Ch.29 紫が呼び出す反故 | 魔人の記

Ch.29 紫が呼び出す反故

Ch.29 紫が呼び出す反故


あかりが、見ている前で。

「ヨウ鬼っ!」

連れていかれた。

彼は宿直室の場所を教えてくれた。
それだけでなく、入口までついてきてくれた。

だというのに、あかりは何もできなかった。
ヨウ鬼は突如現れた触手にさらわれてしまった。

(待ってよ、こんな…!)

その姿はもう見えない。
あかりの叫びが宿直室から紫色に染まった空の下へ飛び出しても、彼が戻ってくることはなかった。

(助けなきゃ!)

あかりは走り出そうとする。
しかし足が動かない。

それは恐怖からではなかった。
彼女から2メートルと離れていない位置に晴人が囚われており、彼とヨウ鬼のどちらを先に助けるべきなのかわからなくなってしまったのだ。

つまり、迷いがあかりの足を止めた。
そこへ晴人の鋭い声が飛んでくる。

「危ない!」

「!」

声を聞いたあかりは、何事かと振り返る。
すると、晴人を縛り上げていた蛇が噛みつこうと体を伸ばしてきていた。

(ヤバいっ!)

瞬時に右手を氷で包み、顔をかばう。
間一髪、蛇の牙は氷に当たって、あかりは事なきを得た。

だがそれで安心する彼女ではない。

「はああっ!」

牙を防御できたことで一瞬の余裕を作り出したあかりは、右手の冷気を強めた。
蛇の小さな頭と細い体はみるみるうちに凍りつき、まるで氷でできた橋のように彼女と晴人をつなぐ。

「邪魔しないでっ!」

あかりが怒りを込めて言うと、凍った蛇の体が砕け散った。
晴人を縛っていた残りの部分が脱力し、彼は自力で動けるようになる。

「あかりちゃん!」

晴人はすぐさま立ち上がると、あかりを押し出すようにして宿直室から脱出した。
外の植え込みをふたりそろって飛び越え、しゃがんで体を隠す。

「…ありがとう、あかりちゃん」

晴人は小声で言いつつ、彼女の背中から手を離した。

「まさか見つけてくれるなんて思わなかった」

「あたしひとりじゃ無理だった」

あかりは校舎に顔を向ける。
ヨウ鬼を連れ去った赤黒い触手はもういない。

と、校舎1階の引き戸が音を立てて開いた。
てるてる坊主型人形が2体現れ、ふわふわとした動きで宿直室へ入っていく。

「………」

あかりと晴人は息を殺し、事態の推移を見守った。

宿直室には、あかりが倒した蛇の死骸がある。
それを見て人形たちがどう動くのか。

もし周囲を探り始めるのであれば、また触手が現れないうちに倒さなければならない。
あかりは緊張の面持ちで、右手に冷気をまとわせる。

やがて人形たちが出てきた。

「キュ?」

「キュイッ、キュイッ」

「キュゥウ」

何事か話し合うと、宿直室から離れていく。
それらが校舎に戻った時、紫色に染まっていた空が元の色を取り戻した。

「どうやら…蛇は触手にさらわれた魔物に倒された、って勘違いしたっぽいね」

晴人が安心した様子で、しかし小さく絞った声のままでそう言った。
それを聞いてあかりも安堵するが、すぐにその表情は険しくなる。

「ヨウ鬼を助けないと」

彼女は校舎をじっとにらみつけた。
これまでの事情を知らない晴人は、軽く首をかしげる。

「ようき、っていうのは…なに、誰かの名前?」

「鬼の名前。この場所を教えてくれたの」

「えっ?」

「助けないと。キモいのに連れて行かれちゃった…!」

「……人形たちだけじゃなくて、僕もちょっと勘違いしてたみたいだね…?」

晴人は右手人差し指で自身の頬をかく。
手を下ろすと、どう勘違いしていたのかをあかりに告げた。

「僕はてっきり、あかりちゃんが人型の魔物に襲われそうになってるって…そう思って叫んだんだけど…」

「え? …あ」

意味を理解したあかりの顔から、険しさが消える。
どうやら晴人は、ヨウ鬼を敵の魔物だと思い込んでいたようだ。

ヨウ鬼は宿直室の外で、あかりが出てくるのを待っていた。
しかし晴人には、ヨウ鬼があかりを追って宿直室前までやってきたように見えた。

彼女の背後に魔物が迫っている。
その勘違いが、「早く逃げて」という叫びにつながったらしい。

あかりは晴人に顔を向けると、誤解を解くためヨウ鬼について説明した。

「…ヨウ鬼はトドロ鬼の子分で…お母さんとあたしのことを知ってた。教室で何か勉強っぽいのをさせられてて、逃げたいって言ってたの。その後いろいろあって、晴人くんがここにいるって知って…それからヨウ鬼がこの場所を、他の魔物から聞き出してくれた」

言い終わった後で、彼女の顔に険しさが戻る。
視線が少しばかり沈んだ。

「ヨウ鬼が連れてきてくれなきゃ、あたしはずっとここには来れなかった。助けに行かないと」

「ちょ、ちょっと待ってくれあかりちゃん」

今にも立ち上がりそうなあかりを、晴人が止める。

「僕が誘っておいてこんなこと言うのも何だけど、ここはめちゃくちゃ危険だ。人形たちに見つかったら空が紫色になって、何やらエグい見た目の触手たちが出てくる…僕はそれに飲み込まれて捕まったんだよ」

「…!」

あかりは驚きの表情を晴人に向ける。
まさか塊王ゲシュタルトを背負う彼までもが、触手に飲み込まれたとは思わなかったのだ。

晴人はさらにここの危険性を訴える。

「人形たちはマスクの手下だ。その人形が校門や校舎の中にいるってことは、この場所がマスクの支配下にあるのは間違いない。でもそれだけじゃなくて、ここには結界が張られてる」

「結界、って…リーエイルさんがアジトに張ってるような、アレ?」

「そう、アレだよ。触手が出てくるのもそのせいだし、触手に飲み込まれたら学校とは全然関係ない場所に出るのも結界のせいなんだ。僕はとんでもないところに連れていかれたんだよ!」

「……」

晴人の必死な話しぶりに、あかりは声を失う。

(とんでもないところ…あたしも確かに、わけわかんないところに飛ばされた…)

校舎の中とは思えない肉の迷宮に、謎の電車。
特に、電車ではマスクの声を聞いた。

どういった場所に連れていかれたのかを晴人が言わないのは、説明のしようがないからなのかもしれない。
そう思える程度には、あかりも自分が行った場所をうまく説明する自信がなかった。

何も言えなくなった彼女に、晴人は脱出を勧告する。

「ここがマスクの支配下にあるのは最初から予想できてた。それだけなら僕らふたりで突破できると思ってたんだ。でもまさか、師匠以外に結界を張れる誰かがいるなんて思わなかった…! 今すぐここを出よう」

「えっ?」

「約束したよね、危険だとわかったらすぐに帰るって。ここからは裏門が近いはずだ。そこから出れば…」

「待って」

あかりは晴人の言葉を遮った。
彼の目をじっと見つめ、首を横に振る。

「ダメだよ、帰れない。ヨウ鬼を放って帰るなんてできない」

「ここはただの学校じゃない、結界が張られてるんだよ。ヨウ鬼って鬼を助けるにしても、師匠に結界の解き方を教えてもらってからの方が安全だ」

「それってすぐに終わるの? 終わるまでヨウ鬼が無事だって…晴人くん、保証できる?」

「…それは…」

「あたしはヨウ鬼を助ける。ここまで連れてきてもらったんだもん、ちゃんとあのホテルに帰してあげなきゃ」

「あかりちゃん、もしかして君は…ここに入る前にした約束を、破る気なのかい?」

晴人の顔に怒りがのぞく。
しかしあかりは引き下がらない。

「危ないと思ったら帰る、あたしも最初はそのつもりだったし少し前までそう思ってた。でもそれは、ヨウ鬼が連れていかれる前までの話」

「あかりちゃん」

「もっと言えば、ここに結界が張られてるなんて知る前の話だよ。今はもう、状況が変わってる」

彼女は左を向く。
顔が動いたことで、正面に見えていた植え込みが視界の右に移動し、学校の外周を取り巻くブロック塀が視界の左側に現れた。

植え込みに隠れながら進んでいけば、いずれ塀が途切れて裏門を見つけることができるかもしれない。
しかし彼女は視線を切って前を向く。

「ここはマスクが支配するところで、結界も張ってある。だったらもう、あたしたちはここから出られないんじゃないかな」

「…えっ?」

「晴人くんもそうだったみたいだけど、あたしもわけわかんないとこに飛ばされた。1回じゃなくて2回…教室に飛ばされたのも含めると3回。2回目の時、あたしはマスクに殺されかけた」

「あかりちゃん……」

「アイツ、笑ってたんだよ…!」

あかりは歯噛みする。
それは3秒ほど続いたが、冷静にならなければと口から力を抜いた。

一度深呼吸を挟むと、静かな声で続ける。

「もし今ここから帰ろうとしたら、それこそひどい罠に引っかかるんじゃないかな。あたしはそんなのイヤだし……やっぱり、ヨウ鬼を助けたい」

あかりは晴人の瞳をじっと見つめる。

「今、助けなきゃいけないの」

「……」

「だから晴人くんはここで待ってて。あたしがひとりでも絶対…」

「いや、そういうわけにはいかない」

「晴人くん…!」

「君をひとりで行かせるわけにはいかないよ」

晴人は突然立ち上がる。
植え込みから出ていき、校舎に向かって大声で叫んだ。

「マスク! 僕は『ひとりで』お前の罠から脱出したぞ! お前の悪知恵なんか通用しないっ!」

彼の叫びが人形たちに届いたのか、空が、いや学校を包む結界上部が紫色に変化する。
校舎の外壁から赤黒い触手がぬるりと現れた。

「ちょっ…晴人くん!?」

あかりは驚きの声をあげて、植え込みから出ようとする。
その時、晴人が自身の背中を左手親指で指差してみせた。

そこには塊王ゲシュタルトがある。
しかしやけに薄く、凝視しなければ存在がわからない。

不思議に思った彼女が動きを止めた時、晴人のこんな声が聞こえた。

「実は僕ね、言ってなかったんだけど…閉じ込められるのが苦手でね」

「…えっ?」

「一度閉じ込められちゃうと、怖くてしばらく戦えなくなるんだ。とっても強い塊王ゲシュタルトは臆病な僕が嫌いみたいでさ…いつも通りに振るわせてくれなくなる」

へらっと笑いながら語る晴人の前で、触手が大きな口を開ける。
触手は彼の言葉を独り言としか考えていないようで、話し相手を探すような素振りはない。

晴人は手を下ろすと、笑みから自虐を抜いてこう言った。

「多分この触手はヨウ鬼を連れていったのと同じ。僕がこいつに飲み込まれれば、きっと彼のいる場所に行ける。そしたら合図を出すから、あとはあかりちゃん…頼むよ」

「は……!」

あかりは彼の名を叫びそうになる。
その時、晴人が顔を彼女の方へ向けた。

肩越しに、人差し指を唇に当てているのが見える。
声をあげてはいけないというジェスチャーだと気づいて、彼女が目を見開いた時。

触手が晴人を飲み込んだ。


>Ch.30へ続く

目次へ→