Ch.272 小さな悲劇
あかりは、幅8メートルはあろうかという広大な通路に帰ってきた。
『嘘』が持っていた清潔な白と汚れた茶色の風景は消え失せ、代わって赤黒い色彩が彼女の視覚を刺激する。
あかりの意識が『嘘』へ連行されるまで、広大な通路は緩やかな時計回りだった。
はるか先へ目を向けた時に、左側の壁が中央に寄っているとわかる程度の曲がり具合だった。
それが今は、5メートル先を見通せない。
通路左側の壁は右方向へ大胆に曲がって前方をふさぎ、大きく透明な窓とその向こうにある赤黒い液体のうねりを、先へ進もうとする者たちに見せつけていた。
(帰ってきたんだ)
自分がどこにいるのかを、あかりははっきりと認識する。
要した時間は、『嘘』の中で半狂乱から回復した時よりもわずかに短い。
このわずかという言葉が10秒以内を指すのか、それとも1秒にも満たない瞬間を指すのかはわからなかった。
あかりの感覚はただ、わずかに短いというそのことだけを明確に感じ取っていた。
「…!」
背後で、何か小さなものが転がる音がする。
彼女が振り返ると、通路の床に青黒く半透明な正六角形がいくつも積み上がっていた。
カチカエシの壁の残骸である。
あかりの聴覚が聞いたのは、積み上がった正六角形のどれかが山から床へ転げ落ちた音だったようだ。
(あたしたちはずっとこの通路を歩いてた。あたしが『嘘』の中にいても、そこで倒れててもずっと。床にいっぱい散らばってるのは壁のかけらだ。あたしたちの邪魔をする壁を、刀磨くんが全部斬ってくれたんだ…)
あかりは残骸を見ながら状況を確認する。
確認を終えてひとりうなずいた時、彼女はふと自身の義務に気づいた。
(あ、そうだ。刀磨くんにお礼言わなきゃ)
使命感にも似た気持ちを原動力に、あかりは残骸から刀磨へと体の向きを変えようとする。
そこへ。
「うっ…うう」
誰かのすすり泣きが聞こえた。
あかりは急遽予定を変更し、そちらを見る。
「ううう…!」
泣いているのは姫だった。
両手で顔を覆い、すらりとした体の上半身を前へ傾けて震えていた。
その様子にあかりはひどく驚き、あわてて彼女に声をかける。
「姫ちゃん!? ど、どうしたの?」
「あかりちゃん…」
姫は両手を下ろすと、涙に濡れた顔であかりを見る。
「あかりちゃんも見たよね…? 『嘘』……」
「あ、うん。見たけど…何かあった? ひどいことされたの?」
「ひどいことっていうか、私…わかっちゃって……」
「わかっちゃって?」
あかりは、姫の言葉が何を意味するのかすぐにはつかめない。
不思議そうな表情で首をかしげる。
姫はうつむき、言葉の続きを口にした。
「私だけじゃなくて刀磨くんもそうだけど…前に師匠を助けるために、領域層ってところを進んでいったのね。結局、最後の領域でミオラに負けちゃったんだけど…」
「…う、うん」
領域層での戦いについては、あかりもここに来るまでに説明を受けている。
かしげていた首を真っ直ぐに立てて、姫に向かってうなずいてみせた。
姫はそれを見ないままさらに語る。
「領域層の中に、すごく広い道路の領域があったの…ここも広いけど、こことは比べ物にならないくらい広いところ……」
「こことは比べ物にならない? そんなに広いの?」
「うん。一番狭いところでも、普通の道路より何倍も広い…しかも、奥に行けば行くほどもっと広くなる…」
「へえ……教えてもらった時は広いってことしかわかんなかったけど、そうなんだ…」
「でね、ただ広いだけじゃないの。そこには車が走ってて、道路と同じくらい大きい……最後の車線を走る車なんて、ほんとに山みたいだった。端から端までが全然見えなかった」
「う、うん」
「本当に…怖かった……」
姫はそこで言葉を切った。
何度か荒く呼吸をする。
あかりは心配になり、彼女に手を差し伸べた。
背中を優しくなでてやる。
「姫ちゃん…」
「ありがとう、あかりちゃん。大丈夫」
姫は息を整えて、顔を上げた。
左手で、汗と涙に濡れた顔を拭く。
それからあかりに尋ねた。
「ねえ、あかりちゃん。『嘘』の中で子猫を見なかった? 小さな黒い子猫」
「え? うん…見たよ。食堂のすみっこにある窓から外が見えて、そこに親ねこと一緒にいた」
「子猫ってとっても小さいよね」
「小さいけど…」
あかりは返答しつつ、また不思議そうな表情になる。
どうにも話が見えない。
巨大道路の領域について語った後で、なぜ子猫に言及するのか。
姫は一体何を言いたいのだろう。
あかりが思ったその時である。
「小さな子猫の目に、道路と車はどんなふうに映ると思う?」
そんな言葉が、あかりの鼓膜を震わせた。
振動はすぐさま脳に届き、意味を認識させる。
「え…!?」
あかりの頭は真っ白になった。
人間としての姿かたちが消えて、自身が子猫になったような感覚に陥る。
尻尾を入れても体長40センチに満たない子猫が、道路の広さをどう感じるか。
車の大きさをどう感じるか。
特に国道などは、身長150センチ以上の人間でも狭いとは思わない。
正面から間近に寄れば、軽自動車でも小さいとは思わない。
信号が青なら、道路を走る車は何の容赦もなく時速50キロを超えてくるだろう。
「…まさか…」
山のように大きな車が迫りくる光景が何を意味するのか。
それに気づいた時、あかりは子猫の感覚から脱却して人間の感覚に戻る。
そしてつかんだ答えを姫に告げるのだった。
「大きな道路と大きな車っていうのは…こねこの視点、ってこと……? そのこねこが、『嘘』にいたあの子…?」
「うん」
姫はうなずくと同時につらそうな表情になる。
目元にたまっていた涙がこぼれ落ちた。
彼女は声を震わせながら、あかりに言う。
「ログハウスで隆さんが言ってた『黒い子猫』…それは、『嘘』にいた子猫だったんだよ…! 晴人くんは偶然その子を見つけて、ずっと見守ってたんだと思う。でも…」
「……」
逆説の言葉がどこへ続くのか。
今や顔から血の気が引いた、あかりにもそれはわかる。
この先はきっと、喜ばしい結末ではない。
わかっていたにも関わらず、彼女は止められなかった。
「…車にひかれて…死んでしまった……」
現実に起こってしまったことは取り消せない。
姫の言葉を止めたところで、それは変わらない。
あかりは無意識下で、それをわかっていた。
だからこそ姫の言葉を止められず、彼女から悲劇を告げ知らされたのである。
姫の話はさらに続いた。
「ちょっと前に私が言ったこと憶えてるかな、あかりちゃん…晴人くんは誰か大切な人を亡くしたんじゃないかって」
「……おぼえてる…」
「人じゃなくて、子猫だったんだよ」
「!」
「晴人くんは、アジトのもとになった老人ホームで働いてた。そこでの仕事はとてもつらかったけど、子猫を見守ることでどうにかがんばれてた。でもその子猫が車にひかれて…」
「そんな…」
「ギリギリのところでがんばってた人が、さらにつらい状況に追いやられて心が壊れるっていうの、私にはよくわかるの。晴人くんは明るく見せてたけど、私たちにも家族のことを話したりはしなかった…いっぱいいろんなことを、心にためこんでたんだと思う」
「…つらい気持ちが爆発して、あんなふうになっちゃった…ってことなのかな」
「私はそう思う」
姫の声に震えはない。
確信をもっての返答だった。
その確信は、自分たちが見た『嘘』にまで及ぶ。
「刀磨くんは『嘘』って言ってたけど、あれは晴人くんの記憶だと思う」
「えっ? でも…」
あかりはチラリと刀磨を見、すぐに姫へ視線を戻しつつ声を漏らした。
『嘘』を晴人の記憶だというのなら、医務室での光景について説明がつかない。
姫はそれに関しても答えを用意していた。
「記憶は完璧じゃない。現実に起こったことを間違って思い込んでることだってある。『同僚の人たちはすぐに連れ立ってどこかへいく』、『そこで誰それの話をしてる』…晴人くんがそういう情報を知ってさえいれば、記憶の中に晴人くんがいなくても成立するんだよ。それに」
彼女は芯の通った声で付け加える。
「もしあれが晴人くんやミオラの仕掛けた『嘘』だというなら、晴人くんが出てきていろいろ説明した方が、私たちをだませる気がしない?」
「…あ…! それは、そうかも」
あかりは納得する。
姫の確信が伝達した。
もし本当に晴人やミオラがあかりたちを陥れようとするのであれば、断片的な光景をただ並べるのではなく、元は仲間だった晴人の姿を見せて彼に説明させた方が効果的なのは間違いない。
それができなかったのは、『嘘』が本当は嘘ではなく、晴人の記憶だからだと姫は結論づけたのである。
「ずいぶんと豊かな想像力だね」
刀磨が口を挟む。
彼は今まで黙っていたが、話の全貌が見えてきたことでついに参戦を決意した。
「じゃあなにかい? 草壁 晴人がこんな戦いを始めたのは、子猫が死んで気が狂ったせいだっていうのかな」
「…言い方はきつすぎるけど…大体、そんな感じだと思うの」
姫は刀磨に鋭い視線を向ける。
もう少し思いやりのある言い回しをしてくれればいいのに、という気持ちがそこにはあった。
そんな視線を受けても、刀磨は肩をすくめるだけで相手の気持ちをくんでやることはしない。
「狂ってる割にはずいぶんと冷静じゃないか。マスクの人海戦術だって、マスク本人が思いついたとは到底考えられない。立案したのは草壁 晴人だと僕はにらんでる」
「狂うっていうのは、叫んだり暴れ回ったりすることだけじゃないと思う…」
姫の視線から鋭さが消える。
どこか申し訳なさそうに、彼女はうつむいた。
「人生をよくしていこうとか、身近な人に幸せであってほしいとか…そういう気持ちをなくして、他人が傷ついても構わないって思うようになる……それが、狂うってことなんだと私は思う」
「おや? なんだか身に覚えがありそうな言い方だね」
「私も狂ってたもの…いじめられて、ただ死にたいって願うばかりだった。それは人間として正常な感覚じゃない。だから、私にはわかるの……」
「こ、これは、これは…」
刀磨の目が泳ぐ。
姫の言葉は、彼の心に小さくない動揺をもたらすのだった。
>Ch.273へ続く
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