリたちから時間的猶予をもらっていたようだ。

(…あの『人間らしくない声』……アリの声だったのか…)

普段は聞こえるはずのない虫の声を感じ取れるのも、お菓子の家が持つ特徴だった。

繰り返しになるが、正文とメギに睡眠の必要はない。
ただし、だからといって絶対に睡眠できないというわけではなかった。

そのため正文は、夜は一緒に眠ることをメギに提案した。
彼女もそれを受け入れ、ふたりは夜になるとお菓子のベッドでともに眠った。

正文が心に抱える自責の念は、この時に最も大きく、重くなる。

「……ッ!」

彼は丑三つ時に目を覚ます。
その顔は悔悟と恐怖に歪んでいる。

昼間に異世界の知識と外界の状況分析で頭をいっぱいにしていた分、反動は大きい。
正文の場合、それは夢として現れた。

(わかってる…これはプロフェッサーの『変化』じゃない。『変化』は関係ない…!)

夢は夢でしかない。
だが内容によっては、現実に生きる者の心に深い傷を負わせる。

(く、食われた…! みんなに……メギにも…!)

正文は毎夜、七不思議たちやメギに食われる夢を見た。
それはまさに悪夢であり、不吉な夢を意味する凶夢ともいえる。

そしてその悪凶は、彼の心に暗く重い核のようなものを作った。

(俺は……あいつに、プロフェッサーに…『メギルェに謝れ』なんて言っておきながら、俺はみんなになんにも言えないまま生きて…!)

頭部のみという『小さな全身』が、涙と冷汗、あるいは脂汗にまみれる。
それらは容赦なく、正文をおぼれさせようとする。

そこへ。

「…ん…まぁくん……」

「!」

メギの声が聞こえて、正文はあわてて彼女を見た。
起こしてしまったかと思う前に、彼はそっと抱きしめられる。

「ふにゅう…」

メギの口から、間の抜けた声が漏れた。
さらにむにゃむにゃと何事かをつぶやいてから、彼女は再び静かな寝息を立て始めた。

(…? 寝言……か)

正文は安心して息をつく。
彼はやわらかなメギの胸に抱かれた状態で、まぶたを閉じた。

「……」

正文と入れ替わるように、メギが薄目を開ける。
彼女は眠ってなどいなかった。

寝たフリをして正文を抱きしめたのである。
メギに気をつかわせたくないという彼の思いを、彼女は全てわかっていた。

わかった上で何も言わずにいるのだ。
そうすることで少しでも正文の助けになればと、メギは考えていた。

淡い月光が、小窓から差し込む。
それは、抱き合って眠るふたりを照らす。

月は知っているだろうか。
この美しくも悲しい、重ならぬ想いの形を。


一坂郡南部は、他の地域とは事情が異なっていた。

殺人ギャンブル『キルメーカー』の舞台という点は同じである。
では何が異なるのか。

「ひぃいっ! た、たすけてくれええ!」

襲われるのはいつも老人であり、

「グゲッ! グヒャヒャッ! グヒャヒャハアッ!」

襲うのはいつも狼のリアライザだった。

他の地域では、殺される側チェインドと殺す側アンチェインドはどちらも人間である。
だがここ南部に限っては、姿かたちからしてはっきりと区別されていた。

「ころすころすころす! くっく食う! アギャフハッ!」

狼のリアライザが、鼻歌交じりで殺害予告をする。
その様子は心から楽しそうで、無邪気ですらあった。

「おっまえっを食えば? オレつよっくなるぅー、なんかしらんけど? つよっくなるぅー」

「はひっ、はひっ、ひぃ」

「どっこまっで逃げる? にっげらっれるぅー? オレの足かっら、にっげらっれるぅー?」

狼のリアライザはそこまで歌うと急加速し、老人の正面に回り込んだ。
これには老人も肝をつぶす。

「ぎゃひぃー!?」

「はーいにっげられなーい! ざんねんッしたー」

「あ、ああ…」

老人は腰が抜けてしまい、その場に座り込む。
彼は恐怖に震えながら言葉を絞り出した。

「な、なんで…」

「んー?」

狼のリアライザが大げさに、体を左へ傾ける。
老人は会話する余地があるのかと考え、言葉の続きを口にした。

「なんで、こんなこと…するんじゃ……」

「あっれれー、聞いてなかった? お前を食うと強くなるんだよ、オレが!」

「わ、わしなんぞ食ってもうまくはないぞ」

「ちがうちがう、うまいまずいの問題じゃないんだよー。オレが強くなるかどうかって話なの! わかる?」

「わ…わからん……」

「そっかー。でもそういうことなんだ!」

狼のリアライザは明るく言うと、姿勢をまっすぐに戻す。
自身の爪と牙を老人に見せつけた。

「オレの爪でザクザク切ってー」

「ひぃ」

「オレの牙でバクバク食うー」

「…うぅ…」

「多分すっごい痛いと思うんだよね! だから泣いてもいいよ! つらい時は泣いてもいいって歌にもあるよね! 泣いてもなんにも解決しないし、どんなに泣いても…」

ここで急に、狼のリアライザは声を低くした。

「お前ら大人はオレを助けなかったけどな」

「!」

むき出しの殺意を向けられて、老人は心底震え上がる。
もはや声すら出せなくなった。

その様子を見て、狼のリアライザは無邪気さを取り戻す。

「んじゃ、いっただっきまーす!」

大きく口を開け、頭から老人を食おうとした。
その時である。

「待て」

誰かがそう言った。
その誰かは同時に、狼のリアライザの尻尾を踏みつける。

「ギャイン!?」

狼のリアライザは激痛に飛び上がった。
老人を食うどころではなくなり、顔だけを後ろに向ける。

すると、左肩越しに太く大きな体の男が見えた。

正文である。
彼は戦意に満ちた表情で、狼のリアライザに尋ねた。

「お前、名前はあるのか」

「…あるよぉ。『イノセンス(無邪気)』っていう、カッコいい名前がね」

「ははっ」

正文は軽く笑い、尻尾を踏んでいる右足に体重をかける。
これに、イノセンスと名乗った狼のリアライザは悲鳴をあげた。

「あぎゃっ、いだだだだっ!」

「イノセンス(無罪)だって? なんの冗談だ」

「あ、足上げろっ! ひとの尻尾踏んでんじゃないぞ!」

「お前は無罪でも『ひと』でもない」

正文は静かに言うと、右足から力を抜く。
イノセンスはすぐさま彼の靴底から尻尾を引き抜こうとした。

「改名しろ!」

正文は鋭く言い放ち、ひときわ強く尻尾を踏みつける。
イノセンスが再び悲鳴をあげるのも構わずこう告げた。

「お前はたった今から『ギルティー(有罪)』だ! 俺がお前を食ってやる!」

今の正文に重苦しい感情はない。
彼は人食いの化物『チグサレ』として、目の前にいる敵を倒して食うことだけを考えていた。


→ring.89へ続く

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