Ch.154 努力をやめるとき | 魔人の記

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ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

Ch.154 努力をやめるとき


日森高校の校舎は特別古いわけではなく、また新しいわけでもない。
そこで行われている教育と同じく普通であり、目につく特徴があるわけではなかった。

だがそれは、相良市が異変に冒される前の話である。
見慣れたはずの校舎は今や、無数のくぼみや爪痕によって激しく傷つけられていた。

「学校が…!」

桐山と石橋の話を邪魔しないよう黙っていたあかりだが、母校の変貌ぶりに思わず声を漏らす。
それを耳にした男たちふたりも、そちらに注意を向けた。

特に石橋は、この地域には大きな建物があるため隠れるのには苦労しない、と話していたこともあり反応が早い。
犯人が誰なのかを彼女に告げる。

「ひでえもんだろ? 魔物連中がやりたい放題やりやがってよ、ごらんの有様だ」

「魔物…」

そういえばとあかりは思い出す。
校舎の傷つきようは、瑠花が住むマンションの外壁とよく似ていた。

ところどころ赤いものが散らばっているのは、誰かの血だろうか。
戦闘というより、単に殺戮が行われたようにしか見えない。

石橋は、声のトーンを落として話を続ける。

「この街が…オヤジが言うには市内全部らしいが…おかしくなっちまったのは夜中からみてーだから、学生連中『は』いなかったらしいんだがな」

「…!」

ここで桐山が気づく。
彼は石橋に向かって、緊張感のある声でこう尋ねた。

「それ以外の人々がいた…ということなのか」

「残念ながら正解だ」

石橋がそう答えた時、車は日森高校から離れた。
どうやら東はここにはいないらしい。

「学校を避難場所にするってのはよくあることだ」

ハンドルを切りながら、石橋は言う。
曲がり終わりでアクセルを踏み、速度を上げる。

それは自動車教習所で習うコーナリングの基本、スロウインファストアウトを実践しているというより、日森高校から早く離れるための行為だった。

「魔物が出てきてやべえってんで、学校の周りに住んでる連中はこぞって中に入ってったらしい」

車が直線に入ると、石橋は軽く息をついてから続きを口にした。

「まあ気持ちはわかる。ヤクザのオレが言うのもなんだが、やべえヤツが出てきたらどっかに閉じこもってた方がいい。そいつが家を壊すくれェつえーヤツなら、学校に行くしかねえってなるだろう」

「そこを狙われたのか」

「ああ。魔物連中、ご丁寧にも最初っから、学校のどこもかしこもカギを開けといてやったんだってよ。そりゃ逃げ込んだ方は喜ぶし、逃げ込ませた方も喜ぶ」

「あまりに皮肉なウィンウィンだな…」

「あーそのウィンウィンってヤツ、兄貴も言ってたぜ。だが結局ウィンしたのは魔物連中で、最後にウィンしたのはそいつらをぶっ殺したオレたち…おい嬢ちゃん、どうした?」

バックミラーからあかりの変調に気づいたのか、石橋が心配げな声を投げかける。
あかりは左手を口元に当てたまま、力なくこう答えた。

「だ、大丈夫…です。ちょっと酔っちゃっただけで」

「帰りに兄貴を乗せるんだ、吐くのはカンベンしてくれよ」

「はい…すいません」

石橋に返答した後で、あかりは口元から手を離す。
それから、バックミラーに映る彼の目から逃げるように、顔を窓に向けた。

(学校でそんなことが起きてたなんて…!)

彼女は車に酔っているわけではなかった。
通い慣れた学校で凄惨な事件が起こったことにショックを受け、そのショックにより気持ち悪くなってしまったのである。

(わざわざ中に入れて、その上で…とか…! どうやったらそんなこと思いつくの? ひどすぎるよ…!)

異臭騒ぎなど比べ物にならない。
黒いローブの魔物、ロ・ガーシュが結界魔法を使って校内の人々から魔力を吸い上げようとしていたことが、なんだかとても平穏なことのように感じられた。

実際には救急車が来るほどの被害があり、あかり自身も後にラ・クィンレから呪われることになったのだが、それを含めても死者は出ていない。
日森高校を利用して人々を殺した魔物たちの企みが、どれほど邪悪かわかろうというものである。

(…おさまってきた……)

しばらく経つと、あかりの中にある気持ち悪さが小さくなっていった。
流れ行く景色も普段の街並みとは違い、破壊されていたり煙をあげる建物などがちらほら見えたが、それでも車内にずっと目を向けているよりは体にとってよかったようだ。

しかし体にはよくても、痛ましい景色をずっと見ているのは心に負担がかかる。
あかりは空を見るようにした。

(降るのかな、これ…)

空は雲に覆われている。
そればかりでなく、その色が黒へと近づいているように見えた。

あかりはこれまで、桐山と石橋の会話を邪魔しないよう努めてきた。
車酔いだと嘘をつき、顔を窓に向けまでしたのもそれが理由である。

あかりが本当のことを言えば桐山は彼女を気づかい、石橋に話すのをやめろと言ってしまうだろう。
そうなれば、この地域で何が起こっているのか知る機会を失ってしまう。

そうなるとあかりが困る、というのではない。
彼女には、桐山に迷惑をかけたくないのと、彼にとって不利益になりそうなことを自分の手で起こしたくないという思いがあった。

(今まで…あたしは別に状況とか、そこまできっちり知らなくてもいいって思ってた。そうなったらそうなったでがんばればいい、みたいに考えてた…でも)

日森高校が惨劇の舞台になったと知ったことで事情が変わった。
話を邪魔しない努力を、いつまでもしているわけにはいかなくなった。

この地域にはもうひとつ高校が存在する。
それは、三ツ矢女子高等学校だった。

(もうひとりの姫ちゃんが、巻き込まれてるかもしれない…! もしそうだとしたら、ちゃんと知っておかなきゃいけない!)

あかりにはなぜそうなったのかわからないが、もうひとりのアヤが失踪したことでいじめの問題は解決した。
それ以降はもうひとりの姫に関わることはなかった。

だが今、相良市全域で魔物があふれ返るという異常が起こっている。
同じ市の中にあって、三ツ矢女子だけその範囲から外れるということは考えにくい。

もし、もうひとりの姫がその被害を受けていたとしたら。
そう考えるとあかりはたまらなくなり、状況をきっちり知らなくてもいいなどと言えなくなってしまったのである。

(こんなことになったのは夜遅くだから、うちの生徒はいなかった…石橋さんはそう言ってた。三女でもそうだといいんだけど…)

石橋に尋ねれば、すぐに情報は教えてもらえるだろう。
よくない答えが返ってくる可能性もありそれは恐ろしいが、訊いてみなければわからない。

曇り空を眺めているだけで、気分が晴れるようなことはないのだ。
あかりは前を向いた。

視線の先では、桐山と石橋が魔物に対抗するための装備について話している。

「弾は足りているのか?」

「ハハッ、デカがオレらにそれ訊くかあ?」

「あの」

あかりは意を決して口を開いた。
何事かとふたりは話をやめる。

問われる前に、あかりは知りたいことを石橋にぶつけた。

「石橋さん、三女…三ツ矢女子はどんな状況ですか?」

「なんだ、嬢ちゃんは三女に通ってんのか?」

「いえ、あたしは日森高校の生徒です」

「うおっ…そりゃわりィ。ベラベラしゃべりすぎちまったな」

石橋は、軽い口調ではあるもののすまなそうに言う。
あかりの車酔いが嘘だと感じ取ったようだ。

しかし酔いから覚めた彼女は、自分へのいたわりなど欲していない。

「それは別にいいんです。あたしも言ってませんでしたし…それより、三女のことを教えてください」

「わかった」

石橋はそう言うと、一度咳払いをしてから話し出した。

「三女は最初の拠点だったんだ。いろんな種類のヤツがいて、人数も多かった。オレらは地元の人間じゃねーしヤクザだしで、あんまし歓迎されなかったが…そのうち何人かが魔物になっちまってな」

この時点で、あかりは訊き方を間違えたと思った。
彼女が本当に知りたいのはもうひとりの姫がいるかどうかであって、三女で何が起こったかではない。

「あ、あの…すいません、三女の生徒がいたかどうかっていうのはわかりませんか」

「わかるわけねーだろ」

石橋は笑いながら突っぱねる。

「いきなり人間が魔物になって、ただでさえパニック状態だ。そんな中で戦えねーヤツを必死こいて誘導してる時に、いちいち誰がどこの生徒かなんて見てらんねえ。見てたのは、人間かどうかだけだ」

「そうですよね…すいません」

「…三女にダチでもいんのか」

「はい。向こうは多分、あたしのこと…憶えてないと思いますけど」

「ワケアリってかァ? そういうことなら教えてやりてーけどなあ…」

石橋は、ハンドルを握っていない左手で頭をかきながら考える。
記憶をたどった末に、こんな答えをあかりに返した。

「オレらは三女から逃げて、公民館を次の拠点にしたんだがよ…そこじゃそれっぽいヤツは見なかった…気がする……うーん、気がするってだけしか言えねーな」

「そうですか…」

「まァ落ち込むな嬢ちゃん。あんためちゃくちゃつえーんだろ? そんなヤツのダチなら、きっと普通に生きてるぜ」

石橋は明るい声でそう言った。
その裏には、日森高校での惨劇をあかりに話してしまった後ろめたさがあったのかもしれない。

「…はい」

あかりはそれを感じつつもただうなずく。
相手の心づかいが後ろめたさの裏返しであっても、責める気など起こらなかった。

このやりとりを、桐山が苦い顔で見つめる。

「……」

彼があかりと会ったのは、もうひとりのアヤが失踪したことを伝えた時が最初である。
当然ながら、もうひとりの姫がいじめられていたことも、それをあかりが通報したことも知っていた。

もうひとりの姫が無事かどうか、あかりが知りたがるのも無理はないとわかっている。
ただそのことについて口を出すのは違うと思い、見つめるだけに留めていた。


三者三様それぞれの思いを腹に抱え、車はやがて目的地に到着する。
そこは石橋の話に出てきた公民館ではなく、相良市コミュニティセンターという看板のある建物だった。

「よかった! まだ魔物連中来てねーな!」

石橋はサイドブレーキを引くとすぐに車を降り、走り出す。
あまりの性急さに桐山が声をあげた。

「おい待て! 不用意に飛び出すな!」

しかしその時にはもう遅く、石橋は建物の中へと入っていってしまった。

「仕方がない…追いかけよう、あかりさん」

「はい」

桐山とあかりも車を降り、建物に近づいていく。
入口の自動ドアを抜ける頃、あかりの心に素朴な疑問が浮かんだ。

(コミュニティセンターって…なに?)

市の名前があるということは公共施設なのだろうが、彼女にはなじみがなかった。
入る前に見た限りでは3階建てであり、入った今では奥行きもかなりあるのがわかる。

「公民館より広いな…」

桐山が不思議そうにつぶやいた。
なぜそのような言い方をしたのか、疑問に思ったあかりは尋ねてみる。

「広いと、なんか変なんですか?」

「さっき石橋は、三女から公民館に拠点を移したと言っていた。広い三女からそこよりも狭い公民館に移り、その次は公民館より広いここに移ったというのが、少しおかしいように思えてな」

どうやら彼は、拠点を移していくなら狭い方へ向かっていくのが正しいと考えているようだ。
これにあかりは賛成できない。

「別に、狭いとこから広いとこに移ってもいい気がしますけど…途中で仲間が増えたのかもしれませんし」

「あ…そうか、それは盲点だった。そうだな、仲間が増えるということもあっていい…」

「ぎゃあああああああああっ!」

それは突然だった。
痛ましい悲鳴が建物内に響き渡ったかと思うと、照明が一度に全て落とされた。

「!」

あかりと桐山はすぐに足を止める。
場所は玄関ホールから少し入ったところであり、外光が入ってくるおかげで完全な闇からはほど遠い。

だが、悲鳴が聞こえてきた方角はそうではなかった。
非常ベル付近にあるランプと非常灯以外は光源がなく、先を見通すことができない。

「あかりさん、ここを出よう」

桐山が冷静な声で言った。

「石橋は魔物にやられた。私が止めるのも聞かずにここへ入ったということは、東という構成員もここに『いた』んだろう。だがもうどちらも生きてはいない」

「そんな」

「そう考えるべきだ。助けに行けばこちらがやられる…死んだと考えて、ここは退くべきだ」

声と同じく、その判断は冷静だった。
いや彼が黒井を評した言葉と同じく、冷徹というべきかもしれない。

視力が悪い者に限らず、暗さというのは人間の中に原初の恐怖を呼び起こすものである。
それを常に理性で抑えつつ敵の襲撃に備えるというのは、言うほど簡単なことではない。

しかも、先ほど聞こえたのは悲鳴だけだった。
もし悲鳴の主を石橋だとするなら、敵は彼に戦闘態勢をとる暇すら与えなかったことになる。

桐山はこのことをあかりに伝えた。

「石橋には魔物と戦って勝ち抜いてきた経験がある。なのにヤツは悲鳴をあげた。言い争うような声もなく、いきなり悲鳴をあげたんだ」

「!」

「敵は強い。暗闇の中ならさらに強いだろう。あかりさん、君は夜目が利く方か?」

「わ、わかりません」

「だったら退くしかない。今すぐに」

「でも…」

石橋を見捨てることなどできないと、あかりは暗闇を見つめる。

非常ランプの赤光と非常灯の白光は、それぞれ光源とする物体よりも大きく膨らみ、暗闇の中でその存在を主張している。
光源とは直径や辺の比が等しく、相似といわれる関係を維持していた。

ただその輪郭はぼやけている。
さらに輪郭の外周と暗闇との境目には、おぼろげな光の粒が漂っていた。

この粒が、暗闇の中に何かの影を描き出す。

(…あれ?)

あかりがまばたきすると影は消えた。
何かがいるように見えたのは、不完全な人間の視力と光によって作り出された幻影だった。

もし暗闇を進むなら、敵本体だけでなくこういった幻影とも戦わなければならない。
桐山がしきりに撤退を口にするのも当然だと、あかりにも理解できた。

(でも…!)

理解はできるが、納得はできない。
つい先ほどまで普通に会話していた相手がいきなりいなくなるだけでなく、自分が見捨てることを認めるなど、彼女の心が許さなかった。

(渦巻きはちゃんと描いた! 魔人ペンのインクもまだ十分残ってる!)

戦闘準備が整っていることを、あらためて確認する。
撤退という選択肢は、あかりの中には存在しなかった。

たとえ、石橋と東のどちらもが、もう生きてはいないとしても。
何もせずここから離れるわけにはいかない。

「あたしは戦います」

あかりはきっぱりと宣言する。
これに桐山は強く反論した。

「あかりさん、無茶だ! 我々は一刻も早くここを離れないといけない。敵はもう、すぐそばにいるかもしれないんだぞ!」

「あたしの友だちならきっと生きてるって、石橋さんは言ってくれたんです。そんな人を見捨てたくない…!」

あかりは、桐山へ明確な意志を告げるとともに右手を握り込む。
迷いを捨てたその拳が、白い冷気をまとった。


>Ch.155へ続く

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