ring.30 意趣返し | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

ring.30 意趣返し


202号室は静かだった。
助けを求める声や生をくびり殺すささやきが、響くことはなかった。

寝室と居間を兼ねる洋室には、ひかえめな大きさのベッドがある。
ベッドは夢見がちな少女を思わせるピンク色のシーツや枕、ぬいぐるみなどでかわいらしく飾り立てられている。

そしてベッドと壁の間にある空きスペースには、部屋の装飾に全く合わない正文の太った巨体が横たわっていた。

右腰の上あたりに空いた穴からは今もゆるい勢いで血液が流れ出し、床に敷かれたラグを赤黒く染め続けている。

「麻痺毒はもう押し流されたか」

山崎がつぶやく。
蜂の黄色を連想させる色彩の強力な麻痺毒は、部屋のどこにも見当たらない。

彼は得物の千枚通しを軽く振る。
その後でポケットから白いふきんを取り出した。

「さて、あちらはどうなったか」

千枚通しに付着した血をふきんで拭き取りつつ、玄関方面に顔を向ける。

「帰る時くらいは、ドアから出たいものだが……っ!?」

期待を遮るかのように、それは突然起こった。
強い風が、下から巻き起こったのである。

「バカな!」

山崎がそう叫んだのも無理はなかった。

背後から風が吹いてきたというのなら、その勢いがどんなに強かろうと彼は心の底から納得できただろう。
そこには、2階ベランダとつながる開口部があるからだ。

しかし山崎の足元には、正文の体とその血で汚れたラグや床しかなかった。
突風の原因といえば積乱雲が有名だが、マンションの一室にそんなものがいきなり現れる道理など存在しない。

「うおっ!?」

山崎は、抵抗する間もなくものすごい力で引き倒される。
気づけば天井を見上げていた。

首や手首に何やらひんやりとしたものが巻きついて、床から起き上がれなくなる。
ひんやりとしたものは力をぐっと増して、彼に圧迫感を与えた。

「う、うぐっ」

「山崎さん」

名を呼ぶ声がしたかと思うと、山崎の視界上部に何者かの顔が逆さに現れる。
その正体を認識した瞬間、彼は驚愕のあまり呆然とした。

「な…!?」

「俺は勘違いしてました」

静かに話し始めたのは、正文である。
正文は両手両ひざを床につけた四つん這いの体勢で、山崎の頭頂部側にいる。

その姿は、動けなくなった獲物を見下ろす蜘蛛に似ていた。

「あなたは寡黙で…自分が有利になったからって調子に乗ったりしない。そう思い込んでたんです」

「なぜ…なぜ生きてる?」

「でもそうじゃなかった。あなたは俺を刺し、勝利を確信して…あんなにベラベラとしゃべりまくった」

「麻痺毒が効かなかったとでも? そんなバカな! あれは猛獣でさえ一発で」

ふたりの会話は全く噛み合わない。
それぞれがそれぞれに、言いたいことだけを言い合う。

だが、いつまでも同じ状況ではなかった。

「さぞ気分がよかったでしょうね。俺を見下ろす…いえ、『見下す』のは」

「!」

正文の言葉が、山崎を絶句させる。
それはふたりの会話が噛み合った瞬間、いや正文が会話を支配した揺るぎない証だった。

「あなたは見下されるのを何よりも嫌う。しかし同時に、誰かを見下したいという欲望を常に抱いている」

「な…」

「だからさっきはあんなに饒舌だった。我慢して抑え込んでたものを、ここぞとばかりに放出した」

「き、貴様ッ」

山崎は怒りをあらわにする。
正文に驚愕させられ見下ろされているこの現状は、先ほど彼自身がやったこととまるで同じだった。

意趣返しをされている。
そのことに気づいたのだ。

「くっ、ううっ…!」

山崎はどうにか自由になろうともがく。
しかし首や手首に巻きついた何かは、彼をしっかりと床に固定し続ける。

正文はそれを悠然と眺めながらこう続けた。

「あなたが車から降りた後、長沼さんからこんなことを聞きました。あなたは自分で助けた人や、なじみの店員さんたちを殺してきたと。動機の傾向がまるで謎で、『爆弾』のような人だ…と」

「……」

山崎は、反応などしてやるものかと沈黙する。
そんな彼に、正文はどこか素っ気なく言葉を投げた。

「あなたはただ、見下したかった」

「!」

「自分を信じていた人たちが、自分を見ながら絶望していく様を、見下していたかった」

「……」

山崎は再び沈黙した。
だがこれは正文の言葉に対する抵抗ではなく、図星を突かれたが故の声なき悲鳴だった。

正文は、山崎の心理的苦悶を少しも欠けることなく感じ取る。
ゆっくりと話を続けた。

「…だから普段は紳士的に振る舞う。頭の回転が速くさっぱりとした性格で、歪んだところなど何ひとつないように見せる。そうやって信じ込ませる」

「貴様…! わかったような口を」

「わかったような口をきいたっていいじゃないですか」

正文は、顔をぐいっと山崎に近づける。

「俺も信じ込まされたんですから」

「……!」

「きっと今まであなたに殺されてきた人たちも、さっきの俺と同じように…いえ」

表情のない目で相手を見つめた。
それは光が届かない闇世界のさらに奥底へ続く、井戸の口を思わせる。

「今のあなたと同じように、『なんで?』って思いながら絶望したんでしょうね」

「うっ、ぐぐ…! おのれ、貴様ッ!」

山崎は苦し紛れに怒声を放つ。
それを文字通り眼前で受けた正文は、ひるむどころかさらにあおってみせた。

「否定しないんですか? 絶望などしていない、と」

「許さん…! 許さんぞ! この僕を見下すだけでなく、愚弄するなどッ!」

「あなたと同じことをしているだけですよ。自分がされたら嫌なことを他人にするなと、子どもの頃に習わなかったんですか?」

「うぬあああッ! きっさまァ…うげっ!」

山崎の激しい怒りも、いきなり呼吸を止められては続かない。
彼の首と手首に巻きついた何かが、先ほどよりも強く絞まった。

「がっ、うぅぐ」

「あなたのせいで、俺は死にました」

正文は音もなく立ち上がる。
山崎の頭頂部側から、逆さに顔を見つめ続ける。

「でもそれは、『人間の俺』です」

「かはっ、うげぇ」

「今の俺は人間じゃない」

「うぅうう…ぐふぅ」

「鎖を出せるようになった時点で、半分妖怪みたいなものでしたが…今はもう、『完全に人間じゃなくなりました』。あなたのおかげです」

「……!?……」

「だから俺の得物について、少しだけ教えてあげます」

正文の視線が、山崎の顔から首へ移る。
そこに巻きつく赤黒い何かについて、語り始めた。

「俺の鎖は、鎖以外のものにも変われるようになりました。それが、山崎さん…あなたの首を絞めています。なんだかわかりますか?」

この正文の質問は、形式的なものである。
呼吸すら満足にできない山崎が答えられるわけがないと、最初からわかった上で問うていた。

2秒ほど間をあけてから、正文は答えを口にする。

「蛇ですよ」

彼は真顔だった。

「俺の鎖は、蛇に変われる…蛇たちは俺の『人間としての死』を食い尽くしました」

目には光が戻り、声にも話し始めの静けさがある。

「俺が半分妖怪だった頃、誰かがこう言ったんです。『死とは、そこにあるだけで完成、完結、完了するもの』…すでに起こってしまった状態であり、認識や理解が入り込む隙などないと。でも」

正文は小さく一歩だけさがった。

「俺の蛇たちは、『人間としての死』を食い尽くしたんです」

彼の周囲に、8匹もの赤黒い蛇が顔を出す。
めいめい口を開いては、ウロコと同じ色の舌を素早く出し入れする。

蛇たちの主は宣告した。

「今からあなたは、そんな蛇たちに食われます」

「!?」

「運が良ければあなたも…俺みたいに『人間じゃない何か』になれるかも…いや」

そこまで言うと、正文は一度言葉を切って首を横に振る。
直後、彼は態度を豹変させた。

「オマエみたいな無能にゃ無理か! ギャハハ!」

最大限の嘲笑を、山崎に叩きつける。
それをきっかけに蛇たちが一斉に動いた。

「シャアアアアッ!」

「シャアーッ!」

切り裂くような音を発しながら、8匹は山崎の体に殺到する。
鋭い牙を刺し込んだ上で引き裂き、その肉を食らった。

「ぎぃっ! あぐああっ! ぐむぅううううッ!」

捕食される苦痛に、山崎が悲鳴をあげる。
正文はそれを指差しながら、腹を抱えて笑った。

「あーっははははははっ! 食われてる、食われてやがる! 俺を殺したバカが、俺の蛇に食われてやがる!」

「お、お、おのれェエエエエエッ!」

「痛いか? 苦しいか? どんな気持ちだよ、え? 今どんな気持ちなんだ? 俺に教えてくんねーかなァ! あはははははっ!」

「殺してやる…! 貴様だけは殺してやる! 僕の誇りにかけて、貴様を肉塊に変えてやるッ!」

「もうオマエは死ぬんだよ、ボケクソがァ! 俺を殺すなんて無理に決まってんだろ!」

「殺す…! 殺してやる……!」

山崎は、血走った目で正文をにらみながら怨嗟の言葉を繰り返す。
蛇たちに食い尽くされるまで、彼がそれをやめることはなかった。

やがて山崎がいた場所に、紫色をした人型の光が残る。

「……」

正文は途端に黙り込み、その顔から嘲笑を消した。
まるでスイッチが切れたかのような変わりようだった。

彼は無言のまま、人型の紫光を指差す。
すると1匹の蛇がそれを丸呑みにした。

紫光は蛇の赤黒い体の中を素早く駆け抜け、大元たる正文に到達する。
そこで吸収されて消滅した。

「…ふー…」

「化け物め!」

不意に鋭い声が飛んできた。
正文は、弾かれたようにそちらを見る。

「!」

玄関へと続く廊下の中ほどに、詩織が立っていた。
怒りと嫌悪感が入り混じった形相で、正文をにらみつけている。

「…どの口が言ってんだか…」

正文はうんざりした口調で言ってから、詩織の足元に目を向けた。
その向こうには梨名が倒れていたが、もはや動く気配はなかった。


→ring.31へ続く

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