ring.61 ンニキセ
ring.61 ンニキセ
これまで、正文はさまざまなことに驚かされてきた。
白猫が実は彼自身の能力だったり、40階フロア内の豪奢さだったり、数え上げればきりがない。
だが今、目の前で起こっていることはそれらを上回る。
強烈な驚愕が、正文から声を奪った。
(甲03!?)
口がぱくぱくと動いて、心に浮かんだ言葉をなぞる。
(なんでここにいるんだ?)
この疑問に関しては、もはや口が動くことすらなかった。
彼は口をあんぐりと開けたまま、ただ呆然と事態を眺めていた。
正文が驚愕した通り、確かにそこには甲03がいた。
彼はコンシェルジュカウンターの向こう側から、涙目で正文に訴えかける。
「ちょっとお! なにボーっとしてるんですか阿久津さぁん! 助けてくださいってばあ!」
姿かたちは間違いなく甲03なのだが、その言動は正文と戦った時とはまるで別人だった。
そもそも、なぜ甲03が正文に助けを求めるのか。
彼はキルメーカー運営のエージェントだが、下野の催眠術に落ちてその手下となった。
4体のキメラは出自不明であるものの、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』に侵入した者を襲うという部分から、これらも下野の手下と推測できる。
つまり、甲03とキメラたちは同僚といえる関係のはずなのだ。
それなのに甲03は、コンシェルジュカウンターの向こう側でうろちょろと動き回り、キメラたちから攻撃されないよう自分を守っていた。
「ガアア! ゲファアッ!」
「ひぃい!」
右からキメラが近づこうとすれば、甲03は左へ行き、
「ゴォアアア!」
「や、や、やめ…!」
左からキメラが近づこうとすれば、甲03は右へ行く。
コンシェルジュカウンターを中心に、一進一退の攻防らしきものが繰り広げられていた。
ただ、キメラ側の動きには相手を小バカにしたような雰囲気が見て取れる。
甲03があまりにおびえるのでおもしろがっているようだ。
キメラたちはこの遊びに没入しているのか、正文の存在に気づく様子はない。
(なんなんだこの状況…)
正文はそう思いつつ、開けっ放しだった口を閉じる。
少しばかり時間が経過したことで、驚愕が和らいだ。
その時、カウンターの向こう側から甲03が叫ぶ。
「阿久津さぁん!」
甲03は正文の名字を口にしつつ、左手をあげてみせた。
それは白い包帯でぐるぐる巻きにされており、手というより球体に近い形をしている。
「あなたのせいで左手が使えなくなったんですよお! こいつらだって、あなたが殺さなかったから追いかけてきてえ!」
「え!」
正文はようやく声を出せた。
甲03の言葉と左手に巻かれた包帯が、彼に新たな精神的衝撃を与えたのだ。
(お、俺のせいなのか? 確かにあいつと戦った時に左手の指が何本か飛んでたし、キメラたちを殺さなかったのも事実だけど…え、ほんとに俺のせい?)
自分の責任かもしれないという気持ちが、正文の中に緊張感を産み落とす。
目の前で繰り広げられている状況を緊急事態と判断した。
(何がなんだかわかんないが、とにかくキメラたちをどうにかしないと話も聞けない!)
正文は戦うことを決める。
幸い、4体のキメラはまだ甲03に夢中でこちらには気づいていない。
(鎖でまとめて縛る…いや)
彼は首を横に振った。
(そんなことをしたら、あいつらの記憶もまとめて入ってくる。やっと心が落ち着いてきたのに、またキツい思いをするなんて冗談じゃない!)
『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での戦いが影響してか、正文の鎖は性質が変化していた。
重い気持ちで放っても半透明にはならず赤黒いままであり、相手に巻きつければその記憶が入ってくる。
記憶の流入は、彼の意志では防げない。
しかもそれが発生すれば精神に大きなダメージを受ける。
(どうすれば…)
正文が攻めあぐねていると、甲03がまたも震える声で叫んだ。
「得意の鉄球でどうにかしてくださいよぉお!」
(鉄球?)
鎖のことばかり考えていた正文にとって、鉄球という提案は目からウロコが落ちる気分だった。
だがすぐにデメリットが浮かんで、その表情は曇る。
(鉄球をたくさん出して撃てっていうのか? それこそエネルギーがいくらあっても足りな…)
「早くぅ! 1発でもいいですからぁ!」
「!」
甲03の必死な訴えが、デメリットという迷宮の出口を指し示す。
(そうか!)
曇っていた正文の表情が晴れた。
(たくさん出さなくていいんだ。むしろ少なくていい…!)
正文は、足元に黒いシミを作り出す。
そこからバスケットボール大の鉄球が出現した。
彼は右手から鎖を出し、鉄球をその近くまで浮かび上がらせる。
鎖の先端を鉄球に近づけると、先端が鉄球の中に入り込んだ。
(鉄球をたくさん出そうとするから、どれだけエネルギーを使うかわからなくて不安になるんだ)
正文は、鎖のついた鉄球を右手に持つ。
(鉄球と鎖、どっちもひとつずつなら大体の見当はつく!)
右手を大きく後ろに引くと、甲03に向かって声を張った。
「甲03! しゃがんでろっ!」
言い終えてすぐ、正文は横投げで鉄球を投げた。
鉄球が飛ぶのに合わせ、右手から鎖が伸びていく。
しばらく飛んだところで、鉄球が大きく左へカーブした。
(俺もスタート!)
正文は鎖の伸びを止めると自身も走り出した。
鉄球とともに、鎖を左方向へ持っていく。
やがて鎖は、4体いるキメラのうち最も右側に立つ個体に当たった。
「ガァ?」
キメラは何事かと当たった箇所を見ようとする。
しかしそれは許されない。
「グッ? ウグオッ?」
「ゲアア!」
鎖が最も右側に立つキメラの体を押し、右から2番目に立つキメラと激突させた。
さらに鎖は甲03にも例外なく迫る。
「ひぃっ!」
甲03はすんでのところでしゃがみ、事なきを得た。
続いて、鎖に押された2体のキメラが右から3番目、4番目のキメラにもぶつかる。
「ンガガッ?」
「ギガアァ!?」
これで4体のキメラ全員が、鎖に押される形となった。
コンシェルジュカウンターの左方向へ強制的に移動させられる。
それから2秒とたたず、鉄球が壁に衝突してめり込んだ。
鉄球は床に落ちることなくその場に固定される。
「うおおおおおおっ!」
正文が渾身の力で鎖を左方向へ持っていくと、4体のキメラは鎖に押されて壁に叩きつけられた。
「アバァア!?」
(もう1個いるか!)
さらに正文は壁の手前側に黒いシミを作り、2個目の鉄球を出現させる。
この鉄球は独立しておらず、左側の一部が壁と同化していた。
彼は手元の鎖を、2個目の鉄球と一体化させる。
そしてすぐに鎖を引いた。
「ンガァアアアア!」
4体のキメラが悲鳴をあげる。
鎖がピンと張ることで、壁に強く押しつけられたのだ。
2個目の鉄球は、鎖の張力を維持する『とじ具』の役割を果たす。
正文が力を抜いても、鎖がゆるむことはない。
(念のため…)
ふたつの鉄球の間に張った鎖の数が、一瞬にして1本から5本に増えた。
胴体にかかる圧力が高まり、キメラたちはもがくどころか声さえ出せなくなった。
「…よし」
「よし、じゃありませんよぉお~!」
正文が達成感を声に出すと、甲03が涙声で抗議する。
「助けてって言ったらさっさと助けてくださいよぉ! なにをボーッとしてたんですかあ!」
甲03はコンシェルジュカウンターの向こう側から出てきて、正文に近づいてきた。
この接近に、正文は警戒する。
2個目の鉄球から右手までつながっている鎖を、両手で握った。
それを水平にし、ヌンチャクのように前へ出して防御態勢をとる。
「そこで止まってくれ、甲03。俺には何がなんだかわからないんだ、説明してほしい」
「すぐにわかってくださいよぉお」
甲03は不満げに言いつつも、正文の要望通りに足を止める。
両腕を広げると、それらを前後に揺らしつつ懸命に釈明した。
「催眠を解いてもらったんですぅ。もう、下野 幸三の手下じゃないんですよぉ」
「え」
「その証拠に、阿久津さんの名前だって知ってたでしょお? 催眠を解いてもらった後でウチの、キルメーカーの運営に教えてもらったんですよお」
「そういえば…前は『くそ侵入者』って呼ばれてた気が」
「ほんとの僕チャンが、そんな失礼なこと言うわけないじゃないですかあ」
(『僕チャン』…そこは同じなんだ)
正文は驚きを忘れて苦笑する。
その変化を見て、甲03は不思議そうな表情を浮かべた。
「どうかしましたあ?」
「い、いやなんでもない……で、あいつらはなんなんだ?」
正文は真顔に戻って鎖を下ろす。
4体のキメラを左手親指で指し示した。
この問いに、甲03は抗議の勢いを強める。
「なんなんだ、じゃないですよお! 阿久津さんが殺さなかったから、僕チャンが追い回されるハメになったんですからあ!」
「え? ど、どういうことだ?」
「催眠と左手の治療が終わってから、ボスに言われたんですよお。阿久津さんの手助けをしろ、下野の手下になって困らせたんだからその責任を取ってこいってえ」
「うん…それで?」
「指切られたのにまだ働かなきゃいけないのって思いましたけどぉ、ボスに言われたらやるしかなくてえ、だから阿久津さんを探したんですう。でも30階に行ってもいなくてえ」
30階とは、正文と甲03(催眠中)が最後に戦った階である。
治療された甲03が戻ってきた時にはもう、正文は先へ進んでいた。
その後も甲03は、正文を探しつつ上階へ向かった。
そして36階で、正文が気絶させそれから回復したキメラと遭遇したのだという。
ただし甲03は『キメラ』とは言わず、別の呼称を用いた。
「『リアライザ』…?」
正文が問い返すと、甲03はうなずいた。
「35階までのリアライザは無力化されてたのでえ、36階のも同じだって思うじゃないですかあ。なのに36階だけじゃなくて37、38、39階のヤツも元気ビンビンでえ、僕チャンを追っかけてきたんですよお!」
「い、いや…35階までのは、無力化されてたっていうか指とか腕とかだったし…五体満足なのもいたけど、俺が行った時にはもう動かなかったんだぞ」
「それを無力化っていうんですう! 誰がやったのかなんて関係なくてえ、もともと動くものが動かなくなったんならそれは無力化されたってことでしょお?」
「まあ、それはそうだけど…う、うーん? 指とか腕も、もともとは動いてた……?」
「阿久津さんは36階でリアライザと戦ったんですよねえ? 37階、38階、39階でも戦いましたよねえ?」
「…ああ」
正文がうなずくと、甲03はおどおどしつつも怒りをぶつけてきた。
「なんで殺さなかったんですかあ!? おかげで僕チャンが殺されそうになったんですよお!」
「いや…あいつらは元人間じゃないか。それに、何も知らずここへ連れてこられたチェインドだ」
「へっ?」
甲03はきょとんとする。
正文は相手の反応に構わず言葉を続けた。
「罪もないのに殺されて、しまいにはバケモノにされるなんてあんまりだろ」
「阿久津さん、なに言ってるんですう?」
「お前たちの理屈じゃ、チェインドはアンチェインドに殺されるのが当たり前なんだろうけど…」
「ちがいますよお」
甲03は表情を変えないまま、4体のリアライザたちを指さした。
「あんなバケモノが元人間だなんて、そんなわけないじゃないですかあ」
「…!」
(しまった!)
正文は失言を悔いる。
先ほど彼が言った内容は、何らかの手段でリアライザたちの記憶を読み取れるという前提がなければ成立しないものだったのだ。
(催眠が解けて普通に話せてるから油断した! 甲03はキルメーカー側の人間…人殺しをギャンブルとして客に提供してる側の人間なんだ! 助けに来たっていっても、心を許していい相手じゃない!)
幸い、甲03は『正文がリアライザから記憶を読み取れる』という認識に至っていないようだ。
正文はあわててごまかした。
「そ、そうだよな、人間なわけないか…レストランの厨房で酒飲んだから、酔いが残ってるのかな」
「えーっ、阿久津さんってば飲み逃げですかあ? いけないんだあ」
「ちがうって! この仕事が終わったら、報酬で払うし…」
「それで足りますう? 下野ってば僕チャンの名前使って好き勝手に食材仕入れてたからわかりますけどお、どれもかーなりお高いですよお?」
甲03がニヤリと笑う。
その笑みを見た正文は、ドカ食いの請求額がどれほど高くなるのか恐ろしくなった。
とはいえ、ごまかしには成功したようである。
正文はひとまず、顔に出すことなく安堵するのだった。
→ring.62へ続く
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これまで、正文はさまざまなことに驚かされてきた。
白猫が実は彼自身の能力だったり、40階フロア内の豪奢さだったり、数え上げればきりがない。
だが今、目の前で起こっていることはそれらを上回る。
強烈な驚愕が、正文から声を奪った。
(甲03!?)
口がぱくぱくと動いて、心に浮かんだ言葉をなぞる。
(なんでここにいるんだ?)
この疑問に関しては、もはや口が動くことすらなかった。
彼は口をあんぐりと開けたまま、ただ呆然と事態を眺めていた。
正文が驚愕した通り、確かにそこには甲03がいた。
彼はコンシェルジュカウンターの向こう側から、涙目で正文に訴えかける。
「ちょっとお! なにボーっとしてるんですか阿久津さぁん! 助けてくださいってばあ!」
姿かたちは間違いなく甲03なのだが、その言動は正文と戦った時とはまるで別人だった。
そもそも、なぜ甲03が正文に助けを求めるのか。
彼はキルメーカー運営のエージェントだが、下野の催眠術に落ちてその手下となった。
4体のキメラは出自不明であるものの、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』に侵入した者を襲うという部分から、これらも下野の手下と推測できる。
つまり、甲03とキメラたちは同僚といえる関係のはずなのだ。
それなのに甲03は、コンシェルジュカウンターの向こう側でうろちょろと動き回り、キメラたちから攻撃されないよう自分を守っていた。
「ガアア! ゲファアッ!」
「ひぃい!」
右からキメラが近づこうとすれば、甲03は左へ行き、
「ゴォアアア!」
「や、や、やめ…!」
左からキメラが近づこうとすれば、甲03は右へ行く。
コンシェルジュカウンターを中心に、一進一退の攻防らしきものが繰り広げられていた。
ただ、キメラ側の動きには相手を小バカにしたような雰囲気が見て取れる。
甲03があまりにおびえるのでおもしろがっているようだ。
キメラたちはこの遊びに没入しているのか、正文の存在に気づく様子はない。
(なんなんだこの状況…)
正文はそう思いつつ、開けっ放しだった口を閉じる。
少しばかり時間が経過したことで、驚愕が和らいだ。
その時、カウンターの向こう側から甲03が叫ぶ。
「阿久津さぁん!」
甲03は正文の名字を口にしつつ、左手をあげてみせた。
それは白い包帯でぐるぐる巻きにされており、手というより球体に近い形をしている。
「あなたのせいで左手が使えなくなったんですよお! こいつらだって、あなたが殺さなかったから追いかけてきてえ!」
「え!」
正文はようやく声を出せた。
甲03の言葉と左手に巻かれた包帯が、彼に新たな精神的衝撃を与えたのだ。
(お、俺のせいなのか? 確かにあいつと戦った時に左手の指が何本か飛んでたし、キメラたちを殺さなかったのも事実だけど…え、ほんとに俺のせい?)
自分の責任かもしれないという気持ちが、正文の中に緊張感を産み落とす。
目の前で繰り広げられている状況を緊急事態と判断した。
(何がなんだかわかんないが、とにかくキメラたちをどうにかしないと話も聞けない!)
正文は戦うことを決める。
幸い、4体のキメラはまだ甲03に夢中でこちらには気づいていない。
(鎖でまとめて縛る…いや)
彼は首を横に振った。
(そんなことをしたら、あいつらの記憶もまとめて入ってくる。やっと心が落ち着いてきたのに、またキツい思いをするなんて冗談じゃない!)
『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での戦いが影響してか、正文の鎖は性質が変化していた。
重い気持ちで放っても半透明にはならず赤黒いままであり、相手に巻きつければその記憶が入ってくる。
記憶の流入は、彼の意志では防げない。
しかもそれが発生すれば精神に大きなダメージを受ける。
(どうすれば…)
正文が攻めあぐねていると、甲03がまたも震える声で叫んだ。
「得意の鉄球でどうにかしてくださいよぉお!」
(鉄球?)
鎖のことばかり考えていた正文にとって、鉄球という提案は目からウロコが落ちる気分だった。
だがすぐにデメリットが浮かんで、その表情は曇る。
(鉄球をたくさん出して撃てっていうのか? それこそエネルギーがいくらあっても足りな…)
「早くぅ! 1発でもいいですからぁ!」
「!」
甲03の必死な訴えが、デメリットという迷宮の出口を指し示す。
(そうか!)
曇っていた正文の表情が晴れた。
(たくさん出さなくていいんだ。むしろ少なくていい…!)
正文は、足元に黒いシミを作り出す。
そこからバスケットボール大の鉄球が出現した。
彼は右手から鎖を出し、鉄球をその近くまで浮かび上がらせる。
鎖の先端を鉄球に近づけると、先端が鉄球の中に入り込んだ。
(鉄球をたくさん出そうとするから、どれだけエネルギーを使うかわからなくて不安になるんだ)
正文は、鎖のついた鉄球を右手に持つ。
(鉄球と鎖、どっちもひとつずつなら大体の見当はつく!)
右手を大きく後ろに引くと、甲03に向かって声を張った。
「甲03! しゃがんでろっ!」
言い終えてすぐ、正文は横投げで鉄球を投げた。
鉄球が飛ぶのに合わせ、右手から鎖が伸びていく。
しばらく飛んだところで、鉄球が大きく左へカーブした。
(俺もスタート!)
正文は鎖の伸びを止めると自身も走り出した。
鉄球とともに、鎖を左方向へ持っていく。
やがて鎖は、4体いるキメラのうち最も右側に立つ個体に当たった。
「ガァ?」
キメラは何事かと当たった箇所を見ようとする。
しかしそれは許されない。
「グッ? ウグオッ?」
「ゲアア!」
鎖が最も右側に立つキメラの体を押し、右から2番目に立つキメラと激突させた。
さらに鎖は甲03にも例外なく迫る。
「ひぃっ!」
甲03はすんでのところでしゃがみ、事なきを得た。
続いて、鎖に押された2体のキメラが右から3番目、4番目のキメラにもぶつかる。
「ンガガッ?」
「ギガアァ!?」
これで4体のキメラ全員が、鎖に押される形となった。
コンシェルジュカウンターの左方向へ強制的に移動させられる。
それから2秒とたたず、鉄球が壁に衝突してめり込んだ。
鉄球は床に落ちることなくその場に固定される。
「うおおおおおおっ!」
正文が渾身の力で鎖を左方向へ持っていくと、4体のキメラは鎖に押されて壁に叩きつけられた。
「アバァア!?」
(もう1個いるか!)
さらに正文は壁の手前側に黒いシミを作り、2個目の鉄球を出現させる。
この鉄球は独立しておらず、左側の一部が壁と同化していた。
彼は手元の鎖を、2個目の鉄球と一体化させる。
そしてすぐに鎖を引いた。
「ンガァアアアア!」
4体のキメラが悲鳴をあげる。
鎖がピンと張ることで、壁に強く押しつけられたのだ。
2個目の鉄球は、鎖の張力を維持する『とじ具』の役割を果たす。
正文が力を抜いても、鎖がゆるむことはない。
(念のため…)
ふたつの鉄球の間に張った鎖の数が、一瞬にして1本から5本に増えた。
胴体にかかる圧力が高まり、キメラたちはもがくどころか声さえ出せなくなった。
「…よし」
「よし、じゃありませんよぉお~!」
正文が達成感を声に出すと、甲03が涙声で抗議する。
「助けてって言ったらさっさと助けてくださいよぉ! なにをボーッとしてたんですかあ!」
甲03はコンシェルジュカウンターの向こう側から出てきて、正文に近づいてきた。
この接近に、正文は警戒する。
2個目の鉄球から右手までつながっている鎖を、両手で握った。
それを水平にし、ヌンチャクのように前へ出して防御態勢をとる。
「そこで止まってくれ、甲03。俺には何がなんだかわからないんだ、説明してほしい」
「すぐにわかってくださいよぉお」
甲03は不満げに言いつつも、正文の要望通りに足を止める。
両腕を広げると、それらを前後に揺らしつつ懸命に釈明した。
「催眠を解いてもらったんですぅ。もう、下野 幸三の手下じゃないんですよぉ」
「え」
「その証拠に、阿久津さんの名前だって知ってたでしょお? 催眠を解いてもらった後でウチの、キルメーカーの運営に教えてもらったんですよお」
「そういえば…前は『くそ侵入者』って呼ばれてた気が」
「ほんとの僕チャンが、そんな失礼なこと言うわけないじゃないですかあ」
(『僕チャン』…そこは同じなんだ)
正文は驚きを忘れて苦笑する。
その変化を見て、甲03は不思議そうな表情を浮かべた。
「どうかしましたあ?」
「い、いやなんでもない……で、あいつらはなんなんだ?」
正文は真顔に戻って鎖を下ろす。
4体のキメラを左手親指で指し示した。
この問いに、甲03は抗議の勢いを強める。
「なんなんだ、じゃないですよお! 阿久津さんが殺さなかったから、僕チャンが追い回されるハメになったんですからあ!」
「え? ど、どういうことだ?」
「催眠と左手の治療が終わってから、ボスに言われたんですよお。阿久津さんの手助けをしろ、下野の手下になって困らせたんだからその責任を取ってこいってえ」
「うん…それで?」
「指切られたのにまだ働かなきゃいけないのって思いましたけどぉ、ボスに言われたらやるしかなくてえ、だから阿久津さんを探したんですう。でも30階に行ってもいなくてえ」
30階とは、正文と甲03(催眠中)が最後に戦った階である。
治療された甲03が戻ってきた時にはもう、正文は先へ進んでいた。
その後も甲03は、正文を探しつつ上階へ向かった。
そして36階で、正文が気絶させそれから回復したキメラと遭遇したのだという。
ただし甲03は『キメラ』とは言わず、別の呼称を用いた。
「『リアライザ』…?」
正文が問い返すと、甲03はうなずいた。
「35階までのリアライザは無力化されてたのでえ、36階のも同じだって思うじゃないですかあ。なのに36階だけじゃなくて37、38、39階のヤツも元気ビンビンでえ、僕チャンを追っかけてきたんですよお!」
「い、いや…35階までのは、無力化されてたっていうか指とか腕とかだったし…五体満足なのもいたけど、俺が行った時にはもう動かなかったんだぞ」
「それを無力化っていうんですう! 誰がやったのかなんて関係なくてえ、もともと動くものが動かなくなったんならそれは無力化されたってことでしょお?」
「まあ、それはそうだけど…う、うーん? 指とか腕も、もともとは動いてた……?」
「阿久津さんは36階でリアライザと戦ったんですよねえ? 37階、38階、39階でも戦いましたよねえ?」
「…ああ」
正文がうなずくと、甲03はおどおどしつつも怒りをぶつけてきた。
「なんで殺さなかったんですかあ!? おかげで僕チャンが殺されそうになったんですよお!」
「いや…あいつらは元人間じゃないか。それに、何も知らずここへ連れてこられたチェインドだ」
「へっ?」
甲03はきょとんとする。
正文は相手の反応に構わず言葉を続けた。
「罪もないのに殺されて、しまいにはバケモノにされるなんてあんまりだろ」
「阿久津さん、なに言ってるんですう?」
「お前たちの理屈じゃ、チェインドはアンチェインドに殺されるのが当たり前なんだろうけど…」
「ちがいますよお」
甲03は表情を変えないまま、4体のリアライザたちを指さした。
「あんなバケモノが元人間だなんて、そんなわけないじゃないですかあ」
「…!」
(しまった!)
正文は失言を悔いる。
先ほど彼が言った内容は、何らかの手段でリアライザたちの記憶を読み取れるという前提がなければ成立しないものだったのだ。
(催眠が解けて普通に話せてるから油断した! 甲03はキルメーカー側の人間…人殺しをギャンブルとして客に提供してる側の人間なんだ! 助けに来たっていっても、心を許していい相手じゃない!)
幸い、甲03は『正文がリアライザから記憶を読み取れる』という認識に至っていないようだ。
正文はあわててごまかした。
「そ、そうだよな、人間なわけないか…レストランの厨房で酒飲んだから、酔いが残ってるのかな」
「えーっ、阿久津さんってば飲み逃げですかあ? いけないんだあ」
「ちがうって! この仕事が終わったら、報酬で払うし…」
「それで足りますう? 下野ってば僕チャンの名前使って好き勝手に食材仕入れてたからわかりますけどお、どれもかーなりお高いですよお?」
甲03がニヤリと笑う。
その笑みを見た正文は、ドカ食いの請求額がどれほど高くなるのか恐ろしくなった。
とはいえ、ごまかしには成功したようである。
正文はひとまず、顔に出すことなく安堵するのだった。
→ring.62へ続く
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