Ch.288 起死回生
エンディクワラが、7本の左腕を動かし始める。
吸い込んだ姫を材料に、三度目の描画を開始しようとした。
だが左腕は7本が7本とも、ベースカラーの赤黒から変化していない。
虹を思わせる7色に変わったこれまでとは明らかに状況が異なっていたが、エンディクワラはそれに気づいていないようだった。
”──生とは、死の反動──”
エンディクワラは同じ言葉を繰り返しながら、左腕の先端を空間に泳がせる。
左腕が7色に変わらないのはインク切れを意味しているのか、先端から軌跡が描き出されることはない。
それでも、エンディクワラは特にこれといった反応を示さなかった。
異常に気づかず、不具合が起こっても原因を探ろうとしないその様子は、やはりどこか機械然としていた。
しばらくすると、7本ある左腕のうち1本、肩口から生えた3本のうち中央の1本に、一対の目が浮かび上がる。
キュアリーハートの愛らしさを持つその目は、姫のものだった。
姫の目は、エンディクワラの体を見ると同時に険しくなる。
”やあっ!”
空間に鋭く響いた声もまた、姫のものだった。
これに呼応して、姫の目が現れた左腕が描画の軌道から大きく外れる。
ペン先にも似た左腕の先端が、エンディクワラの胸部に向かった。
他の左腕はインク切れのまま描画を続けている。
右腕はそもそも存在しない。
1本の左腕が起こした反乱。
それを、エンディクワラは止められなかった。
”──まず無限の死がっ…──”
繰り返しの言葉が途切れる。
姫の目が現れた左腕が、エンディクワラの胸部に刺さったのだ。
ただ、貫くというところまではいかない。
先端が3ミリほど食い込んだに過ぎなかった。
それでも、反乱を起こした左腕からは喜びの声があがる。
”いける…!”
この声もまた、姫のものだった。
彼女は、エンディクワラが持つ7本の左腕のうち、1本を支配することに成功していたのである。
”槍じゃ無理だったけど、『本人』の左手なら傷をつけられる……!”
円錐形の氷槍は、攻撃の規模がかなり大きかった。
にも関わらず、エンディクワラには傷ひとつ負わせることができなかった。
これに対し、エンディクワラ自身の左腕は一撃で、小さくはあるものの明らかに傷と言える傷を作り出すことができた。
”やっぱりそうだ。このエンディクワラは魔人ペンでもある! 魔人ペンは、闇のインクを作るために誰の体にも刺さるようになってる…エンディクワラ自身だって例外じゃない!”
姫は、新しいミオラが倒された後で虹色の輝きになり、自身が持つ魔人ペンとエンディクワラに吸い込まれたのを見た。
この時点で彼女は、エンディクワラもまた魔人ペンなのではないかと推測した。
魔人ペンは虹色のインクだけでなく、記憶を犠牲にする血のインク、刺した相手の記憶を利用する闇のインクと、全部で3種類のインクを使うことができる。
姫は、闇のインクを使う際に必要となる『相手に刺す』という事前行動に着目し、エンディクワラ自身が持つ左腕の先端であれば、装甲を無効化できるのではないかと考えた。
さらに、憑依の力を使う時に自分が変化する虹色の球体が、吊られたマスクの体が変化する虹色の輝きに似ていることに気づいた。
輝きの代わりに自分がエンディクワラの体内に吸い込まれれば、憑依の力を発動させた時と同じような状況を作り出せるはずだ、という仮説を立てたのである。
”勝てる! これならっ!”
仮説は正しかった。
姫は勝利を確信する。
彼女は、自身が操るエンディクワラの左腕を大きく外側へ振った。
今度は勢いをつけて、先端を胸部に刺す。
”──…ある。それは物言わずっ……──”
”勝つんだ…! 勝って、この戦いを終わらせるんだ!”
エンディクワラの言葉は再び途切れ、その空隙を姫の声が満たす。
赤黒い胸部装甲にできた傷が、だんだんと深くなる。
”うぐっ…”
深くなるほどに、姫の声は苦痛に染まっていった。
「姫ちゃん…!」
あかりが必死に呼びかける。
『雷電怒涛(ダイ・オット)』を受けた彼女は、まだ立ち上がることすらできない。
そんな状態でも、あかりは自分より姫を心配していた。
「痛いんじゃ…ないの…!? お願い、無茶しないで……!」
”大丈夫。大丈夫だよ、あかりちゃん”
姫は慈愛に満ちた声であかりに言いながら、エンディクワラの左腕を胸部に刺す。
胸部の傷は、すでに3センチ以上の深さになっていた。
傷からは血液に似た赤黒い液体が流れ出し、床に向かって細い筋を作っている。
”…くうっ”
痛みを我慢しようとしても、完全には不可能だった。
姫が苦悶の声を漏らす。
それを聞いたあかりは、胸の奥が寒くなるのを感じた。
(まさか…)
とても嫌な寒さだった。
できることなら、勘違いであってほしいと強く願う。
”うぐぅ”
(…まさか…)
しかし姫の声を聞くほどに、確信の度合いは急速に高まっていった。
高まりが頂点に達した時、嫌な寒さは嫌な予感に変わる。
嫌な予感は、あかりの中に言葉という明確な認識の形を作り出した。
(まさか姫ちゃん、死ぬつもりなの……?)
そう思った直後、彼女は反射的に叫ぶ。
「だめっ!」
強い声だった。
芯も通っていた。
『雷電怒涛(ダイ・オット)』をその身に浴びて動けないのが嘘のように、それは空気を激しく震わせた。
だが、肉体はすぐに現実を突きつけてくる。
あかりの視界が暗黒に落ちた。
(あっ)
このままでは意識を失う。
そう思った瞬間、暗黒が晴れた。
彼女はギリギリのところで踏みとどまったわけだが、その代わり全身から力が抜けてしまった。
もはや声を出すこともままならない。
(だめだよ、姫ちゃん…!)
あかりは必死に訴えようとするが、言葉が心の外へ出ていくことはなかった。
その間にも姫はエンディクワラの左腕を使い、胸部への攻撃を続けている。
”くっ、うぅっ”
”──…最後には闇……闇に吸い込ま…──”
”ぐぎぎ……もうちょっと…もうちょっと……っ!”
”──……まれ…消え……る──”
姫が苦痛にあえぐ声と、エンディクワラが発する切れぎれな声とが、交互に出ては混ざり、そして消える。
この回数が増えるほどに、胸部からの出血も増える。
”せっかくのチャンス…! 絶対に逃がさない……!”
出血が増え、痛みが強くなろうとも、姫の決意が揺らぐことはなかった。
彼女はただひたすらに、自分がやると決めたことを繰り返すのだった。
姫の憑依能力は、非生物あるいは無生物にしか効果がない。
生物には取りつくことができないのだ。
ではなぜエンディクワラの左腕を操れているのかというと、これは憑依したのではなく吸収されたためである。
姫は虹色の球体となり、虹色の輝きに代わって吸収された。
その後で、これまで憑依してきた経験を利用し、エンディクワラの左腕を乗っ取ったのである。
それはまさに起死回生の妙案だった。
ただし、デメリットがないわけではない。
憑依ではなく吸収である以上、姫はもうエンディクワラの中から出られない。
(姫ちゃん……!)
あかりは直感的にそのことを悟った。
だからこそ、胸の奥に嫌な寒さを感じた。
しかし、もうどうにもならない。
姫を止めようにも、あかりの体はあかりに声を出すことすら許さなかった。
(だめだよ、そんなの…!)
”あぐっ、うぅぐっ”
(エンディクワラを倒したって、姫ちゃんがいなくなったら意味な…うっ)
心で叫ぼうとするだけでも、瞬間的に意識が飛ぶ。
あかりは残り少ない体力を使って、どうにか気絶するのを防いだ。
その時である。
姫がこんなことを言った。
”…い、痛くない…”
(え…?)
あかりは、頭がくらくらするのを感じながらも不思議に思う。
痛くないはずがない。
姫はエンディクワラに吸収され一体化した。
つまり今は、自分で自分の胸を何度も刺している状況なのである。
痛くないはずがないのだ。
それでも姫はこう続けた。
”痛くない…私は痛くない”
(…姫ちゃん…?)
”痛くなんかない!”
姫が叫ぶ。
それは強がり以外の何物でもなかったが、彼女は無理やりに突き通す。
”私は絶対に勝つ! エンディクワラ、お前を倒すッ!”
(!)
あかりの心が震える。
彼女が聞いたのは、生きることを諦めた自殺志願者の嘆きではない。
親愛なる仲間を守るために戦う、勇気ある者の雄叫びだった。
(……なに…やってんの……)
あかりは、姫がエンディクワラの左腕で胸部を刺す様子を見つめながら、どこかぼんやりとそう思う。
と、目が下に動いた。
(なにやってんの、あたし)
何をやっているのかというあかりの言葉は、姫の行動をとがめたものではない。
自分の不甲斐なさに向けられていた。
(姫ちゃんにあんなことさせて、あたしは…なにやってんの……!?)
心の震えが大きくなる。
(体が動かないとか、気を抜くと意識ヤバいとか)
震えが、あかりの中に熱を生み出す。
(マジで…なに言ってんの……!)
氷の右手が、あかりの熱に反応する。
冷気を作り出すと同時に、代償として『子を宿し生む力』を彼女の子宮から奪う。
それは下腹部の痛みとなって、あかりをさらに苦しめる。
苦痛のあまり、視界が暗転した。
あかりは、暗転で生まれた闇の中に自分の意志を響かせる。
(おなかの奥が痛いとか、バッカじゃないの…!)
意志とは自分に対する怒りである。
それが闇を満たすと同時に、彼女の視界は暗転から回復した。
回復しても終わりではなく、暗転は再び発生する。
あかりが怒りをもって振り払っても、闇はしつこく彼女を襲う。
暗転と回復が何度も繰り返されることでも、あかりは苦しめられた。
暗と明の落差が、目まいに似た症状を引き起こす。
(うぐ……)
あかりは意識が飛びそうになる。
それを。
(バッカじゃないのッ!)
彼女は意地で、現実に引き戻した。
「ぬああああッ!」
あかりは、怒りの叫びをあげる。
声を出す許可すら与えようとしなかった肉体を、荒ぶる感情で強引に従えた。
彼女を中心に、冷気をはらんだ風が放射状に広がる。
まるで雪が空気の振動を吸収するように、冷風の縁は周囲から音を奪っていった。
肉体のくびきを打ち破ったことで、氷の右手にも変化が現れる。
人間の手と変わらない姿を持っていたそれは、名前の通り氷でできた右手になった。
氷の範囲はみるみるうちに広がり、右腕全体を包み込む。
左腕との対称性を完全に失った、氷の右腕を作り上げるのだった。
>Ch.289へ続く
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