ring.34 ツケイル | 魔人の記

ring.34 ツケイル

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出向いた先で、望まぬ相手に突然遭遇した。
そんな時、人はどうするか。

おそらくほとんどの者が、思わず後退してしまうだろう。
だが正文は違った。

(α7!)

彼は後退するどころか、相手に向かって一歩踏み出したのである。
常日頃から突発的な戦闘を想定していなければ、こんなことはできない。

しかし相手もまた、それでたじろぐほど無防備ではなかった。

「ゴアイサツやなあ!」

α7は駄菓子の酢イカをくわえたまま、鋭く叫ぶ。
地面めがけて小さなボールを3つ投げた。

赤、青、黄に色づけされたボールは、正文が次に足を置いた地点で破裂する。

「!?」

大きな音と火薬のにおいに、正文は思わず両手で顔をかばった。

(…小さい?)

破裂の規模が思ったよりも小さく、爆発と呼べるほどではない。
彼は一瞬後でそれに気づき、両手の防御を解く。

「なに!」

α7がいない。
黒スーツとピンク髪の女エージェントは、正文の前から姿を消した。

「どこに…」

「後ろや」

「!」

正文は声を聞くと同時に、素早く後ろを向く。
だがα7はいない。

「なっ…!?」

「どこ見とんねん。後ろや言うたやろ」

「くっ!」

悔しさに顔をゆがめつつ、正文はもう一度後ろを向く。
それでもα7は見つからない。

(どういうことだ…? 間違いなく後ろから声がしたのに!)

血鎖(ちぐさり)の蛇を得て、人食いの異形『チグサレ』と呼ばれるようになってから、正文が人間相手におくれを取ることなど全くなかった。

腕力やスピードが人間より優れているのは言うまでもない。
刃物や拳銃といった凶器も、彼を傷つけることはできないのだ。

さらには、数々の修羅場をくぐり抜けてきた殺し屋たちの度胸や覇気でさえ、正文をおびやかすには至らなかった。
彼と人間とでは、生命体としての次元が明らかに異なっていたのである。

だというのに今、正文はα7に文字通り振り回されていた。

(ただ速いってわけじゃない…! α7は、CF21のように特別な力を持っている!)

何度目かの振り返りを経て、彼は確信する。
その力を見破るべく、視覚に意識を集中させようとした。

そこへα7が言葉を投げてくる。

「お得意の蛇は使わんのか? ええで、別に。使っても」

「…あんたの用事次第だ」

正文は、一瞬だけ校舎の方を見てから静かな声で返す。
背後に向き直るも、やはりα7の姿はとらえられない。

彼らがいる場所はミカガミ内の一坂小学校校庭で、校舎からかなり距離がある。
そのことには安心した正文だが、冷静を装っているのが苦しまぎれでしかないというのは自覚していた。

ごまかすことへの気恥ずかしさで、彼の耳たぶは少しばかり赤い。

「ウチの用事は決まっとる──」

α7は後ろに立つのをやめ、正文の前に現れた。
右手を自身の胸の前へ持っていき、手のひらを体の右側へ向けて逆手にする。

そして親指と人差し指で円を作り、彼に見せつけた。

「──ゼニや」

彼女はニヤリと笑いながらそう言うと、唇の端から出ていた酢イカの先を舌で口の中へ巻き込む。
この瞬間、場から戦闘の熱が完全に消え失せた。

α7は右手を下ろし、左手を自身の腰に当てる。
正文を見上げつつ酢イカを飲み下し、身長差などものともしない不敵さでこう告げた。

「蚊女とのバトル、見たで。大したバケモノっぷりやないか」

「…! やっぱり部屋の中にもカメラが」

「当たり前や。シーズンが始まれば、いつどこで殺しが起こるかわからんからな。決定的瞬間を逃さんよう、いたる所にしかけとる。それはそうと」

α7は不思議そうに首をかしげてみせた。

「蚊女とのバトルが終わった後、なんでいきなり共食いしだしたんや?」

「あんたには関係ない」

「死体処理班がずいぶん困っとったで。報告やと死体は男と女1体ずつやったのに、男の方がおらんくなったってな」

「……」

正文は沈黙を返す。
赤かった彼の耳たぶはもう、元の色に戻っていた。

α7はそれを見て、どこか諦めたような表情を浮かべる。
首の角度を真っ直ぐに戻し、話を続けた。

「まあ、大方の予想はつく。蛇を操るのにエネルギーがめっちゃいるんやろ。体を食った後に残る紫色の光がそのエネルギーなんやろうけど、足りんかったから共食いするしかなかった」

「関係ない」

「とぼけても無駄やで。この2ヶ月間、おっさんがどんな暮らしぶりやったかもちゃんとモニターしとるんやからな。一坂郡内とここミカガミを行き来しとるのも把握ずみや」

「だったらどうだっていうんだ」

正文はいらだった表情で反論する。

「ここに金はないし、俺も金なんか持ってない。あんたがここに来た理由は金らしいが、金目当てに金がない場所に来るなんて矛盾してる。本当は何が目的なんだ」

「いーや、なんも矛盾はしとらん。なぜならおっさんはずっと金を生み続けてたし、これからも生むことになるからや」

「なんだと?」

「その話をする前に、ひとつ誤解を解いとこか」

α7は左手を下ろす。
自身の腰の後ろへ回し、右手とつないだ。

「あんたがウチにツンケンするのは、ウチがCF21と一緒にお仲間を殺したと『思い込んどる』から…違うか?」

「思い込みだと? 何を言ってる…!」

正文の顔に怒りと憎悪が現れた。
今にも蛇を放ちかねない勢いである。

そんな彼を、α7は笑った。

「思い込みを思い込みと言って何が悪いんや。あんたはウチがお仲間を殺したとこ、見たとでも言うんか?」

「……!」

正文は体をピクリと震わせる。
思わず左足を後ろへ引きそうになった。

言われてみれば、α7が仲間たちを傷つけた現場は見ていない。

(CF21と一緒にいるところは見たけど、それだけ…か?)

「ウチはCF21を連れてきただけや」

α7は、正文の戸惑いを見透かしたようなタイミングで言う。
その表情はいつの間にか、真面目なものに変わっていた。

「だからといって、『ウチだけは無実や』とか虫のいいことは言わん。お仲間を殺す片棒をかついだのは事実や。CF21を止めたりもせんかったしな」

「………」

「ただ、ウチが直接手を下したわけじゃないってことは、あんたにわかっといてほしい」

彼女はここで一度言葉を切る。
スラックスのポケットからカードらしきものを数枚取り出した。

それを見た正文の顔から、怒りと憎悪が消える。

「メンコ…!」

彼は仲間たちとメンコ遊びをしたことが何度もある。
最強のメンコプレイヤーたるベントーベンを攻略するため、イカサマじみた裏技を考案したりもした。

しかし、メンコそのものがどこから来たのか想像したことはなかった。
ただの一度もなかったのである。

「あんたが買ってきてたのか!」

「ま、ちょっとした罪滅ぼしやな。ちなみに、さっきあんたを煙に巻いたのはコレや」

α7は別のポケットから色とりどりのかんしゃく玉を取り出し、正文に見せる。
手の中で器用に転がしながら言葉を続けた。

「さすがのウチもなあ、ボスに命令されたら逆らえん。前にCF21をここに連れてきたのは、ボスからの命令やった。でも命令されんかったら連れてこん。ウチの力がなければ、ボス以外はここには来れん」

「…あんたが、CF21を止めてくれてる…と?」

「前も言うたやろ? CF21はお仲間が大ッ嫌いやねん。ボスからもらった力で殺せんことが我慢ならんのや。でも苦痛を与えることはできるから、気晴らしにお仲間を殺そうとする。それをウチが止めとる」

「……」

「こっぱずかしいんやで、こんな話するの。でもあんたに誤解されたまんまやとおもんない。それにあんたはウチの稼ぎ頭やからな、ちゃんとわかっといてもらわなあかん」

「…アンチェインドたちを殺してるのは、別にあんたのためじゃない」

「わかっとる、自分のためやろ? あんたはそれでええ。それでウチはたんまり稼げとるからな」

α7はメンコとかんしゃく玉をポケットにしまった。
その後で、今度はジャケットの左ポケットからスマートウォッチを取り出す。

「新しい時計や。ただのアンチェインド用やない、スペッシャルなヤツやで」

「…俺はもうチェインドでもアンチェインドでもない」

「これがあれば、キルメーカー運営が封鎖した区域にも入れる」

「運営が封鎖した区域? そんなところにアンチェインドなんかいないだろう。狩りの範囲が広がるわけでもないのに、つけてもしょうがない」

「それがなあ、おんねん」

そう言い残すと、α7は突然姿を消した。
一瞬の間もあけず、正文の左に現れる。

そして素早くスマートウォッチを彼の左手首に巻いた。

「これで完了、と」

「あっ!」

「あんたには人助けに協力してもらう。ただ無計画にアンチェインドたちを食い殺すより、よっぽど有意義な過ごし方やと思うで」

「…嫌だと言ったら?」

「そうやなあ…」

α7は考える仕草をする。
チラリと流し目で正文を見つつ、妖しく微笑んだ。

「最後の手段として、あんたが隠してることをお仲間にバラす」

「残念だったな、俺がみんなに隠してることなんかない」

「ほんまか? じゃあ、『おっさんは蛇の力であんたらを傷つけんようにアンチェインドたちを殺し回っとる』って、お仲間に言ってもええんやな?」

「なっ…!?」

「CF21を連れてきたりするから、ウチはお仲間と仲はよくない。でも駄菓子やらおもちゃやら持っていくから、信用は一応あんねんで。そんなことないって突っぱねられることはないんやないかな~」

「く、くうぅ」

正文は歯噛みする。

蛇の力についてひとりで抱え込んでいることがバレれば、きっとメギたちに怒られる。
彼はそれをひどく恐れていた。

「いいヤツかと思えば、脅迫してくるなんて…!」

「ウチはいいヤツやで? あんたに依頼しとるのも人助けや。ただこれには──」

α7はまたもや右手を自身の胸に前に持ってきて、親指と人差し指で円を作る。

「──ゼニがからんどるけどな」

彼女はニンマリと笑ってみせた。
断れないと悟った正文は、ガックリと力なくうなだれるのだった。


α7が指定した場所は、一坂郡の西部にある。
地上170メートル超の高さを誇る、タワーマンションだった。

「すごいな…」

正文は感嘆する。
その顔には、初めて遊園地に連れてきてもらった時のような素直な驚きがあった。

彼が人間だった頃は、どんなに働いても四畳半風呂なし共同トイレの物件にしか住めなかった。
キルメーカーという実態を隠すための『ベーシックインカムの社会実験』に参加してようやく、現在の自宅マンションを借りることができたのだ。

そんな正文にとって、タワーマンションなど夢のまた夢、雲の上の存在だった。
見上げた最上階はあまりに遠く、本当に雲の上まで伸びているのではないかという気にさえなる。

”ビィーッ!”

正文の背後でブザーが鳴った。
彼が振り返ると、そこには黒塗りの外車が停まっている。

運転席には誰も乗っていない。
この自動運転車が、正文を現実の一坂小学校からここまで運んだのだ。

彼が車に近づくと、ブザーに続いてα7の声が聞こえてくる。

”大事なこと、言い忘れとったわ”

「大事なこと?」

”報告によると、そのタワマンに身元不明のガキんちょがおるらしい”

「ガキんちょ…子どもがいるってことか?」

”そういうことやな。ターゲットを助け出すのと並行して、そっちの調査もよろしく。ほなな~”

「え? 調査ってなんだよ、おい!」

いきなりの追加任務に正文は声を張るが、返事はない。
通信はすでに終了していた。

彼はやれやれとため息をつきつつ車を離れる。
封鎖ゲートにスマートウォッチをかざし、タワーマンションの敷地内へと進入するのだった。


→ring.35へ続く

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