ring.44 ネガキヒ | 魔人の記

ring.44 ネガキヒ

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拳銃のグリップで敵を殴り、気絶させる。
映画などでよく見るシーンである。

というより、映画などフィクションでしかそういった行為はしない。
打撃を目的として拳銃そのものを使うのは、暴発や精度低下の危険がある。

(まずい)

正文は拳銃に対して、映画などで見た程度の知識しかなかった。
平たく言えば素人だった。

蛇たちに、拳銃を持つ敵を食わせたことは何度もある。
だが正文自身が銃について学んだり、うまくあつかうための訓練をしたことはなかった。

彼は拳銃の安全装置がどこにあり、どう使えば解除できるかも知らない。
それでも甲03の足元付近を撃てたのは、拳銃を奪った時に元の持ち主が戦闘態勢に入っていたためだった。

(なんで……)

これは正文の計略である。
自身が拳銃のことに詳しくなくても、戦うつもりの相手から奪えばいつでも発砲できるはずだと考え、その通りに実行した。

下野の催眠に落ちたアンチェインドから銃を奪った時には、そこまで頭が回っていたのだ。
しかし今は違う。

(なんで今ごろになって…ッ!)

正文は明らかにあせっていた。
想定外の事態に戸惑っていた。

(足が動かない!)

彼は、拳銃を誤発射した直後から動けなくなっていた。
誤発射という失敗は、敵を呼び寄せるだけでなく致命的な副次効果をも生み出していた。

両足が絨毯から離れない。
持ち上げようとするのだが、どうにも力がうまく入らない。

原因はすでにわかっていた。

(俺の体が怖がっている!)

恐怖が正文の両足を重くし、意志の力を吸い取っていた。
彼の心と体は今、大きく引き離されていた。

絨毯から両足を離せない状況とはまさに対照的である。

(くっ、くそっ! 動け…動けッ!)

正文は右手で右足を叩く。
包丁を握ったまま、手のひら側を何度も打ちつける。

(もう、あの頃の俺とは違う! 人間ですらなくなったんだぞ、何をビビってるんだ!)

彼は心で訴えかけるが、両足は言うことを聞かない。
その間にも、敵ふたりが近づいてくる。

正文の左目は、彼らのにおいと熱を人型の光として壁の向こうに映し出していた。
擬似的な視界の中を走るその光は、殺意をはっきりとした形に描き出したかのようにも見える。

(ううっ!?)

人型の光を殺意だと認識した途端、正文の中で恐怖が強まった。
足だけでなく全身から力が抜けていく。

自分の意志というものを、体内に感じなくなる。
入れ代わりに、遠い記憶から誰かの声が聞こえてきた。

”あーっ! アクツがニワトリ殺した!”

”とりさんころすなんてサイテー!”

それは小学校の頃に、同じ教室で過ごした児童たちである。
遠い記憶とは、正文が彼らにいじめられた記憶だった。

鶏殺しの濡れ衣を着せられ、悪口を言われた。
中学校に上がってからは殴る蹴るの暴力も加わった。

(く…ううっ)

外から見れば、学校はせまく小さな社会にしか思えないだろう。
だが中にいる者にとっては、学校こそが世界の全てなのだ。

世界に正文の味方はいない。
誰も彼もが、正文は悪人だから何をしてもいいと思っている。

その恐怖は計り知れない。
年月がたって薄まることはあっても、完全に消えるかどうかはわからない。

そう、誰にもわからないのだ。
いじめられた本人ですら、一番忘れたいと思っている者ですら、消えるとは断言できない。

それほど根が深いのである。

(こんなもの…こんな意味のない記憶……!)

正文は必死に抗う。
恐怖をねじ伏せようともがく。

彼がそのことに集中しているために、時間の流れが遅くなっているのは不幸中の幸いだった。
ただその効果も永遠に続くわけではない。

一刻も早く恐怖から脱しなければ、それこそ敵の殺意に触れてしまう。

(くそっ!)

単に抗い、もがくだけではだめだと正文も気づいた。
状況を変えるため、これまで抗うことに使っていた必死さを考えることに使う。

まずはこうなってしまった原因に立ち返ることにした。

(問題は怖さなんだ…それさえどうにかできれば、俺はまた動き出せる!)

では恐怖の出どころはどこか。
真っ先に思い当たるのは、いじめられた記憶である。

しかしそれは、現状における直接の原因ではない。
後から呼び起こされ、明らかになったものである。

一体何が、いじめられた記憶を呼び起こしたのか。
これこそ正文が究明すべきものだった。

(俺がいじめられてた時は…みんなが敵だった。誰も俺の話なんか聞いてくれなかった)

彼は敢えて、忌まわしい記憶に真正面から挑む。

(中学に上がってからは好き勝手に殴られた。大人は俺を守ってはくれなかったし、全てを救うなんて宗教も俺だけは救ってくれなかった)

動悸がする。
強い恐怖は、心臓が拍を打つリズムさえも狂わせる。

(助けてほしかった。誰かそばにいてほしかった。立ち向かえばいいなんて言うヤツもいたけど、一緒に立ち向かってくれる人はひとりもいなかった…そうか)

正文は、心の中で何かがピタリと接合するのを感じる。
狂っていた心臓のリズムが元に戻った。

(御堂もきっと同じだ)

下野に蹂躙され心折れた彼女の姿が、いじめに屈した当時の自分と重なる。

(誰かに助けてほしかった。でも誰も助けに来なかった。ひとりで耐えてたけど、限界を超えてしまった……その姿を見たから俺はすごくキツくなって)

正文の意識が、恐怖の出どころを探し当てる。

(鎖や蛇たちを出せなくなった不安…1階に死に戻りしてからずっと抱えてた不安に、そのキツさが重なった。それでもなんとか耐えてたけど、俺も気づかないうちに限界を超えてて…)

彼の左目が、拳銃を見た。

(…あの一発で全部無理になって、動けなくなった)

正文はついに恐怖の正体を明らかにした。
これにより、体の半分以上が彼の意志を受け入れるようになった。

だが両足はまだ動かない。
正体を明らかにするだけでは、恐怖の支配から逃れることはできない。

(無理だったら、どうするんだ?)

正文は、自身に問う。
意志を受け入れず動こうとしない両足に、言葉を投げかける。

(逃げるか?)

簡易眼帯で覆われた右目が震えた。

(来た道を戻って、『御堂は下野に好き放題されたからもうダメだと思った』…α7にそう報告するか?)

両足の硬直が少しばかり和らぐ。
体が、この場から逃げる準備をしている。

(現場を見てもいないのに、御堂はもう殺されてたってウソをつくか?)

あとは正文が心をわずかに傾けるだけで、いつでも逃げられる。
そういった実感が、体の中にある。

「…ははっ」

彼は笑った。
小さな声で、しかしはっきりと笑った。

その顔には引きつった笑顔が浮かんでいる。
見る者によっては、歪みに満ちているようにも映る。

「無いだろ、それは」

正文はそう言うが早いか、右手で右足を殴りつけた。
そして敵が接近しているのも構わず雄叫びをあげる。

「おおおおおおおおおおッ!」

(確かに状況はよくない)

体をねじり、右手で左足も殴る。

「おああああああッ!」

(今の俺には鎖も蛇もない…)

殴ったことで両足に痛みが生まれた。
その痛みめがけて、正文は意志を送り込む。

前へ進むという思いを注ぎ込む。

「あああああああああああッ!」

(力は人間だった頃よりちょっと強くなった。でも敵ふたりに撃たれればどうしようもない。ただの弱いおっさんに逆戻りしてしまった)

笑顔がさらに引きつる。

(…だからなんだっていうんだ)

顔の筋肉がけいれんしている。
体が、ここで笑顔になるのは間違いだと非難している。

それでも正文は笑ってみせた。

(俺にはなんにもない)

痛みが増すのも構わず、両足にさらなる力を込める。

(弱くて、どんくさくて、わけもわからないうちにみんなから嫌われた。いじめられてきたし、やることなすことなんにもうまくいかなかった)

一歩、前へ踏み出す。
正文はついに両足の呪縛を打ち破った。

(だからなんだっていうんだ)

体が前進を拒絶し震え出す。
細心の注意を払わなければ、歩くことにさえ失敗し足首を痛める危険がある。

それでも正文は進む。

(弱いまま、行け)

言葉をしみこませるように、自身の体へ語りかける。

(どんくさいまま、行け)

少しずつ、歩幅が広くなる。

(みんなに嫌われたまま、行け)

顔の筋肉から、けいれんが消えていく。

(いじめられても、うまくいかなくても…行け)

敵ふたりの位置をあらためて把握し、自分がどこにいるべきかを考える。
成り行きで冷静な思考を得るのではなく、意志をもってそれを生み出す。

(御堂を助けに行っても、もう殺されてるかもしれない。意味なんかないかもしれない…それでも行くんだ)

今、正文の心には1匹とひとりの姿が浮かんでいる。

1匹とは白猫である。
いつ見ても泰然としたその振る舞いが、正文に力を与えてくれた。

そしてひとりとは、なんと心折れた御堂だった。
恐怖で動けなくなる原因を作った彼女の姿が、今は正文を前へ進ませている。

(御堂は誰にも助けてもらえないまま、下野に苦しめられてる…昔の俺みたいだ)

この頃になると、正文の顔からけいれんが消えた。
体の震えも止まる。

彼は通路の曲がり角に身を隠し、力をためた。

(きっと同じなんだ)

敵が角から出てきたところで、思い切り駆け出す。
太く大きな体でぶつかり、壁に叩きつける。

「ぐぉえっ!?」

(御堂も、誰か助けてくれって願ったはずだ)

正文は敵を気絶させてすぐ、曲がり角に戻る。
彼がいなくなった空間を、銃弾が裂いた。

この階最後の敵が撃ってきたのである。

「クソがッ!」

敵は回避されたことに気づくと、正文のいる曲がり角に走って近づく。
正文はそれを狙って突進しようと構えた。

(だったら、俺がその『誰か』に…)

心で言いかけた言葉が止まる。
敵の反応が、突然消えたのだ。

(ワープ!)

それは、4階ワークスペース前で死に戻りを喫した攻撃と全く同じだった。
しかし一度経験していれば、対応は難しくない。

正文は素早く後ろを向いた。
そこには、ワープを終えた敵が立っている。

(俺がその『誰か』になる!)

心で言い放つとともに、正文は低い体勢で前へ飛び出した。
敵に体当たりして壁に叩きつける。

「ぐおあっ!」

敵はまさか裏をかかれるとは思わない。
ワープ直後に発砲はしたものの、正文の重い体を止めるには至らなかった。

「ふう、はあ、ふう…」

正文は、動かなくなった敵を見下ろしながら肩で息をする。
16階の敵を全員倒せたことに安心しかけたその時だった。

「うぐ!」

左肩に鋭い痛みを感じる。
敵がワープ直後に撃った弾が、その場所をかすめていた。

動かせなくなるほどひどい傷ではない。
ただ、手で傷口に触れると赤い血がそれなりに付着する。

決してかすり傷とはいえない状態だった。
しかし正文は、右手についた血を見つめながらも笑顔を消さない。

(撃たれても……行け)

彼は右手を下ろすと、17階を目指して進んでいった。


→ring.45へ続く

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