Ch.59 歪みの出どころ
呼吸が整うことで気分も少しだけ落ち着いてくる。
あかりは、ワンピースの裏地が体に張りついているのを感じた。
(気持ち悪い…)
肌に残った汗が、体と服をくっつけてしまっている。
その原因は、すでに帰った桐山だけではない。
彼女は静かに起き上がると、新たな冷汗をかかせた張本人である刀磨に顔を向けた。
「…もう、大丈夫」
「別に急がなくてもいいよ」
刀磨はニヤリと笑ってみせる。
その楽しげな表情を見て、あかりは顔をしかめた。
「あたしは…早く終わらせたい」
「人生を? 君は死にたい人なのかい?」
「ちが…!」
あかりはいら立ちのままに叫ぼうとする。
しかしそれはできなかった。
「大きな声出したら、お母さんに聞かれちゃうよ?」
刀磨が一瞬のうちに近づき、口をふさいできたのだ。
彼はぎょろりとした大きな目で、あかりの瞳をのぞきこみながらこう続けた。
「僕に早く帰ってほしい気持ちはわかるけど、もう少し立場を理解した方がいいんじゃないかな」
「……!」
「君と君のお母さんを、生かすも殺すも僕次第なんだよ。君たちが今生きていられるのは、僕が大目に見てやってるから…そこを勘違いしちゃいけない」
「………」
あかりの瞳に宿っていた気迫が薄れる。
彼女は視線の向きを右下に変えた。刀磨から目をそらした。
刀磨はこれを従順の証と判断し、あかりの口からゆっくりと手を離す。
その後で、脅迫したことを軽く謝ってみせた。
「まあ、今の冗談は…笑えなかったかもね。君という存在があまりに興味深くて、ちょっとテンションが上がっちゃったんだ。そこはゴメン」
「…え…?」
あかりは謝られた意味がわからず、再び刀磨を見る。
すると彼は笑みを崩さないまま、こんなことを尋ねてきた。
「あの学校…三女だっけ? そこで会った時とは顔も体つきも違うよね、君。一体どういうカラクリなんだい?」
「…カラクリ、っていうか…」
あかりは返答しかけて、ふと奇妙なことに気づいた。
目を見開くと、刀磨に質問を返す。
「ちょっとまって? そうだよ、あたしあの時とは顔が違う…! なのになんで、あたしがあたしだってわかるの!?」
あかりが刀磨と初めて遭遇したのは、三女の屋上だった。
もうひとりのアヤを始末しようというまさにその時だった。
当時のあかりは、魔人ペンを使いもうひとりの姫に変身していた。
ジャージの上から三女の制服を着ていたため、体つきもひと回り大きくなっていた。
それだけではない。
あかりは氷の右手を使って、裏界へ逃げた。
この時点で変身は解け制服も消えたが、その瞬間を刀磨は見ていない。
つまり刀磨は、あかりの顔を知らないはずなのに、あの時会った人物があかりだとわかっているのだ。
彼女が驚くのも無理はなかった。
しかし刀磨にとって、それは大した問題ではない。
「…あのねえ」
彼は呆れた様子で頭をかくと、あかりに警告する。
「大きな声出すと困るのは君なんだよ?」
その言葉を証明するように、外から由美子の声が聞こえてきた。
「あかりー? なんか言った?」
「! な、なんでもない!」
「ほんと?」
どうやらリビングにいる由美子に、先ほどの声を聞かれてしまったらしい。
娘を心配した足音が、部屋に近づいてくる。
「……!」
あかりは真っ青な顔でベッドから下りた。
ドア前に立つと、母親を遠ざけるための嘘をあわてて口にする。
「い、今電話中だから! 話聞いてもらってるの!」
「…ああ、そうなのね」
「もうちょっとしたら、あたしちゃんと元気になるから! だからもうちょっと待ってて!」
「あかり…」
足音が止まった。
「ごめんね、お母さんちょっと心配しすぎだったわね」
「そんな…ことは、ないけど」
「あかりを急かすつもりはないのよ。何かあったら、いつでも何でも言ってね」
「うん。その時は相談するから…だから今は」
「わかったわ。それじゃ、気が向いたら下りてきなさいね」
優しい言葉が終わると、再び足音が聞こえてくる。
しかしそれは部屋に近づくのではなく、少しずつ遠ざかっていった。
やがて、由美子の足音が聞こえなくなる。
それを確認したあかりは、上半身をわずかに前傾させながら大きく息を吐いた。
「ふぅう……」
「危なかったね」
「!」
近すぎる刀磨の声に、あかりは体を震わせる。
ベッドそばにいたはずの彼が、いつの間にか真後ろにいた。
「もしお母さんがそのドアを開けてたら、君たちふたりとも死んでたよ」
「くっ…」
あかりは刀磨に向き直る。
背中をドアに当て、その向こうにいる由美子をかばうつもりで背筋を伸ばした。
「あたしは死ぬかもしれない」
彼女の声は震えている。
しかし刀磨に向けられたその目に、もう怯えの色はなかった。
「でも、お母さんは絶対に守る…!」
「おっと、変なとこに火をつけちゃったみたいだね」
刀磨は苦笑する。
あかりから離れると、机の前にある椅子に座った。
「その火を煽れるだけ煽ってもいいんだけど…僕は今、そういう気分じゃない。話の続きをしたいんだよね」
「…何を話すっていうの?」
「言ったはずだよ。君という存在が興味深いって」
「だからそれはどういう……」
あかりが言いかけた時、刀磨が指を差してきた。
「そこで話すと、声…漏れやすいよ」
「あ」
そういえばそうだとあかりはハッとする。
ドアと刀磨を交互に見た。
だがその表情はすぐに、険しいものへと変わる。
「でもあたしがここにいないと、いつあんたがお母さんに手を出すか…!」
「いちいち突っかかられちゃ、話が進まないんだけどな」
刀磨は面倒くさそうに言いながら頭をかいた。
手を下ろすと、腕組みをしながら下を向く。
「う~~~ん……」
小さくうなりつつ、何やら考え始めた。
これを見たあかりは、右手を腰の後ろに回す。
(今のうちに…!)
あかりの右手は氷の右手であり、血のインクでできた武具である。
その特性を使い、彼女はドアの開閉部に氷の輪郭を持つドアノブを描き出した。
もし刀磨がいきなり動いてあかりを突き飛ばし、由美子を殺そうとドアを開けたとしても、その先にあるのは裏界である。
彼女はいない。
(コイツはあたしの家まで来れるのに、裏界には来なかった。だったら裏界に入れちゃえば、こっちには戻ってこれない…!)
刀磨はアヤの仲間ではない。
つまり、表側の世界と裏界とを行き来できる切符を、持っていない可能性が高い。
あかりはそこに目をつけたのだ。
彼を裏界に入れた後は、自身もすぐに続くつもりでいる。
(裏界ならあたしだって全力で戦える。もし勝てなくても、斬られたとしても…その瞬間はあたしのすぐそばにいるはず)
腰の後ろに回していた手を元の位置に戻すと、覚悟の眼差しを刀磨に向けた。
(その時に、氷漬けにしちゃえば…どんなに強くたって関係ない!)
「なるほどね」
突然、刀磨が感心したような声をあげた。
まるで心を読んだかのようなタイミングで言われ、あかりは驚く。
「な、なるほど、って…何が?」
「君はとってもバカだ」
「なっ…!?」
「でも、それ以上におもしろいヤツだとわかったよ」
彼は腕組みを解くと顔を上げた。
「僕は今、考えるフリをした。君に敢えて隙を見せた。君がどういう行動に出るか、見定めようと思ったんだ」
「え…」
「そしたら君は何か妙なことをした。僕が『この前みたいに妙な方法で逃げたりすれば、この家に残った君のお母さんを斬らなきゃいけなくなる』って、ちゃーんと言っといてあげたのに……それに近いことをしたんだ」
「そ、そんなの、わかんないでしょ」
「その言葉こそ妙なことをしたって証拠なんだけど、それをわかってないあたりやっぱりバカだよね」
「!?」
「でも君はただのバカじゃない。火がついたあたりから…お母さんを守るって決めたあたりから、『時間の流れ方』がすっかり変わってしまった」
「…時間の…流れ方?」
あかりの顔から険しい表情が消える。
それを見た刀磨は、ゆっくりとうなずきながらこう言った。
「僕にはね、『人が持つ時間の流れが見える』んだよ」
「時間の流れが、見える……?」
あかりはオウム返しに問う。
相手が言った、言葉の意味がわからない。
しかし嘘やでたらめではないと感じた。
だからこそ彼女は突っぱねるのではなく、さらに問いを重ねることで話を聞く態勢に入る。
「どういうこと?」
そんな彼女に、刀磨は答えを言うのではなく軽い口調でこう尋ねた。
「楽しい時って、すぐに終わらないかい? 例えば、とっても仲のいい友だちと遊びに行ったら、一瞬で帰る時間になっちゃったりすると思うんだけど…どう?」
「う、うん…それはわかる」
「逆に、キツい時間っていつまでも終わらないよね。君は間違いなく勉強が得意じゃないだろうから、宿題してる時とかすっごく長く感じるんじゃないかな」
「間違いなくってなに? ま、まあその通りだけど」
「これね、逆なんだよ」
「えっ……?」
「楽しいから時間が早く過ぎる、キツいから時間が遅く過ぎる、じゃないんだ」
刀磨はニヤリと笑う。
「時間が早く過ぎるから楽しい、時間が遅く過ぎるからキツい、んだよ」
「ど、どういうこと?」
「本来はキツいことでも、時間が早く過ぎれば楽しいって感じる。反対に、本来は楽しいことでも時間が遅く過ぎればキツいって感じる…人間っていうのは、そういうふうにできてるってことさ」
「まって…意味わかんない」
「だろうね。僕も君が理解できるとは思ってない」
彼はあっさりと断言する。
断言の意味をあかりが理解する前に、彼女の右手を指差した。
「君の体で、その右手だけ時間の流れ方が明らかに違う。めちゃくちゃ遅い…まるでそこだけ凍ってるみたいだ」
「えっ?」
「ひとつの体でそこまで差が出るのは異常、ってくらい違うんだよ。それは僕の目に『歪み』として映る」
そこまで言うと、刀磨は手を下ろす。
次に、初めて会った時について語った。
「あの時はさらにひどかった。まず右手がめちゃくちゃ遅い、次に顔と制服がそこそこ遅い、左手とか足は普通って具合に、体のそれぞれで時間の流れ方が違ってた。だから僕は君のことをバケモノだと思ったし、実際にそう言った」
「……」
「君が逃げてから、なぜか『歪み』の数が減った。それだけじゃなくて一瞬でかなり遠くに移動してた。速さに自信がある僕でも、さすがにあんな瞬間移動はできない…『歪み』の数が減ったせいで探すのに苦労したけど、やっと今日こうやって再び会うことができたってわけさ」
「…えっと、つまり…?」
「要するに僕は、君の右手が発する『歪み』を追いかけてきたんだよ。だから顔を知らなくても見つけ出せたんだ」
「み、右手を……?」
あかりは思わず自身の右手を見る。
この時、視界の端で刀磨が何かを引っ張った。
いつの間に忍ばせていたのか、ベッドの下から彼の荷物が現れる。
それは黄色い紐で網状に縛られた長い棒と、棒の先端に結びつけられた小さな風呂敷包みだった。
「!」
あかりは、長い棒が刀磨の武器であることを知っている。
戦いを始めるつもりかと、警戒の色をあらわにした。
しかし刀磨はへらっと笑ってみせる。
「今日はここまでにしておくよ。人質をとるとかじゃ、君から話を聞けないってのがよくわかった」
「えっ?」
「また来るよ」
彼は椅子から立ち上がり、棒を右肩に乗せる。
あかりに背を向けると、風呂敷包みを揺らすことなくベッドを飛び越えた。
「…あ、そうそう」
ベランダへの戸を開けてから、ふと振り返る。
「その歳で、いちごのパンツはないんじゃないかな」
「えっ…?」
「じゃあね」
短く風の音が聞こえたかと思うと、刀磨の姿が消える。
後には、呆然とした表情のあかりが残された。
「………」
彼女は開いたままの戸をぼんやりと眺めている。
外から吹き込んできた風が頬をなでた時、あることを思い出した。
(刑事さんが来た時、あたし…着替えた……)
桐山に会うため部屋を出る直前、彼女はルームウェアから今着ているワンピースに着替えた。
このことと、刀磨が言った言葉を組み合わせてみる。
”その歳で、いちごのパンツはないんじゃないかな”
「あっ……!」
あかりの顔が、一瞬にして真っ赤になった。
「くぅう…!」
あまりの恥ずかしさに叫び出したくなる。
しかしそれをやると由美子が部屋に来てしまう。
(ダメだ、お母さんがドアを開けたらどうなるかわかんない!)
氷のドアノブは、部屋の内側に描き出されている。
部屋の外側に立った由美子がドアを開けた場合、どうなってしまうのかわからない。
彼女は裏界に行くかもしれないし、行かないかもしれない。
確率も可能性も実際のところはわからないが、娘としてそんな危険な賭けに出るわけにはいかない。
あかりは両手で自らの口を覆う。
その上で声をあげた。
「んむぅううっ!」
しかしくぐもった声では、恥ずかしさを散らすことはできない。
刀磨に対する怒りを心に刻みつつ、あかりは彼がいた場所をにらみつけるのだった。
>Ch.60へ続く
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