Ch.25 小さな騒ぎ | 魔人の記

Ch.25 小さな騒ぎ

Ch.25 小さな騒ぎ


裏界には風がない。
表側の世界のように、気圧や気温の変化から起きる空気の流れがない。

とはいえ、絶対に存在しないというわけではない。
エアコンや扇風機を使ったり手であおいだりなどすれば、風を発生させることはできる。

風といえば勝手気ままで、ともすれば突風など激しい性質を持つイメージが強い。
しかしもし太古の昔から世界が裏界のようであったなら、風の神はずいぶん受け身な存在として神話に記されていただろう。

「……」

勇治郎は、食堂のドアを見ている。
ドアは完全には閉まっておらず、少し開いていた。

(開きっぱなし…)

開いているだけで動きはない。
ドアそのものが前後に動いてかすかな風を生んでいるということはなく、蝶番がきしみに満たないほど小さな異音を発しているわけでもなかった。

(何か聞いた気がしたが……)

他に異常はない。
彼が部屋からわざわざ起き出してきた理由はどこにもなかった。

ただ、音の発生源はここになくとも、本来閉められているはずのドアが開いているという異常が目の前に存在している。

「……」

勇治郎は警戒しつつ、壁に身を寄せた。
ドアに備えつけられた半透明の小窓は、食堂内が明るいことを彼に教えてくれる。

アジトのメンバーは、照明を消す義務を課されていない。
そのため、明るいこと自体はいつものことだった。

しかしドアが開いているという異常のこちら側に何もなければ、向こう側である食堂内で何かが起きている可能性が高い。

(何もなければいいが…な!)

勇治郎はジャケットの中で銃のグリップを強く握ると、勢いよくドアを開けて食堂に入った。

「……」

中には誰もいない。
しかし、厨房近くのテーブルに何かあるのが見えた。

少し前に勇治郎が食堂を出た時、そこには何もなかった。
つまり彼が出ていった後で、誰かが置いたということになる。

一体誰が何を置いたのか?
それを調べるため、勇治郎は周囲に気を配りながらテーブルへと近づき始めた。

(…む…?)

ほどなく物体の正体に気づく。
その影響か、近づくに従って動きから鋭さが失われていった。

動きの鈍化はとどまるところを知らない。
やがて彼は警戒することすら忘れ、握っていた銃から手を離してしまった。

「これは…」

テーブルの上にあったもの。
それは、かわいらしくラッピングされた袋だった。

勇治郎は、それをまじまじと見た後でそっと耳を近づける。
中から秒を刻む音は聞こえてこない。

つまり、どこからともなく現れた時限爆弾というわけではなかった。

(姫かリーエイルのもの…か?)

勇治郎は、すでに銃から離していた手をジャケットから出す。
半ば解除していた戦闘態勢を、ここで完全に解除した。

(…紛らわしい)

袋はどうやら物騒なものではないようだ。
しかし置き去った犯人には、ちゃんと注意しておかなければならない。

そう考えた彼は食堂を出て、まず姫の部屋に向かう。
ドアをノックするが、反応はない。

「…姫」

呼びかけても相手の声が返ってくることはなかった。
勇治郎は数秒ほど思案した後で、そこから離れる。

次にやってきたのは、地下階段の突き当たりにある部屋だった。
壁にあるスイッチを押すと、どこかに仕込まれたスピーカーからリーエイルの声が聞こえてくる。

”…ふわ……なんじゃ勇治郎、わしゃまだねむい…”

「頼みがある」

”今でないといかんのかぁ……? 頭脳労働には睡眠が大事で…”

「姫がいるか、確認してほしい」

”…なに?”

それきりリーエイルの声が聞こえなくなる。
しばらくするとドアが開いて、中から本人が出てきた。

「どういうことじゃ?」

そう尋ねる彼女は、いつものローブではなくネグリジェを着ていた。
開いた胸元には豊かさを象徴する深い谷間と、薄暗い照明を受けて輝くつややかな肌がある。

しかし勇治郎はそれを全く気にしていない。

「姫がいなくなっているかもしれん」

彼の関心事はそれしかなかった。
普段よりもわずかに高くなっているその声を聞いて、リーエイルの表情も引き締まる。

「なんじゃと…?」

「とにかく、部屋を確認してくれ」

「確認? お前、部屋には行っておらんのか?」

「行ったが…」

「じゃあドアを開ければすむことじゃろうが。わしがわざわざ行かんでも」

「…頼む」

「仕方ないのぅ、待っておれ」

リーエイルは渋々言うと、一度部屋に戻った。
5分ほど経つと再びドアを開け、いつものローブ姿で外に出てきた。

ふたり並んで階段を上る。
その中で、勇治郎が彼女にこれまでの経緯を説明した。

「妙な音がすると思って食堂に行ったら、ドアが閉まっていなかった。中には小綺麗な袋があって、もしかしたら姫のものかと思って部屋に行ってみたんだが反応がなかった」

「小綺麗な袋…?」

リーエイルは首をかしげる。
角度を維持したまま、勇治郎にこう尋ねた。

「それはお前宛てのプレゼントではないのか?」

「なに?」

「ホルスターじゃよ。わしがお前に目配せした後で、お前が姫に頼んでおったものじゃ」

「……あ」

勇治郎は納得したらしく、少しだけ目が大きくなる。
しかしそれはすぐに細さを取り戻した。

「だったらなぜすぐ持ってこない?」

「姫のことじゃ、お前が魔物狩りで寝ておるかもしれんと思ったんじゃろう」

そう言うと、リーエイルは首の角度を真っ直ぐに戻す。
勇治郎にニヤリと笑ってみせた。

「まるで娘を心配する父親じゃな?」

「……なんだと」

「ふふっ、怒るな怒るな。おそらく姫も、お前のことを家族のように思っておるんじゃろう。微笑ましいことではないか」

「……」

勇治郎は何も言えなくなる。
ちょうどその時、ふたりは1階へ戻ってきた。

「さて」

リーエイルが勇治郎に背を向ける。

「わしは今から、お前の要望通り姫の確認に行ってくる」

「……頼む」

「頼まれてやるが、偉大な魔導士であり淑女でもあるわしを叩き起こしたんじゃ、相応の報酬はいただくぞ」

「報酬だと?」

勇治郎にとって、それはあまりに急な話だった。

「何も渡せるものなどない。俺にできるのは魔物狩りだけ…」

「姫からのプレゼントを受け取るお前を、特等席で見せてもらう」

「なっ…!?」

思わぬ要求に、勇治郎は目を見開く。
そこへ、リーエイルが振り返りながらこう言った。

「ホルスターを装備するところまで、ちゃんと見せてもらうからの」

「うぐ…」

「返事は?」

「わ、わかった…さっさと行け」

「ふふっ、楽しみじゃ」

リーエイルは心底楽しげに笑うと、姫の部屋に向かって歩き出そうとする。
その時、出入口方向から誰かがやってきた。

「…あれ?」

きょとんとした顔で声をあげたのは、姫だった。
小脇にはスケッチブックを抱えている。

「ふたりともどうしたんですか?」

この質問に戸惑ったのは勇治郎である。
姫の顔とスケッチブックを交互に見るばかりで、口から言葉が出てこない。

代わりに、リーエイルが彼女に尋ねた。

「姫…お前、部屋を出ておったのか?」

「あ、はい。久しぶりに絵を描きたいなと思って」

「なるほど、それでスケッチブックか。しかしそんなもの、ここの備品にあったか…?」

「いえ、これは近くのスーパーからもらってきたんです」

「なに!」

リーエイルの声が大きくなる。
それは一瞬で終わらず、続く質問においても維持された。

「お前、結界の外に出たのか!」

「だ、大丈夫ですよ。魔物は出てきませんでしたし…」

「そういう問題ではない!」

リーエイルの眉がつり上がった。

「魔物が減ってきておるのはわしも知っとる。しかし、結界の外が危険であることに変わりはないんじゃぞ!」

「ご、ごめんなさい…」

リーエイルの剣幕に、姫は頭を下げる。
しかし彼女にも言い分があるらしく、そのまま黙り込むことはなかった。

「私、表側にいる時はずっと絵を描いてたんです。でもここ最近はずっと描いてなくて…私にとって、絵を描くというのはとても大事なことなんです」

「…まあ、その体を自力で描いたという時点でそれはわかるが…」

リーエイルは姫の言葉に納得する。
この納得が怒りを弱めた。

魔人ペンは、持つ者の認識に従って描くものを補正する力を持っている。
インクさえあれば、絵が下手でも思い通りに描くことができる。

しかし、普通の人間と変わらない大きさでアニメキャラクターの全身を余すところなく描くというのは、労力の面からいって簡単なことではない。

今や肉体が自身で描いたアニメキャラクターになっている姫の存在そのものが、絵を描くことが大事という彼女の言葉を見事に証明していた。

姫は頭を上げると、さらに弁明を続ける。

「魔物が少なくなってきてるって話もあったし、ちょっと行って帰ってくるくらいなら大丈夫かなって…でも軽率でした。ごめんなさい」

彼女は謝罪の言葉とともにあらためて頭を下げた。
一生懸命謝る姿に、リーエイルはそれ以上怒れなくなる。

そこへ、勇治郎が口を挟んだ。

「姫が出ていった時点で、結界から何か感じなかったのか」

声と口調は静かだが、そこにはリーエイルに対する抗議めいた響きがある。
これに彼女は苦い表情を浮かべつつこう答えた。

「結界に、アニメキャラクターのみを識別する構文が備わっておらんのじゃ。つまり姫は、生者でも死者でも魔物でもない『空気を含めたその他』として分類されておる」

「…つまり、結界にとって姫は空気と同じ、ということか?」

「そういうことじゃ。結界から空気が出て行ってもわからんように、姫が出て行っても現時点ではわからん。構文の追加を試みてはおるが、アニメキャラクターという存在は地球独自のものでな…ヴェスティナス古語への翻訳が難航しておる」

「その翻訳というのも、頭脳労働のひとつというわけか」

「そういうことじゃ」

「だったら仕方ない、か…」

勇治郎は納得したのか、抗議を取り下げた。

それを確認したリーエイルは、姫へと向き直る。
彼女の目をじっと見つめながらこう告げた。

「声を荒げて悪かったが、そういう事情があることは理解してくれ。金輪際、黙ってアジトの外へは出て行かぬこと…いいな?」

「は、はい…」

答える姫の目に涙が浮かぶ。
リーエイルは微笑み、彼女の頭を優しくなでた。

「よしよし、泣かんでもええ。気分が落ち着くまで、わしの部屋であったかいものでも飲もう」

その後、勇治郎をちらりと見て小声で言う。

「報酬はまた今度じゃ」

「…ああ」

こうして女性陣はリーエイルの部屋に、勇治郎は自分の部屋へと戻っていった。

「……」

勇治郎は、ドアの前で立ち止まる。
一度小さくため息をつくと、自身の頭を拳で軽く叩いた。


あかりと晴人は隠れている。
学校の正門前にある戸建て住宅の陰に身を潜め、様子をうかがっていた。

「1体だけ…かな」

「多分ね」

彼女たちから見て正門の右側に、てるてる坊主のような人形がいる。
丸い両足は地面から離れ、体がふわふわと浮いていた。

人形の大きさは2メートルほどで、ボタンでできた目は正面を見ている。
ただ、こちらに気づいてはいない。

あかりたちはしばらく見ていたが、学校の周囲を巡回する人形はいなかった。
つまり正門にいる見張りは1体のみで間違いない。

「もう一度言うよ、僕にも中がどうなってるかはわからない」

晴人が緊張感のある声で言う。
それは確認であるとともに、突入の前段階を意味していた。

「ここに何があるのかもわからないし、マスクやアヤって子がいる保証もない。マズいと思ったら僕らはすぐに戻る…いいね?」

「…ちゃんとわかってる、大丈夫」

「よし…! じゃあ行こう」

この言葉をきっかけに、ふたりは物陰から飛び出す。

「やああっ!」

「はあああっ!」

あかりが氷の右手で吹雪を放ち、晴人が塊王ゲシュタルトで叩き斬る。
強力な連携攻撃の前に、見張りの人形はなす術もなく倒れた。

ふたりはもともと開け放たれていた正門を抜け、運動場を走っていく。
その様子を、校舎に備えつけられている監視カメラが捉えていた。

データは学校内部に送られ、モニターに映像として映し出される。

「ふふ……やるわね、ここを見つけるなんて」

モニターを見ながら笑うのは、青みがかった暗い紫色の全身鎧を着た何者か。
しかし笑うといっても声だけで、顔は兜に覆われて外からは見えない。

全身鎧は鋭角的なフォルムを持つパーツで構成されている。
その下には、苦しげにうめく裸の女たちがいた。

女たちは拷問を受けているらしく、体を椅子のように組まされている。
その中のひとりが、苦しげな息とともに鎧を着た何者かへと訴えかけた。

「アヤ…! あなた、どうしてこんなこと……!」

「どうして?」

その言葉とともに、何者かの兜がかき消える。
消えた後に現れたのはアヤの顔だった。

アヤはせせら笑いを浮かべつつ、やけに丁寧な言い方で女に返す。

「ささやかな恩返し…ってとこかしらね、『オカアサマ』?」

言い終わると同時に、体を上下に揺らした。

「うぐっ…!」

「い、痛い!」

アヤの鎧が、女たちの体を傷つける。
あがる悲鳴とその顔は全て、アヤの母親と同じものだった。

つまり、アヤの母親はどういうわけか数人に増えており、裸にされ、娘の椅子となるべく体を組まされている。
アヤの鎧が直に当たっている部分は血がにじみ、肌をうっすら赤く染めていた。

「アタシも痛かった。あんたにさんざん蹴られて痛かったわ…でもあんたは気が済むまでアタシを蹴り続けた」

「う、ううぅ」

「これはそのお返し…アタシの気が済むまで、あんたを苦しめてあげる」

「アヤ…!」

母親は悲痛な声を漏らす。
それを聞いた娘は、満面の笑みを浮かべるのだった。


>Ch.26へ続く

目次へ→