Ch.128 別れから始まる意地 | 魔人の記

Ch.128 別れから始まる意地

Ch.128 別れから始まる意地


リーエイルは、ケフィトが遺した箱を抱きしめたまま椅子に座っていた。
まぶたを閉じて眠気が来るのを待っていたが、それは彼女のもとへはやってこない。

(わしとしたことが…高ぶっておるのか)

夜が明ければ、サイアーヌはいなくなる。
望み望まれた出立では決してない。

そのことが、リーエイルの心をかき乱していた。

(たかが10年一緒にいたくらいで…わしが生きてきた何分の一やらわからんほど短いというのに)

彼女は平静な気持ちのままでいたかった。
このまま眠ってしまいたかった。

だがやはり心がざわつく。
そのざわつきが、神経の1本1本を逆なでするように刺激する。

リーエイルは眠るどころか、じっと座っていることすらできなくなった。

(…何か飲むか)

彼女は椅子から立ち上がると、箱を机の上に残して工房を出た。
居室に入り、安眠用のハーブティーを準備する。

(これを飲むのもずいぶん久しぶりじゃ)

森でこのハーブを見つけたのは、リーエイルの精神が不安定から抜け出しつつある頃だった。
おかげで、ほとんど入水自殺するかのような川での泳ぎを、完全にやめることができた。

精神が安定してからも、わけもなく気分が落ち込むような時にはよく飲んだものである。
やがてサイアーヌが来てからは飲むことがなくなった。

(…あっ)

木製のポットに水を入れた時、彼女はふと気づく。

(あやつと過ごした時間…短いと思っておったが……ずいぶん久しぶりと感じる程度には、長かったんじゃな)

安眠用ハーブティーを飲まずにいた期間は、サイアーヌとともにいた期間と同じである。
リーエイルは、彼といた期間を無理やり短く感じようとしていた自分に気づいて、小さな苦笑を浮かべた。

それから彼女は、コンロ代わりの魔法陣にポットを置く。
すると一瞬にして湯が沸いた。

カップに刻んだハーブを入れて湯を注げば、ほのかに甘い香りを持つ安眠用ハーブティーができあがる。
リーエイルはテーブルそばの椅子には座らずに、立ったままそれを飲んだ。

そうしながら寝室へ顔を向ける。
ドアの向こうで眠っているであろうサイアーヌと過ごした日々を、振り返り始めた。

(…いつの間にか、あやつの寝床になったな)

サイアーヌが来たばかりの頃は、同じベッドで寝ていた。
数年後、彼の体に大人の兆候を見て取ると、リーエイルは工房を寝床にすると決めた。

それを聞いたサイアーヌは、遠慮の気持ちから自分が工房で寝ると言い出した。
しかしリーエイルは、大事な工房に素人を入れるわけにはいかんと説き伏せる形で、彼に寝室を与えた。

(懐かしい話じゃの…)

ハーブティーの香りと懐古の甘さが彼女を微笑ませる。
振り返りはさらに続いた。

(自覚もなしに結界を破るほどじゃ、あやつの才が計り知れんのはわかっておった。ひとりで生きられるようにと、ちょっとばかり精霊魔法を教え始めたら…いつの間にか教えることがなくなってしもうたな)

サイアーヌに精霊魔法を教えたことに関しては、もうひとつ理由がある。
それは彼女が、自分の死期を感じたためだった。

危険から守るためとはいえ、リーエイルは彼を家に招き入れ閉じ込めた。
そうしておいて何も残してやらないまま死んだのでは、あまりに無責任だと考えての行動だった。

(結局なしくずしに今まで暮らしてきたが、まさかこんな形で終わりを迎えるとはのう)

彼女は寂しさを感じる。
だが自立には反抗がつきものだと思えば、嬉しさもほんの少しだけあった。

(む…)

遠くに風の音を感じ、リーエイルは視線を寝室から壁に向ける。
壁に歩み寄ってそばに立つと、小さく描かれたスイッチ代わりの魔法陣に触れた。

まるでモニターのように、壁に家の周囲が映し出される。
目を皿のようにしてじっと見てみるが、特に異常はない。

(…心配しすぎか)

彼女は安心するとともに、まだ落ち着きを取り戻せずにいる自分に落胆してため息をつく。

(早いところ茶を飲み切って寝てしまお……ん?)

リーエイルは、画面の右下に覚えのない映写履歴を見つけた。
普段ならそこには街の名前があり、触れるだけでその街の風景に映像を切り替えることができる。

だが今、それは何の情緒もない地図座標に書き換えられていた。
しかも書き換えはひとつだけでなく、10ほどある履歴のほとんどで発生していた。

(あやつめ、使ったら元に戻しておけと何度も言ったのに)

リーエイルは顔をしかめると、一度壁から離れてテーブルに向かう。
そこにカップを置いてから壁の前に戻ってきた。

(一体何を見ておったんじゃ?)

ふと気になった彼女は、地図座標が表示された履歴のひとつに触れる。
すると、あるものが映し出された。

(これは───!?)


数時間後、寝室のドアが開いた。
中から旅支度をしたサイアーヌが出てくる。

居室はほとんどの照明が落ち、薄明かりが残るばかりだった。
彼はそこを横切って、外につながるドアへ歩いていこうとする。

「待て」

声とともに、居室が明るくなった。
乾ききったカップが乗せられたテーブルのそばに、リーエイルが立っている。

サイアーヌは立ち止まるものの、彼女の方を向こうとはしない。
どこか冷ややかな声でこう言った。

「いたんですか。てっきり工房にいるものかと」

「わしには、お前が工房ではなく外へ向かっているように見えたが」

「あんな形で出ていくと言ったんです。別れの挨拶などするわけないじゃないですか」

「その割には、待てと言われて足を止めるんじゃな」

「……」

サイアーヌは返答しない。
この態度に、リーエイルは軽く笑った。

「お前を黙らせるなど、いつぶりじゃろうなあ」

「…もう行ってもいいですか?」

「まあ待て。何の用もなく呼び止めたわけではない」

彼女はそう言うと、笑みを消した。

「せっかく王宮魔導士を目指そうというんじゃ。姓くらいなければしまらんじゃろう」

「…せい?」

サイアーヌは不思議そうな顔でリーエイルを見る。
ふたりの目がここでようやく合った。

リーエイルは真剣な表情でうなずいてみせてから、彼に姓を与える。

「ハイアランスと名乗るがいい」

「ハイアランス…」

「そう。お前は今日から、サイアーヌ・ハイアランスじゃ」

その声には、名づけにふさわしい深い響きが備わっていた。
続けて彼女は、なぜ姓を与えようと考えるに至ったのかその理由を語る。

「クレイソートで真実を知った時、お前と家とが良好な関係とは限らん。良好ならばその家の姓を名乗ればよし、そうでなければこの姓を使うがいい」

「……」

サイアーヌは呆然としていた。
何を言われているのかわからないというよりは、言われた言葉自体はわかった上で真意を理解できずにいるといった様子だった。

リーエイルはそんな彼に近づく。

「何をボーッとしておる…」

右手を振り上げ、思い切り背中を叩いてやった。

「これから世に出るんじゃろうが! しっかりせえ!」

「があっ!?」

サイアーヌは悲鳴を上げた。
肌を強くしびれさせるような激痛のせいで、呆然としていられなくなった。

「な、何をするんですか!」

「気合いを入れてやったんじゃよ。わしからの餞別じゃ」

「むっ…」

サイアーヌは不機嫌そうな表情を浮かべると、リーエイルに反論する。

「餞別というなら、もっと他に欲しいものがあるんですけどね」

「焦るでない。『空間転移(ヴァリー)』なら、いずれお前が成長した時に自ずと使えるようになる」

「そんな気休め…いえ」

言っている途中で失言に気づいたサイアーヌは、言葉を切って咳払いをする。
不機嫌な表情を消し、真剣な顔でリーエイルを見つめた。

「わかりました。その言葉を信じて、これからがんばっていきます」

「体に気をつけるんじゃぞ」

「はい…それでは、長らくお世話になりました」

サイアーヌは一礼すると、家を出ていった。
10年もの共同生活が終わったにしては、やけにあっさりとした別れだった。

リーエイルはそのことについて何の反応もせず、ただ彼の背中を見送った。
ドアが閉まって姿が見えなくなると、壁のモニターを起動させてまでその行方を追った。

「……」

画面内のサイアーヌを見つめる眼差しは真剣である。
別れを惜しむような様子は、なぜか全くない。

サイアーヌが山から完全に出ていくと、リーエイルの瞳に鋭い光が宿った。

(よし、行くぞ!)

彼女は足早にドアへと近づく。
しかしそれを開けて外に出るのではなく、いつか戦争を止めた時のように瞬間移動した。

移動した先で、リーエイルは驚愕の声に出迎えられる。

「な、なんだお前!?」

「何者だっ!」

これに彼女はニヤリと笑いながらこう答えた。

「悪いが急いでおるんでなあ、名乗る暇などないんじゃ!」

そして驚愕の声を向けてきた者たちに、攻撃魔法をお見舞いした。
地面までズタズタに引き裂いた後で別の場所へ飛び、そこでも存分に暴れ回るとさらに他の場所へと転移していく。

リーエイルが倒した者たちは、秘密結社『暗昏(あんこん)の目』に所属する者たちだった。

赤い縦向きの瞳が刺繍された黒いローブを身に着ける彼らは、ヴェスティナスにおける現代文明の中核をなす精霊魔法に疑問を持っており、武力による反社会的活動を行っていた。

サイアーヌがモニターに残していた地図座標を調べたリーエイルは、自分が描き残した魔法陣に赤い縦向きの瞳が群がっているのを見た。
この時に、全てを悟ったのである。

(なぜサイアーヌが『空間転移(ヴァリー)』に固執していたのか! それはこいつらを倒して回るためじゃ! 瞬時に倒さねばならん理由があったからじゃ!)

暗昏の目は『禁忌たる結界魔法の基礎』を読み、精霊魔法に代わる新しい力として結界魔法に目をつけた。
ただ目をつけたのは結界魔法そのものではなく、それが失敗したことで起こる暴走だった。

彼らは、リーエイルが残した魔法陣から暴走を防ぐ構文を消し、敢えて深刻な暴走が起こるように仕向けた。
その役割を負わされたのは、反社会的活動に巻き込まれ捕らえられた、何の罪もない人々だった。

(わしが残した魔法陣はどれも、最後に手を加えた者が術者となる種類のものじゃ。短時間で描ける上に、それほどの広さを必要とせんからの…しかしそのせいで、誰でも暴走を起こすことができてしまう…!)

何の罪もない人々は、構文を削除させられることで、何も知らないまま結界魔法の術者に仕立て上げられる。
そして暗昏の目に脅されるまま『その魔法陣とは全く関係ない結界魔法』を発動させようとするが、当然ながら失敗し暴走を引き起こす。

深刻な暴走はその場に多大なエネルギーを発生させ、無差別な破壊を生み出す。
それは人間爆弾といっても過言ではなかった。

暗昏の目に真正面から挑めば、彼らはいくらでもその強力な武器をばらまくだろう。

(それもまた人間が自滅するひとつの形ではあるが…サイアーヌは『わしらの復讐』を知らん)

リーエイルはフードの下に険しい表情を隠したまま、暗昏の目に所属する者たちを蹴散らしていく。

「《爆裂散弾(ラギ・ガジェット)》!」

「てめえ! 一体誰の差し金…ぐわあっ!」

「ぎゃああっ! クソ魔導士がぁあ…!」

「ハハハハハッ! 逃がさんぞ、全員ここでくたばるがいい!」

悲鳴をあげながら逃げ惑う敵たちを笑うリーエイルだが、暗昏の目に対する感情は特にない。
彼女はただ、サイアーヌのことばかりを考えていた。

(壁でいろんな場所を見ておるうちに、あやつはわしの残した魔法陣が悪用されておることに気づいた。『空間転移(ヴァリー)』を必要としたのは、ヤツらを一瞬で倒すため…それをひとりでこなすためだったんじゃ!)

リーエイルは悔しげに歯噛みする。

(あやつはまだ実戦の経験がない。そんなひよっこに尻拭いをさせたとなれば、魔女リーエイルの名折れじゃ! ケフィトには悪いが、今回はわしの好きにさせてもらう!)

彼女がフードの下に隠した険しい表情は、今になってようやくサイアーヌの思いに気づいた自身の愚かしさへ向けられていた。

人間という種族そのものがどうなろうと興味はない。
しかし、自分を慕ってくれた者が危険にさらされるのを許すつもりはなかった。

「飛べ、飛べ、吹き飛べぇええッ!」

リーエイルが暴れ回るのは、何も暗昏の目を痛めつけるためではない。
彼らに捕らえられた、何の罪もない人々を解放するためでもない。

自身が描き残した魔法陣を消滅させるためだった。

なぜ今まで魔法陣を描き残していたのかといえば、ディクトーリアとヴェンジェランの時のように、どこかの国で戦争が起こった時に巻き添えを食わないよう対策を取るためだった。

彼女はその手段を捨てようとしている。
そこには、サイアーヌに自分の尻拭いをさせないということに加え、もうひとつ意味があった。

「…はあっ、はあっ……ごふっ」

(もう少しだけ、もってほしいもんじゃな)

ここに来て、リーエイルの体力が急激に下がってきていた。
死が間近に迫りつつあるのを感じた彼女は、自分を守るという考えを放棄した。

(もはや戦争が起ころうと知ったことではない。どんな戦いであろうとサイアーヌは生き残る…わしにはそれがわかる。なぜなら…!)

「こ、こ、この野郎ッ!」

物陰から暗昏の目のひとりが現れた。
苦しげにうずくまっているリーエイルめがけ、ナイフを持って突進してくる。

「《雷槍投射(ダイ・アグレェ)》!」

彼女は素早く振り向きながら魔法を放った。
雷の槍に貫かれた敵がすぐ目の前で倒れたのを確認すると、決意とも怒りともつかない眼差しでにらみつける。

(わしが守ると決めたからじゃ!)

だが熱い思いを胸に秘めていても、極度の疲労には勝てない。
リーエイルは声すら出せずに、ただ荒く息をするばかりだった。

その後ひと月もかからぬうちに、彼女は描き残してきた全ての魔法陣を破壊した。
同時に暗昏の目も壊滅状態に陥ったが、彼らの存在を気にする余裕はもうなかった。

(これで、あやつに尻拭いをさせずに…すんだな)

リーエイルは満足げだったが、いいことばかりではなかった。
短期間で数多くの魔法陣を消して回っている間に、病を患ってしまったのである。

「げほっ! うっ、ぐほっ」

胸の病だった。
激しい咳からそれを感じ取った彼女は、苦しみながらも少しだけ嬉しく思った。

(ケフィトも…こんな思いをしたんじゃろうか…。わしにもあいつの痛みが、少しは…理解できるといいんじゃがな……)

最後に消した魔法陣からほど近い村の宿で、リーエイルは何日も寝て過ごした。
もはや自身では家に帰れないほど、体力も魔力もなくなってしまっていた。

そこへ意外な客が現れる。

「…探しましたよ」

悲しげな顔でそう言ったのは、サイアーヌだった。

「まさか全部バレているとは思いませんでした…私がちゃんと履歴を消していれば、こんな無理をさせずにすんだのに」

「ふ、ふふっ…バカを言うな。お前が履歴を残しておったから、わしは…お前、に、尻拭いさせっ、ずに……げほっ、げほっ!」

「しゃべらないでください。とにかく病を治さなくては」

「いや…わしはもう長くない。どうせ連れて行くなら家にしてくれ…着くまでもつかどうかもわからんがな…」

「もちますよ。もつに決まってるじゃないですか」

サイアーヌはきっぱり言うと、リーエイルの体を抱き上げる。
ずいぶん軽く感じてしまい戸惑うものの、それを顔に出すことはなかった。

「帰りましょう、家に」

彼はリーエイルにそっと告げる。
その後で、かつて固執していたあの魔法を発動させた。

「《空間転移(ヴァリー)》!」


>Ch.129へ続く

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