Act.224 伝わったもの
薄く張った氷。
その下にあるものは、動かない。
「……」
止まっている。
何かに驚き、あるいは怒り。
叫ぶために口を開いていた。
だが、止まっている。
つい先ほどまで放たれていた声も、今は聞こえない。
声が途切れてから何秒たっても、変化は起きない。
止まっているのだ。
魔人エンディクワラ・テリオスは、動かない。
「おい…!」
声をあげたのは晶だった。
魔人の下半身を仕留めるために地上に向かったはずの彼女は、その両腕に『プシュケィ』を抱えている。
晶は氷に包まれた魔人の体を見ていたが、やがて悟に顔を向けてこう尋ねた。
「動かねえぞ、アイツ…なあ、動いてねえよな!?」
「…うるさいねェ」
悟が返答する前に『プシュケィ』つまりハナが、晶の大声に抗議した。
「そんな怒鳴らなくたってわかるだろう、魔人は動いちゃいない」
「!」
晶の顔が、悟からハナへ向く。
抗議されたことを認識すらしていない様子で、解答をくれた彼女に質問をぶつけた。
「じゃあ勝ったってことじゃねーのか! なあ! ばーさまよォ!」
「だから怒鳴るんじゃないよ! 興奮するのはわかるけどねェ」
ハナはそう言ってから、悟に顔を向ける。
『スサノオ』の鎧に包まれた彼へ、そっとこう言った。
「よく…がんばったね、悟」
「え…」
ハナの声が持つ優しい響きに、悟は少しばかり驚く。
そんな彼の小脇には、氷に包まれた魔人の左手があった。
ハナはそちらに視線を移しつつ、言葉を続ける。
「いくら『アレクトール』の特性で強化されたとはいえ、まさか『ない』ってことまで力にしちまうとは思わなかったよ」
過去に、可恋と身を寄せ合って冷えた夜風から『ヴァルチャー』を守ったこと。
それが『太陽が存在しない空間』を発現させるきっかけとなった。
もちろん『アレクトール』の特性がなければ、発現は不可能だった。
しかし特性で強化されても、発想そのものがなければ発現のしようがない。
強化と発想という両輪がそろわなければ、雷の球体と魔人が氷に包まれることはなかった。
ただ成し遂げた本人にとっては、複雑な手順を経ての発現というわけではないようだ。
「…そうしよう、って最初から考えてたわけじゃないよ。ただもう無我夢中でさ」
悟が夜風の冷たさを思い出した直後、黒い太陽は『太陽が存在しない空間』を作り出した。
そこに熱はない。
空気中の水蒸気が一瞬にして氷と化し、それが球体の雷気に引き寄せられた。
氷が包み込むことで、雷の球体は氷塊となったのだ。
悟が野球の打者よろしく打ったものは、正確には雷の球体ではなく氷の球体だった。
だからこそ、斬るとは別の手応え、つまり刃で固いものを打つ手応えが彼に返ってきた。
一方、悟の体内にあった雷気は、水蒸気が氷になる過程で一瞬だけ水になった時、雨で濡れていた『スサノオ』の鎧と『天羽々斬』、『天叢雲』を伝って外に出ていった。
これにより、彼の腕と翼からしびれがなくなった。
雷気は氷塊となった球体の表面を走ったが、内部にある落雷約3発分の雷に合流することができず、そのまま霧散した。
その後に、悟は二剣で球体を打った。
球体は『邪黒冥王・偽』の頭部に当たって上昇し、上空に広がっていた黒雲の中で炸裂した。
『太陽が存在しない空間』による低温は、球体がなくなった後も二剣の刃に乗っていた。
それに斬られたことで、魔人の体は氷に包まれたのである。
下半身を失い、『雷電怒涛(ダイ・オット)』を放ち、さらに融合のために魔力を残しておく必要があった魔人は、体を炎で包み続けることができなかった。
細胞が活動できる温度さえあればいくらでも復活できる『フェニックス』も、傷つき、力を失い、さらに極低温が加わることでその翼までも凍らされてしまったのだ。
これら一連の出来事が、1分もない時間の中で起きた。
引き起こした張本人は、無我夢中という短い言葉でそれを片付けようとしている。
ハナはそれを、部分的に否定してみせた。
「アタシが無我夢中になったって、こんな結果にはならなかっただろうさ。お前は勝った。必死に積み重ねてきたものを叩きつけて、魔人を打ちのめしたんだ」
「いや…」
悟の声は、なぜか曇っている。
声とは真逆の雄々しさを持つ『スサノオ』の顔は、ハナではなく魔人の左手に向いていた。
「結局おれは、コイツに勝てなかった」
「…え?」
ハナには、悟の言葉が理解できない。
そして悟は、彼女の理解を待たずにこう続けた。
「レイヴンに…おれの大事な相棒に、ひどいことをしてすまなかったと謝らせることができなかった」
「悟……」
「それだけじゃない」
悟は顔を上げる。
しかしやはりハナを見ることはせずに、『偽』の掌上で氷に包まれている魔人を見つめた。
「おれがやろうって言い出した雷の勝負にも、おれは勝てなかった」
彼が打ち返した雷の球体には、最終的に落雷約3発分の雷が寄り集まっていた。
なぜ『約』なのか。
自然の雷は言うに及ばず、魔人が放った『雷電怒涛(ダイ・オット)』も同じ威力を持っている。
ここに悟が作り出す雷が加われば、単純に3発分と言っていいはずだった。
しかし悟の雷は、他ふたつと比べて大幅に威力が劣っていた。
約3発分の『約』は、悟の劣勢を意味していた。
『天叢雲』で雷を作るには、まず薙ぎ払って雲を作らなければならない。
他ふたつにはその必要がなかった。
当然ながら悟も手順の多さからくる劣勢を感じており、それを巻き返そうと努力した。
しかし、努力ではどうにもならなかった。
どうにかできたのは、仲間たちの力が届いたからである。
決して、悟ひとりの力ではなかった。
「魔人は強い、おれたちは弱い」
悟の声は苦々しい。
「弱いからこそおれたちが勝つ…おれは確かにそう言った。言ったけど、やっぱり悔しいんだ。おれだけの力で戦って、勝ちたかった」
今、悟が発現させている『スサノオ』自体、彼ひとりの力で生まれたものではない。
それは彼もわかっている。
わかっているが、それとは別に悔しさがあった。
戦いには勝ったかもしれないが、勝負には負けたという認識が悟の中にあった。
「なに言ってんだい」
ハナはそれを受け入れない。
しかしその呆れ声に、怒りは含まれていなかった。
「お前は勝ったんだよ。最後はアタシが一矢報いさせてもらったけど、お前がいなきゃこうはいかなかった」
それから彼女は、自身が積み重ねてきた苦労に言及する。
「今までアタシが、どんだけ必死になってきたか。魔人の目を盗んで、能力のことを必死に勉強してさ…それでどうにか『プシュケィ』なんて力を作り出した。アイツが知らない力を作り出すとこまできたんだ」
「ばあちゃん…」
「これはアタシにしかできないことだと思ったよ。アタシに責任を取れってことなんだなって納得もした。そしたらなんだい、お前まで新しい力を作り出しちゃってさ。アタシの専売特許を返しとくれ」
「ちょちょちょ、ばーさまよォ」
ハナの声が勢いを増し始めたところで、晶が止めに入る。
「そういう話は後にしてくんねーかな。あんた抱えてるこっちの身にもなってくれ」
「邪魔すんじゃないよ、今からがいいとこなのにさ」
「おい悟!」
晶はハナの抗議を無視し、悟に声をかける。
「ばーさまのせいってわけでもねーんだが、まだ魔人の半分をつぶせてねえんだ。落ち着いたら下りてきてくれ」
「えっ?」
「オレがつぶすって言った手前、オレひとりでどうにかしたかったんだが…光司に協力してもらってもどーにもなんなくてよ。悪ィが頼むぜ!」
そう言うと、晶は降下を開始した。
すでにハナは静かになっており、抗議を続ける様子はない。
どうやら、晶が止めることは織り込み済みだったようだ。
「…あっ」
悟は、晶たちの姿が小さくなってからそのことに気づく。
そこへレイヴンがこんなことを言ってきた。
”モヤってんのも、オマエひとりじゃねーようだな?”
(…!…)
やると決めたことを、望み通りには達成できなかった。
そのことを悔しく思うのは悟ひとりではない。
レイヴンに言われることで、彼はようやく気づきの岸にたどり着けた。
(ばあちゃんも、高坂さんも…もしかしたら、可恋やあの子、嶋田くんも……?)
”『ククールス』と『アレクトール』はわかんねーが、『ヴァーチャー』は間違いねーんじゃねーか?”
(間違いない?)
なぜみもりだけ限定してそう言うのか、悟にはわからない。
レイヴンは彼の声からそれを察知すると、心底呆れた声でこう返した。
”オマエほんと…クソ鈍感大バカ野郎だよな。『ククールス』の特性を、『ヴァーチャー』がテメェの特性に乗っけんだぞ。わかるだろ普通”
(いやわかんないけど…なんでそれが、あの子も悔しがってる理由になるんだよ?)
”カァー!”
レイヴンの呆れが、限界を突破する。
”オレぁ『ヴァーチャー』に同情するぜ。こんなクソ鈍感大バカ野郎を気にかけちまうなんざ、あの歳で一生の不覚だろうな”
”私もそう思います”
(シロまで!? っていうかクソ鈍感大バカ野郎ってなんだよ! 語呂がいいんだか悪いんだかはっきりしてくれ)
”うるせェ、オマエにゃ似合いの称号だ。…それはともかくよォ”
ここで、レイヴンの声が呆れたものから一転した。
”ちょっと訊きてえことがあるんだが、いいか”
(…なんだよ)
”オマエ、オレに謝らせるためにクソ魔人をぶっ飛ばすって言ってたが…ほんとはオレより先に、謝らせてえヤツがいたんじゃねーのか”
(そのことか)
相棒の神妙な問いを受けてか、悟は地上に目を向ける。
もう晶とハナの姿は完全に見えなくなっていた。
(そうだな、最初はふたりに謝らせたかった。魔人を倒して、レイヴンとばあちゃんに『ひどいことしてすまなかった』って謝らせたかった)
しかし謝らせるということを言い出してから、悟は一貫してレイヴンの名前しか出していない。
つまりそのことを口にした時にはすでに、気持ちが固まっていたということになる。
その気持ちを、悟は重々しい言葉で語り出した。
(…おれは、ばあちゃんの大切な人たちを犠牲にして生まれた)
魔人が作り出した、この世界最初の邪黒冥王『虚』。
ハナの娘である実結と、その夫である光太郎がそれに取り込まれることで、幼児型の悟が生まれた。
そこから取り出された核こそが、悟だった。
ふたりを犠牲にして生まれたというのは、彼が持つ認識というだけではなく事実でもある。
(おれが人間じゃないとかさ、そういうのはどうだっていいっていうか…あんまし気にならなかった。小さいころにアリをつぶしてた記憶も、おれがまだ大きな子どもだった時に『おれの材料になった人たち』が近くに散らばってるのを歪んだ形で憶えてた、って考えれば…納得いったっていうかさ)
でも、と彼の感情がさらに沈む。
(ばあちゃんの大切な人たちを犠牲にして生まれた、っていうのは…正直、キツかった。とてもじゃないけど、ばあちゃんのために戦うなんておこがましいっていうか…考えられなくなった)
”…だから、オレだけにって言うようにしたのか”
(さっき、なんでばあちゃんがおれを殺そうとしなかったのか、実は正直…ちょっとわからなかった)
”なに…!?”
(ばあちゃんの能力は、神器が形を変えたものだ。その神器はおれを殺せる…いや、『壊せる』。でもばあちゃんはそうせずに、おれにこう言ったんだ)
悟の声が、少しだけ震えた。
(よく…がんばったね、って)
”……”
(動画でおれのことを知った時……まだ戦いなんて想像もできなかったころにばあちゃんからさんざん怒られたのは、おれがばあちゃんの大切な人たちを奪ったからだって一瞬思った。そうじゃないって気もしたけど、どっかで自信がなかった)
”オマエ…”
(でも、さっき…よくがんばったねって言ってもらえた時、本当に…心の底からそうじゃなかったんだって思えた。ばあちゃんが怒ってたのは、怒ってるっておれに認識させてたのは、おれのことを大事に考えてくれてるからなんだって……ちゃんと思えたんだ)
悟の震えは、そこで止まる。
一度大きく呼吸すると、晴れた空を見上げた。
(きっと、ばあちゃんも…おれをどうあつかえばいいかわかんなかったと思う。それでも、おれを壊さずにいてくれた。おれの存在を許してくれた。それはあの時だけじゃない、今もなんだ)
重々しい感情が、少しずつ別のものへと変わる。
それとともに、心で発する声の色も変わっていく。
(ばあちゃんには本当に、ありがとうって伝えたい…)
その時だった。
”…殺ス……!”
悟が言葉にしようとしたものとは、真逆の波動が。
すぐ近くから放たれる。
「うおっ!?」
波動は悟を跳ね飛ばした。
あまりに強い衝撃が、彼の手と脇を強制的に開かせる。
左手に持っていた神器『炎の指輪』と、右脇に抱えていた魔人の左手が宙を舞った。
(な…)
”なんだ!?”
ふたりはほぼ同時に声をあげた。
悟は翼を使い、あわてて体勢を立て直す。
しかし失ったものには手が届かない。
一瞬のうちに、10メートル以上も飛ばされてしまっていた。
宙を舞った魔人の左手が、白い枠線で囲まれた巨大な手に触れると同時に消える。
つい先ほどまでそこにあったはずの魔人の体は、すべて消えていた。
これを見たシロが、鋭い声で報告する。
”『偽』です! 『邪黒冥王・偽』が、魔人の体を吸収しました!”
”なんだと!? デカブツがなんで今ごろ…!”
(『偽』…!)
悟は左手に『天羽々斬』、右手に『天叢雲』を出現させる。
その時、『偽』を中心とする波動が再び発生した。
”誰デモ、イイ…! 殺ス……!”
「うぐっ!」
波動に触れることで感じるのは、憎悪。
声というよりは、思念を含んだ空気の振動といった方が近い。
”死ニタイ…死ニタクナイ……羨マシイ…ィイイッ!”
憎悪に嫉妬が加わり、波動はさらに強まる。
『偽』の足元にあるものが吹き上がり、残骸がぶつかり合う。
この時、地上にあった魔人の下半身から触手が現れた。
それは『偽』に向かって伸びる。
「なっ!? なんだあれっ!」
「くううっ、届かない…!」
晶たちはそれに気づくも、波動が凄まじく動くことすらできない。
『偽』の足に触手が触れると、それは中に取り込まれる。
それだけでなく、ワイヤーを巻き取るように触手の発生元である魔人の下半身を宙に浮かせた。
波動が巻き起こす嵐の中心へと、魔人の下半身が飛ぶ。
『偽』の足に接触すると、触手と同じく中に取り込まれてしまった。
やがて『偽』が青紫色に染まる。
それまで透明だった巨体が、誰の目にも明らかになった。
”ガァアアアアアアアッ!”
新たに生まれた何かが、咆哮でその存在を誇示する。
魔人と『偽』が合わさったそれは、体を一度大きく震わせると悟にその顔を向けた。
顔に無数の目とひとつの口を作り上げ、開く。
”誰でもいい、殺してやる! 俺は生きたい! 俺は死にたいんだぁああああああああッ!”
恨み言とともに、口から白色のエネルギー弾を放つ。
それは真っ直ぐに飛び、悟に襲いかかるのだった。
>Act.225へ続く
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