Ch.64 乱戦のカノン
桐山は週に一度ほどの頻度で、勇治郎の家を訪れた。
週に一度が10日に一度まで伸びたりもしたが、それ以上間隔が開くことはなかった。
「いつも牛丼ですまないな」
家に来る時、桐山は決まって牛丼を持ってきた。
勇治郎はいつもそれに「気にしないでください」と返した。
ふたりはテレビを見ながら牛丼を食べた。
見る番組はクイズものが多かった。
「えっ、今の間違えてなかったか?」
「…さあ…」
「いや絶対違うぞ、俺が習ったのは…」
「ふふっ」
勇治郎は笑う。
きょとんとした顔を向けてくる桐山に、笑った理由を話した。
「桐山さん、意外と小さなことでムキになるんですね」
「えっ? あ、いや…小さなことじゃ、ない…と思うけどな」
家にいる時、桐山は警察官らしい部分をほとんど見せなかった。
勇治郎と向き合うでもなく、大事なことを話すでもなく、ただの独身男性としてそこにいた。
だからこそ、勇治郎の警戒も少しずつ解けていく。
次はいつ会えるだろうかと、桐山との時間を心待ちにする日々が始まった。
(不思議だ…)
ずっと張り詰めていた心が、落ち着いていくのを感じる。
気づけば、闇討ちをするために夜遅く家を出る、ということがすっかりなくなっていた。
(血がつながってない赤の他人とメシを食っているだけなのに、なんでこうも安らぐんだろう)
初めて桐山から牛丼を届けてもらった日のように、家の明かりを消してみる。
しかし、片付いた部屋に家族3人の幻は現れない。
見えるのは、今の自分と桐山が食事をしている光景だった。
それは勇治郎の中で、家族というものに対する認識が変化したことを意味していた。
心が安定してくると、校内で起きたケンカに介入することも少しずつ減り始める。
「伊藤くん! 今、体育館裏で…」
「悪いな、今日は気分じゃない」
「えぇー!?」
杏菜は不満の声をあげる。
せっかく知らせに来たのにと、口をとがらせた。
「伊藤くんさー、最近付き合い悪くない?」
「そういう時もある。悪いが他を当たってくれ」
「…なんか、いいことあった?」
「なんでそう思う」
「だって、笑ってること増えたよ。前はしかめっつらばっかりだったのに…あっ」
杏菜の顔が青くなる。
両手で勇治郎の左前腕を握ると、不安げに声を震わせた。
「も、もしかして伊藤くん…彼女とかできたの?」
「さあな」
「えぇー、ウソでしょ? そんなわけないよね? 伊藤くんみたいな男の子、あたしくらいしか面倒みれないよ。他の子なんてやめときなよ」
「まとわりつくな、そんなんじゃない」
「そ、そうだよね! そんなわけないよね。伊藤くんに限って、そんなこと…ほんとにない?」
「心配するな。そういう予定はない」
「よ、よかったぁー!」
杏菜が笑顔を取り戻す。
それを見て、勇治郎は軽く苦笑してみせるのだった。
桐山が家を訪れるようになってから、勇治郎の人生は少しずつ明るさを取り戻し始めた。
杏菜が言っていた通り、笑うことが増えたと彼自身も実感していた。
だが、明るくなりかけた人生は途端にかげってしまう。
ある日のこと、家の前で桐山が大家に怒られていた。
学校帰りの勇治郎は物陰に隠れ、その様子を盗み見た。
「……事情はわかりますけどねえ、ウチもボランティアでやってんじゃないんですよ! 払える人がいないってんなら、あの子には出てってもらわないと!」
「そこをなんとか待ってもらえないですかね。もうちょっとしたら私のボーナスが出るので…」
「おまわりさんが払ってくれるってんですか? なんでまた……別に親戚でもないでしょうに」
「ま、まあそれはいいじゃないですか。とにかく、ボーナスが出たら全額払いますので…今日のところはこれで」
桐山はそう言うと、財布から1万円札を何枚か出して大家に渡す。
それを受け取った大家は、追及をやめた。
「…まあ、家賃を払ってくれるんなら誰でもいいですけどね、ウチは」
「すいません、どうかお願いします。あとこのことは、他言無用で……」
「わかりました。それじゃ家賃は待ちますんで、くれぐれも忘れないでくださいよ」
大家はしぶしぶ帰っていった。
後には、ため息をつきながら自身の財布を眺める桐山が残る。
一部始終を見た勇治郎は、思わず胸に手を当てた。
(桐山さん…!)
のんきに学生生活を送っている場合ではない。
そう強く思った。
(仕事を見つけよう。今の俺じゃ年齢的にできることは限られるが…幸い、体はそこそこ強い。肉体労働なら手っ取り早く稼げるはずだ)
勇治郎はその場を離れ、駅前に向かう。
地元のアルバイト情報が載ったフリーペーパーを手に入れてから、家に帰った。
その翌日、事件が起きる。
「伊藤 勇治郎! 出てこいゴラァ!」
「やっと見つけたぜェ!」
中学校の校庭に、けたたましい音が響く。
改造バイクに乗った男たちが、大挙して押し寄せたのだ。
(…しまった)
勇治郎は、制服のまま駅前に行ったことを後悔した。
闇討ちの獲物としてきた高校生たちが、仕返しに来たのだとすぐにわかった。
彼は、闇討ちの対象を主に駅前や繁華街で物色していた。
だがそれは夜のことで、格好も夜闇にまぎれる黒を基調とした私服だった。
しかし、フリーペーパーを取りに行ったのは夕方であり、ちょうど獲物とした者たちが集まり始める時間帯だった。
勇治郎は不用心にも、正体をさらした状態で相手のテリトリーに入ってしまったのである。
顔を憶えていた者たちは、制服から勇治郎が通う学校を割り出した。
その上で仲間を集め、こうして白昼堂々乗り込んできたのだ。
(俺としたことが、なんて失敗を…)
勇治郎は歯噛みする。
その耳に、クラスメイトたちのざわめきが飛び込んできた。
「な、なんだあれ…!」
「ヤバいよ、30人ぐらいいるよ」
「110番しなきゃ」
「お、おいお前たち、落ち着け!」
授業を担当していた教師が、声をあげて生徒たちを落ち着けようとする。
そんな中、勇治郎は敢えて椅子を乱暴に動かし、大きな音を出しながら立ち上がった。
「……」
教室中が静まり返る。
校庭からの爆音が、やけにはっきりと聞こえるようになった。
勇治郎は何も言わず、ただ教室を出ていく。
杏菜だけがハッと我に返り、彼を追いかけた。
彼女は廊下に出ると、よく通る声で叫ぶ。
「伊藤くん!」
「……」
勇治郎は立ち止まる。
だが振り返らない。
杏菜は、彼の背中に問いかけた。
「どこ行くつもりなの」
「……」
「まさか、行く気じゃないよね? あれは…ヤバいよ」
「…ふっ」
勇治郎は軽く笑うと、彼女を見た。
「お前がそう言うなんて、よっぽどだな」
「そうだよ、よっぽどだよ!」
杏菜は必死に訴える。
だが勇治郎は彼女への視線を切り、前を向いた。
「これは、俺のケジメだ」
「えっ…?」
「お前には、関係のない話だ」
勇治郎は走り出した。
杏菜を突き放し、置き去りにした。
「あたしには関係ない、って…そうかもしれないけど……」
彼女は、勇治郎を追いかけられなかった。
その場に立ち尽くしたまま、悲しげにうつむいた。
勇治郎はひとり、校庭に出る。
30人以上もの大集団が視界を埋め尽くす頃、相手側からこんな言葉が聞こえてきた。
「よく来たなあ、伊藤」
「会いたかったぜ」
「逃げなかったのはほめてやるよ」
口々に言う彼らは、その手に金属バットや鉄パイプなどの鈍器を握っている。
勇治郎は、刃物を持つ者がひとりもいないことに気づいた。
「…ふふっ」
相手を恐れるどころか軽く笑ってみせる。
その仕草があまりに自然だったため、集団の方がぎょっとした。
「な、なに笑ってやがる!」
「まさかオレらに勝てると思ってんのか?」
「バカじゃねーの、こっち何人いると思ってんだよ!」
普通なら、30人以上もの男たちが武器を持っているのを見て、恐怖しないわけがない。
彼らが戸惑うのも無理はなかった。
「……」
勇治郎はあらためて集団を見回す。
彼らの多くは、丈の長さや裏地をそれぞれ好きなように改造した制服に身を包んでいた。
制服ではない者が何を着ているかといえば、特注の特攻服である。
どうやら暴走族に所属しているようだ。
「……ふははっ」
それらを確認した上で、勇治郎は再び笑う。
集団が怒りをあらわにしたところで、笑った理由を口にした。
「お前たち、ずいぶん恵まれてるんだな」
「なに…?」
「そんなチャラチャラした服を着て、仲間と仲良く無駄な時間を過ごして。だから誰も持ってこない」
「持ってこない? なに言ってんだテメェ」
「仕返しをするというのなら、最低でもナイフくらい持ってこい」
言い放った勇治郎の目が、ギラリと輝く。
さらにこんな言葉で相手を皮肉った。
「30人もいれば、ひとりくらいは持ってきてもおかしくない。そう思ったのに…誰も持ってきてないじゃないか。さてはお前ら、そろいもそろって頭がお花畑だな?」
「ンだと!?」
「鈍器で俺は殺せない…だが」
勇治郎は両足を肩幅程度に開く。
ひじを曲げ、両拳を軽く前に出して構えた。
「俺はお前らを殺せる。武器を取られないよう、せいぜい気をつけるんだな」
この挑発が、始まりの合図となった。
「やってみなきゃわかんねーだろォオ!」
「ぶっ殺してやらァ!」
1対30。
はたから見れば、絶望しかない戦いが幕を開けた。
「うおらァアアアッ!」
武器を手にした5~6人が、同時に襲いかかってくる。
しかし勇治郎はうろたえない。
彼には策があった。
「うわっ!?」
「こ、このっ、砂を!」
校庭には砂がいくらでもある。
それを足で蹴り上げれば、ある程度の目潰しとして機能する。
さらに相手側が武器を『持っている』ことも、勇治郎にとってプラスに働いた。
「ちょっ!? お前、邪魔すんな!」
「テメーこそ邪魔すんじゃねえ! 今は俺の番だろうが!」
金属バットや鉄パイプは、ある程度の長さがある。
ひとつの標的に向かって同時に振り回せば、仲間が持つ武器に当たってしまうのだ。
彼らは同時攻撃ができなくなり、結局ひとりずつ戦う羽目になる。
勇治郎は、背後に気をつけながら相手の攻撃を避ければいい。
(集団戦で危険なのは、動きを封じられることだ)
身動きできなくなれば、後はやられるのを待つばかりとなる。
つまり、素手で服や手足をつかまれる方が危険だった。
しかしそれは、武器による攻撃を回避できる勇治郎だからこその考えである。
彼ほどの胆力と戦闘能力がなければ、武器を持った集団を前に震え上がることしかできないだろう。
(こいつらを見た時…俺は最初、失敗したと思った)
回避に慣れてきた勇治郎の口元が、笑みでゆるむ。
(だが、今は……!)
腹の底に、熱い塊が生まれる。
それは砕けて全身を巡り、彼を高揚させる。
「ははっ、はははっ、はははははははははっ!」
当たれば無事ではすまない戦いの中で、勇治郎の本能が目を覚ました。
避ける速度は段違いに上がり、相手の攻撃を避けるだけでなくカウンターのひざ蹴りを放てるまでになる。
「うっ、ぐえっ!?」
「もらうぞ」
勇治郎は、倒した相手から鉄パイプを奪う。
その時、誰が呼んだかパトカーがやってきた。
桐山が一番最初に降りて、集団を止めようとする。
その隙間に勇治郎の姿を見た彼は、名前を口にしかけた。
「伊藤……」
だがそれは、相手に届くほどの声量にはならない。
この時、桐山はまるで時間が止まったかのように呆然としていた。
勇治郎が砂を蹴り上げ、相手の視界を奪う。
そうしながら勢いを利用して体を回転させ、次にやってきた敵を回し蹴りで倒す。
後続の男たちを鉄パイプで叩き伏せたかと思うと、すぐにその場から離れて続く攻撃に備える。
その流れるような動きはあまりに美しく、警察官として格闘技の修練を積んでいるはずの桐山さえも魅了してしまっていた。
「はッ! おりゃあッ!」
勇治郎は、本能の赴くまま無我夢中で戦い続ける。
当然手加減といったものはなく、校庭は次第に血で染まっていった。
やがて、仕返しに来た30人以上全員が沈黙する。
「はあっ、はあっ、はあっ…」
立っていたのは勇治郎たったひとりだった。
桐山はここでようやく我に返り、彼のもとへ近づく。
「伊藤、お前…!」
「あァ? ああ…桐山さん」
新たな敵かと勇治郎は一瞬身構えたが、すぐに桐山だと気づき笑ってみせた。
とんでもない数を相手にしたというのに、彼はほぼ無傷だった。
桐山は、苦い顔で勇治郎に告げる。
「悪いが、このまま帰すわけにはいかん。署で話を……」
「伊藤くん!」
杏菜の声が割り込んできた。
彼女は、いつの間にか校庭に出て来ていた。
「……!」
まさか来ているとは思わず、勇治郎は少しばかり驚く。
だがしばらくすると彼は微笑んでみせた。
(ありがとう)
心には、今まで仲良くしてくれた杏菜に対する感謝がある。
だがそれを口にすることはない。
(俺が何も言わなければ、お前も忘れるだろう…それでいい)
勇治郎は、杏菜の中に何も残さないようにしておきたかった。
何の期待も、
何の未来も、
彼女に見せるわけにはいかなかった。
だから彼は何も言わないまま、桐山に連れられてパトカーに乗った。
窓に映る景色が流れ始めてもそちらを見ることなく、ただ前を向いていた。
(これで俺の家はなくなる。桐山さんが苦しむことはもうない)
仕返しの集団が現れた時、勇治郎は最初に失敗したと思った。
しかし戦っている間に考えが変わった。
自分がとてつもない問題を起こして少年院に行けば、家を空けることになる。
しかもその家は犯罪者が住んでいた場所ということになり、大家の態度が一気に硬化するのは間違いなかった。
そうなれば、桐山が金を払うといっても受け取ることはなくなる。
家は強制的に引き払われ、中にあるものも売り飛ばされることだろう。
(これでいい)
後悔はなかった。
自分の隣で桐山が悔しそうに震えていても、彼は迷いなく前を見続けた。
その後、望んだ通り勇治郎の少年院行きが確定する。
光ある方へ進むかに見えた人生は、暗澹たる獄の中へと彼を突き落とすのだった。
>Ch.65へ続く
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