ring.54 ンセクサ | 魔人の記

ring.54 ンセクサ

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質量を持つ全ての物体は、地面へ引き寄せられる。

(一瞬でいいッ!)

敵に裏をかかれ、ひざから力が抜けてしまった正文の太く大きな体も、

「ふっ」

正文の想像だけでなく、実際の位置においても彼のななめ上にワープし、裏をかいてみせた甲03の体も、

乾いた絨毯に向かって落ちる。
両者の落下速度に、ほとんど差はない。

ただし絨毯までの距離には、倍以上のひらきがあった。

(俺の方が早い!)

正文の目前には壁がある。
甲03に裏をかかれた後で顔を強く打ち、ひざから力が抜ける原因となった壁がある。

(俺はひざが曲がるだけだ。甲03は着地しなきゃならない。宙に浮いてる時間は、俺の方が短い!)

正文は、自分と敵が絨毯へ落下しようとしている現状を感じ取っていた。
そして彼の生存本能は、この危機的状況を受けて思考の速度を何倍にも跳ね上げる。

他の感覚をほぼ全て遮断し、戦うことだけにその意識を集中させた。

(包丁は落とされた。でも銃は使える!)

正文にとって、命がけの戦いはこれが初めてではない。
普段からは考えられないほど高まった思考速度にも、戸惑う様子はなかった。

ここに、肉体を自在に操れる確信が加わればどうなるか。

(そうか…)

正文の顔からあせりが消える。

(俺は今まで、どうにかして立ち上がるんだってことばかり考えてたけど)

体が絨毯に向かって落下していくのに反比例して、目の前の壁がせり上がる。
その動きを見る彼の目が、やけに落ち着いたものへと変わる。

(別に、立たなくたっていいんだ)

それはあまりにも大胆な、発想の転換だった。

(右手を支えになんかしなくたっていい。右手で壁を押して、後ろに倒れてしまえばいい…甲03は俺の真後ろにいるんだ、しかも俺より着地のタイミングが遅い)

転換後に生まれた言葉たちをもとに、正文は状況の推移を映像として頭の中に描き出す。
思考が加速したおかげで、彼は文字と映像の両方で自身の発想を確認する時間を得られた。

(あおむけになれば、甲03が着地するかどうかってところを狙えるんじゃないか? それにこのやり方なら、ひざに力が入らなくても関係ない……!)

ただ、この発想には注意事項も存在する。

(絨毯がやわらかいといっても、後頭部をまともに打てば脳しんとうになる可能性がある。背中を丸めてうまく受け身をとるんだ。今の俺ならそれができる!)

発想を確認できたからこそ、正文はこのことに気づけた。
勝機を見出して浮かれているわけではないと、自身でも感じ取れた。

さらに彼は、逆境までもチャンスに変える。

(包丁を落とされた『おかげで』、両手で銃を持てる!)

左手一本で撃つより、両手で支えながら撃った方が命中率は上がる。
拳銃に関しては素人の正文でも、それは知っていた。

だからこそ感じる。

(勝てるぞ…!)

最初の銃撃をワープで避けられ、包丁の回転攻撃も防がれた。
それでも、正文の中には勝利の予感がある。

(右手で壁を押してあおむけになる、それから銃で撃つ! 受け身をとるのも忘れるなよ、俺!)

彼はやるべきことと注意事項をまとめ、自らに言い聞かせる。
これほどの手順を踏んでも、思考が加速しているおかげで時間は十分にある。

後は実行に移すだけだった。

(いくぞッ!)

正文は、甲03に勝つための作戦を開始した。

まずは右手で壁を押す。
何も特別なことなどない、単純極まりない行動である。

単純極まりないため、彼は命令してすぐにそれを右手に任せた。
注意すべき次の行動へと意識を先回りさせる。

(倒れる時にちゃんと受け身を取る!)

これを成功させれば勝利は目前である。
正文は、倒れる時に発生する疑似視界の反転に備えた。

だが、反転は起こらない。

(あれ?)

疑問が正文の頭を埋め尽くす。

右手で壁を押したはずが、後ろに倒れない。
体はなぜか右にかたむいて、そのまま絨毯の上に倒れた。

(な…? なん? なんで?)

正文には意味がわからなかった。
倒れた衝撃が体内を駆け抜けて、その感覚がやけに生々しい。

生々しいということは、現実ということである。
だからこそ彼には理解できなかった。

”なに復活してんです? くそ侵入者”

背後から甲03の声が聞こえる。
すでに着地を終えたようだ。

少し距離があるのか、肉声ではなくマイクを通した声が正文の鼓膜を震わせる。

”しかも無傷っぽかったじゃないですか。あれだけくそ丁寧につぶしてやったっていうのに…でもまあ”

甲03は一度言葉を区切ると、何かを投げてよこした。
それは正文と壁の間に入り込む。

”もう五体満足ってわけにはいきませんけど”

「え?」

正文は、口から疑問の声を漏らした。
ただこれは、甲03に訊き返したわけではない。

(なんだ?)

すぐ近くで赤いもやが立ち上ったのである。
その位置は、彼自身と壁の間だった。

正文はそちらへ目をやる。

(手?)

そこには見慣れた手があった。
指先が、まっすぐ彼自身へ向いている。

正対した状態で親指が右側にあることから、それが右手だとわかる。

(右手? なんで…)

なぜ右手から赤いもやが立ち上ったのか。
しかもそれはみるみるうちに濃くなる。

真紅の濃霧に変わる。

(濃い血の臭い?)

そう認識した瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
左目のつくる疑似視界が、赤一色になった。

「あっ…」

感覚が戻ってくる。

「ああっ……」

戦うために遮断されていた感覚が、普段通りになる。

「あああっ…!」

正文は無意識に頭を左右に振った。
この時に簡易眼帯のひもがゆるんで、右目の覆いがはずれる。

疑似ではなく、本物の視界が右手を映した。
直後。

「うおああああああっ!?」

正文は絶叫した。
彼はようやく、何もかもを理解した。

甲03が投げてよこしたものとは、正文の右手だったのだ。

「うっ、ううぅうそだッ! こんなの、こんなのぉおお!」

肉体を自在に操れる確信も、勝利の予感も吹き飛ぶ。
正文は絶望に脅かされるまま、叫ぶことしかできない。

その様子を、甲03は呆れ顔で見つめた。

”ゾンビだけあって、気づくのくそ遅いですね”

ゆっくりとした足取りで正文に近づく。

”僕チャンの『フィスト』をまともにくらって、無事でいられるわけないじゃないですか。やっぱりくそ侵入者は頭の中もくそなんですね”

正文と甲03、両者の攻撃がぶつかり合ったあの瞬間、正文の右手は千切れ飛んだ。
正文本人は単に包丁を落としただけだと思っていたが、実際はそうではなかった。

なぜ気づくのが遅れたのか。
それは、彼の生存本能が他の感覚を遮断し、戦うことだけに意識を集中させたためである。

つまり正文が作戦を考え始めた時には、もう右手を失っていたのだ。
右前腕の半分から先を失ったまま、彼は壁を押そうとしていた。

「ああああぁっ! うがあぉおおおっ!」

”さて、それでは…”

甲03が、絶叫する正文のすぐそばで立ち止まる。

”どうやって復活したのか、教えてもらいましょうか”

『フィスト』で巨大化させたままの右手を、大きく後ろへ引いた。
それから飛び上がり、軽いかけ声とともに振り下ろす。

”よいしょー”

「いぎぃああぶべろっ!?」

巨大化した右手が、正文の頭をつぶした。

正文の感覚は全て閉じる。
激烈な痛みや喪失感、絶望さえもなくなった。


それからどれほどの時間がたったのか。
正文は、乾いた絨毯の上で目を覚ます。

「…う…」

『木の下で少年に泣かれた時の記憶』を見ることなく死に戻りを果たした。
そのことを認識すると同時に、彼は起き上がろうとする。

しかし、体が動かない。

「な……んだ…?」

”おや、気づきましたか”

脳天の先から甲03の声が聞こえた。
どうやら正文が倒れた先にいるようだが、顔すら動かせない彼にはそれを目視できない。

目視といえば、左右で見え方が違う。
左目がつくる疑似視界は赤く染まったままであり、右目がつくる本来の視界はかすんでいる。

乾いた絨毯の上にいることから、現在地が30階フロア内というのはわかる。
ただ、先ほど正文が甲03を狙撃した場所からはずいぶんと離れていた。

”もう寝ていてもいいですよ、くそ侵入者”

甲03が静かに言う。

”あなたを復活させたくそ協力者はこの先にいる、それがわかりましたのでね”

「な、に…?」

正文は声をあげるものの、甲03がドアを開ける音にかき消される。
会話は途切れた。

それからすぐに、甲03は何かを発見する。

”…おや? 赤い猫とは珍しい…いや、これは血……?”

「!」

正文の背筋が凍る。

(白猫…! やっぱり俺を死に戻りさせたせいでケガを……!)

”なるほど。状況から察するに、くそ協力者はこの猫か”

甲03の判断は早い。
常識などにとらわれることなく、白猫の力を瞬時に見抜いた。

そして微塵の迷いもなく死を宣告する。

”動物を痛めつける趣味はありませんが、くそ侵入者に協力した罪は思い。死んでもらいますよ”

「や、やめろ……」

正文は、甲03を止めるべく必死に声をしぼり出す。
だがそれはとてもか細く、相手に届かない。

右腕を落とされたと気づいた時はいくらでも叫べたのに、今は蚊の鳴くような声しか出せなかった。

「…やめろ…」

正文は懇願する。
心を込めて願う。

「やめて…ください」

正文は哀願する。
ほとんど泣きながら願う。

(たのむ…白猫には手を出さないでくれ!)

それだけが彼の望みだった。
そのためなら何でもできると、本気で思った。

(土下座しろっていうなら喜んでする! 靴をなめろっていうならピカピカになるまでなめるさ! それで白猫が助かるなら、俺のプライドなんかどうだっていい! だから……)

だが、正文の前には誰もいない。
見えるのは、横に倒れた世界を二分する絨毯と壁だけだった。

彼の声は届かない。
あふれんばかりの思いが、行き場を失って落ちていく。

そして落ちきった先で、別のものに変わった。

「やめろ」

このままでは白猫が殺される。

「やめろっ…」

そんなことは認められない。

「やめろぉ……!」

そんなことは許さない。

変化したものが、腹の底から込み上げる。
それは火山の噴火を思わせるほどに速く、また激しい。

胸の真ん中までくると、凄まじい勢いで爆発した。

(白猫は、俺が守る!)

そのおもいが、正文を解き放つ。

「うおおおおおおおおッ!」

正文は叫んだ。
悲鳴でも泣き声でもなく、雄叫びをあげた。

白猫を守るのだというおもい。
それを、そのまま声として口から出した。

正文の汗が流れ、乾いた絨毯に落ちる。
落ちた跡が黒いシミになった。

叫んだ時に彼の目からあふれ出た涙も、同じく絨毯に落ちてシミになる。

死に戻りが不完全だったため、正文の体は血まみれだった。
その血も、絨毯に黒いシミをつくる。

汗と涙と血。
それらのつくり出したシミが、正文を中心として急速に広がる。

土砂降りの雨が土をうがつように。
アリの群れが巣穴から這い出るように。

絨毯だけでなく、壁や天井までもがシミだらけになった。

シミはやがてドアを抜け、甲03のいる場所に到達する。
無数のうちのひとつが彼の靴に触れた瞬間、白い闇が出現して何もかもが曖昧になった。


→ring.55へ続く

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