【本編】episode57 初恋にさよならを
episode57 初恋にさよならを
玲央菜は丸太の家を出た。
来た時と同じように、紫苑とともにマイクロバスに乗って、チャーター機のある滑走路へと向かった。
「…アンタねぇ…」
マイクロバスの最後尾、横に長くつながってソファのようになっている座席に座りながら、紫苑は顔をしかめて言った。
「いちいち黒服連中に謝ってんじゃないわよ。ただでさえ遅い時間が、さらに遅くなるでしょうが」
「す、すいません…やっぱりちょっと申し訳ないなって思って」
「こういう時のために手当はちゃんと出してあるから、アンタが気にしなくてもいいのよ」
「紫苑さんはそうでしょうけど、ボクは…お世話になってるだけなんで」
「…めんどくさいわね、貧乏人のクセに」
「ボクもそう思います」
隣に座った玲央菜はそう言って、てへへと笑った。
紫苑は一瞬その顔をじっと見ていたが、やがて顔を赤くしてそっぽを向く。
その行動に、玲央菜は不思議そうに尋ねた。
「どうしたんですか、紫苑さん?」
「うるさいわね…アンタの顔見てると、さっきのこと思い出すのよ」
「さっき…あ、ご結婚おめでとうございます、ふふっ」
「この…!」
からかうんじゃない、と紫苑は振り返ったが、その時に玲央菜の笑顔を見てしまって、恥ずかしくなってまたそっぽを向く。
そして紫苑は、しばらくしてため息をついた。
「この私が…ヤキが回ったもんね。アンタなんかに手玉に取られるなんて」
「ボクもびっくりです。まさか紫苑さんが、そこまで雅人さんのことを好きだなんて」
「…好きってわけじゃないわ。気楽なのよ」
そう言った紫苑の顔から、焦りの色が消える。
何かを考えるような表情をしつつ、玲央菜の方へ向き直った。
「アイツはなんでも私の言うとおりにする…かと思ったら、間違ってることは間違ってるって私にだけはっきり言うの。他の皇家の連中にはてんで何も言えないクセに」
「へぇ…」
「あとは、私の好みとかいろいろわかってるし、なんていうのかリラックスするのよ。アイツだけは絶対に、私を裏切らないってわかるから」
「雅人さん『だけは』って…」
「アイツが私のこと話してたでしょ? 私は若い頃から…それこそアンタくらいの歳の頃には、もう皇の家で戦ってたの」
紫苑はそう言いながら、背筋を伸ばしつつ前を見る。
長い脚を組んで、厳しい表情になった。
「親戚はすべて敵だし、何百億何千億、時には兆って金も動くから、それこそ裏切り談合なんでもアリなの。だけど私は、お兄さまと入れ替わりに本家に入ることが決まった時から、覚悟を決めてたわ」
「なんでも、アリ…」
「そうよ。アンタとこうして話してるみたいに仲良くなれたかと思ったら、10分後には敵、なんてこともよくあったわ」
「え、10分後ですか!? 日も変わらないうちに…?」
「言っとくけど、例え話じゃなくて本当にそうだからね。金と権力がかかれば、人間はなんだってするしなんだってできるのよ…アンタだってわかったもんじゃないわ」
「え…ぼ、ボクは、お金とか権力とかよくわかんないから、そういうことはないですよ~」
玲央菜はそう言って苦笑してみせる。
まさか自分が例に出されるとは思わず、何を言っているのかと若干おちゃらけていた。
だが、紫苑は彼女を見ないままこう続ける。
「もし、私を今殺さなければ、お兄さまと榊が殺される…そう脅されても、同じ顔をしていられるかしら」
「…え?」
「私に接触してくる人間は、何も悪い人間ばかりじゃないわ。いい人間であっても、事情によって悪いことをしなきゃならない…そういう人間も含まれてるのよ」
「紫苑さん…」
玲央菜の顔が神妙なものに変わった。
それを横目で確認した紫苑は、前を向いたままフッと笑う。
「まあとにかく、そういう戦いをずっとしてきたわけ。いわゆる普通の『女の幸せ』なんてまったく縁がなかったわ。だけど、お兄さまの役に立ててるって思うだけで私は幸せだったのよ」
「……」
玲央菜は言葉を失う。
紫苑の覚悟が、自分が思っていたものよりも凄まじいものだったことに、驚きを隠しきれない。
子どもの頃から陰謀まみれの大人たちを相手に、彼女はたったひとりでひるむことなく戦ってきた。
その心の拠り所が、いつ会えるのかもわからない天馬の存在であったのだという。
雅人や紫苑の話を聞いて、大体のことはわかっているつもりだったが、紫苑自身の思いを聞いてしまうと、自分は何もわかっていなかったのではないか…玲央菜はそう思った。
「…? どうしたの?」
紫苑はふと玲央菜に尋ねる。
彼女の表情が、神妙なものを通り越して泣きそうになっているのを見て、不思議に思ったようだ。
「もともとブサイクな顔が、もっとブサイクになってるわよ」
「…ブサイクでごめんなさい。でも…ボク、なんか、わかってなかったなって思って」
「なにそれ?」
紫苑は小さく笑う。
だが、その声にはトゲがない。
紫苑は玲央菜から目を離し、窓から夜の森を見つつ話を続けた。
「そうね…初恋、だったのかもね。お兄さまは」
「…え?」
「初恋の人をいつまでも想い続けて、『私は義理の妹だ』…『義理の』とか強調しちゃって。ふふっ」
紫苑はそう言いつつ、また前へ視線を移す。
チラリと玲央菜を見た。
「今思えば、私も相当イタい女だったわね」
「そんなこと…ないと思います」
「いいえ、イタい女よ。本来の私から考えれば、あり得ないくらいのイタさだわ」
「そんなことないです」
「なんでアンタがムキになるのよ」
「だって…だって、なんか…初恋って、イタいとかイタくないとか、そういうんじゃないと思うんです」
「それはアンタの考え方でしょ。大丈夫、別にそのことを恥じているとかじゃないから」
紫苑はそう言って、優しく微笑んだ。
だが照れがあるのか、その笑顔を玲央菜に向けることはなかった。
それからしばらくして、マイクロバスは滑走路に到着した。
黒服や整備士たちがあわただしく準備をする中を、紫苑と玲央菜、そして世話をする黒服たちがチャーター機へと向かう。
来た時とはちがい、雪は降っていなかった。
黒というよりも、藍色を何度も塗り重ねたような夜空に、星がいくつも瞬いていた。
チャーター機へ乗り込んだ玲央菜たちは、自然と隣同士に座る。
無理やり連れてこられた当初より、ふたりの距離は縮まっていた。
やがてチャーター機は飛び立ち、玲央菜たちはアメリカの地をあとにする。
「…最初は、紫苑さんひどいと思ってたけど、今は…来てよかったと思います。アメリカ」
玲央菜は、小さくなっていく木々を見ながらそう言った。
対して紫苑は、あまり興味なさげに返す。
「そう、それはよかったわね」
その言葉があまりにそっけないので、玲央菜は目だけでちらりと紫苑を見た。
だが体勢が窓側にしっかり向いていたので、それだけでは紫苑の表情を見ることができない。
玲央菜は紫苑の方を向いて、じっとその顔を見ながら尋ねる。
「紫苑さんはどうでしたか?」
「…まあ、悪くはなかったんじゃない?」
「ちゃんと答えてくださいよ」
「そんな義理はないわ」
「あ、『義理の妹』だけに?」
「…ぶっ飛ばされたいのかしら」
「あっ、それはカンベンしてください。あはは」
「ふふっ」
玲央菜が笑い、紫苑も笑った。
暖房だけでなく、彼女たちを中心としたあたたかな雰囲気も、機内を優しくあたためていた。
それからしばらくして、玲央菜は眠ってしまった。
CAから毛布を受け取り、紫苑がそれを彼女にかけてやる。
自身のその行動に、ふと彼女は思った。
「なんか…妹ができたみたいね、これ」
「ぐぅ」
紫苑の言葉に、玲央菜はタイミングよく寝息で応える。
それに紫苑は思わず小さく笑い、人差し指でその頬をつついた。
「私の妹にしては、出来が悪すぎではあるけど…まあ、許しといてあげるわ」
「んむ、むぅ」
「ふふ、これおもしろいわね」
「んんん…」
ぷにぷにと頬をつつかれ、玲央菜は顔をしかめるが起きない。
紫苑はしばらく、飽きるまで彼女をつつき続けていた。
それから数時間後、チャーター機は日付変更線を越え、さらに太平洋を越えて日本へ帰ってきた。
そこからは車に乗り、空港からしばらく走って玲央菜はようやく、住良木の家に帰ることができた。
「ただいまかえりました!」
「おかえり、玲央菜ちゃん!」
「よく戻りました、柊 玲央菜」
ドアを開けると、天馬と榊が玲央菜を迎えた。
彼女がめいっぱいの笑顔を返すと、ふたりは安心した様子で互いを見た。
その後で、同行してきた紫苑を同時に見る。
紫苑は、天馬をまっすぐ見つめてこう言った。
「大事な話があるの、お兄さま」
「…わかった」
そして全員でリビングへと向かった。
席につくと、榊が紫苑に尋ねる。
「お食事はどういたしますか」
「いらないわ。飲み物だけ…そうね、紅茶を」
「かしこまりました」
「あっ、ボクやります」
玲央菜はそう言って立ち上がろうとする。
だが、榊がそれをそっと手で制した。
帰ってきたばかりの彼女を慮っての行動に、玲央菜も素直に従う。
その時に見せた照れ笑いのような笑顔に、榊も小さく微笑んでみせた。
「…あれ…?」
一方、天馬は不思議そうな顔で紫苑と玲央菜を見る。
ふたりの位置取りが、彼にとっては意外だった。
大きなソファのど真ん中に紫苑が座っている。
これはよくわかる。彼女らしくもある。
だがその隣に、玲央菜がちょこんと座っていた。
その様子に、彼はふたりに問う。
「キミたち、そんなに仲良かったっけ?」
「ちょっと、いろいろあったんです」
玲央菜が笑顔でそう答えると、紫苑は露骨に嫌そうな顔をした。
「別に何もないわ。勘違いしないでほしいわね」
「えぇ!? 何もなかったんですか、ボクたち」
「その言い方は少しおかしいわね? いたらない誤解を招くのも困るし、やめてくれる?」
「いたらない誤解って、どんな誤解ですか? うふふ」
「なんなのよ…突然ウザキャラになっちゃって…」
紫苑はそう言ってため息をついた。
ちょうどその頃、榊が紅茶を人数分持ってきた。
ソファに囲まれたテーブルにそれを置くと、キッチンへと退こうとする。
それを紫苑が止めた。
「待って、榊も聞いてちょうだい。大事なことだから」
「…かしこまりました」
榊は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに元の真面目な表情へと戻った。
天馬のそばに立ち、紫苑の言葉を待つ。
紫苑は、出された紅茶をそっと飲んだ。
口の中で味わい、飲み込み、鼻に抜ける香りを堪能する。
その後で、なぜか深呼吸をした。
天馬は思わず声をかけようとしたが、直後に見せた紫苑の真剣な表情を見て言葉を飲み込む。
紫苑は、じっと天馬を見た。
そしてついに口を開く。
「お兄さま」
「…なんだい」
「………」
紫苑の言葉は途切れた。
言おうとするのだが、言葉が口から出てこない。
彼女は一度、忌々しそうに首を横に振った。
それからもう一度深呼吸をして、天馬に話しかける。
「お兄さま、私…」
「……」
天馬は声を出さず、ただうなずきを返す。
自分が声を出すことで、紫苑の言葉を奪ってしまわないようにと彼は考えたようだ。
そんな彼の気持ちがわかるのか、紫苑はどうにか心を踏ん張らせて次の言葉を口にする。
「……私…!」
だが出てきたのは新たな言葉ではなかった。
そこから先へ、紫苑は進むことができない。
その時、隣にいた玲央菜が、彼女の手をそっと握った。
彼女はそれでハッとして、玲央菜の方を見る。
目と目があったふたりはうなずき合い、紫苑はもう一度天馬を見た。
だが、天馬を見た瞬間、紫苑の瞳から突然大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…紫苑……?」
義妹のただならぬ様子に、天馬は思わず声を出す。
その心配げな顔を見た紫苑は、これまで見せていた真剣でこわばった表情を消し、優しく微笑んだ。
そして、当初は言おうと思っていなかったであろう言葉が、その艶やかな唇から紡がれる。
「お兄さまは…本当に優しくて、皇の本家の…しかも嫡子なのに全然気取らなくて…」
「………」
天馬は黙って聞いている。
紫苑は微笑んだまま、さらに言葉を紡いだ。
「お兄さまの代わりに本家に入る私を…いつかは誰かの操り人形になる運命だった私を、心から心配してくれた」
「……」
「私にとって、お兄さまは本当に、例えでもなんでもなく…王子さまだったわ。幼い頃、たった数日顔合わせをしただけ、とても短い時間だったけれど…」
「………」
「私が恋に落ちるには、充分な時間でした」
紫苑の瞳からは、あとからあとから涙があふれている。
それを拭うこともせずに、彼女は天馬に想いを打ち明けた。
「お兄さまとの時間があったから、私はがんばれました。持てるすべての能力を使って、本家の財政も盛り返すことができた…お兄さまのためにがんばるという気持ちがなかったら、とても大人たちとは戦えなかった」
「紫苑…」
「お兄さまのおかげで、私は操り人形になる運命を、自分で壊すことができたんです。あの時間があったから、私は今こうして無事に生きていられる…」
紫苑は少しだけうつむきかける。
自分の手を包んだ玲央菜の手を、強く握り込んでいる。
胸の奥のたかぶりが、彼女をふるわせる。
だがそれを上回る想いを動員して、言葉を続けた。
「お兄さま…本当に、たいせつな、たいせつな…お兄さま……私、紫苑は、お兄さまを心から愛しています」
「……うん…俺もそれは…」
「いいえ、お兄さま。同じなどではありませんわ。そんな残酷なこと、言わないでください」
紫苑は顔を上げ、絞り出すように言った。
その語気におされ、天馬は何も言えなくなる。
「………」
紫苑は、その姿を見て小さく苦笑した。
その頃には、涙の勢いも止まっていた。
彼女は、ここでついに決定的な言葉を天馬に告げる。
「お兄さま…私、結婚します」
「…え!」
「何度か話したでしょう? あの雅人と…私は結婚します」
「紫苑…」
天馬は何かを言おうとする。
それをわかっている紫苑は、彼が言う前にこう言った。
「大丈夫、変なしがらみとか脅されたりとか、そういうことじゃなくて…ちゃんとした関係だから」
「そ…そうなのか。でもまさか、お前が…雅人と結婚だなんて」
「私もね、まだそのつもりはなかったのよ」
紫苑は、ポケットからハンカチを取り出す。
それで涙を拭った後で、玲央菜を指差した。
「だけど、このポンコツ玲央菜が余計なことを言ってくれたおかげで、結婚が決まっちゃったわ」
「え、えぇ…?」
天馬は驚いて玲央菜を見る。
彼女は少し困ったように笑っていた。
紫苑はさらに続ける。
「詳しいことはまた話すけど…今回は結婚が決まったこと、決めたことを報告しに来たの。お兄さまにもちゃんと祝ってほしいから、覚悟はしておいてね?」
「覚悟っていうのはよくわかんないけど…う、うん、お祝いはさせてもらう…けどびっくりだな」
「ふふ、それも当然だと思うわ。そもそも私自身が驚いてるくらいだもの。だけど…」
紫苑は、玲央菜とつないだ手をまた強く握る。
そしてどこか晴れやかな顔で、天馬にこう言った。
「きっとこれでよかったのね。言ってから、そう思ったわ」
「…おめでとう、紫苑」
「ありがとう、お兄さま」
天馬と紫苑は、互いにそっと言葉を交わす。
この時、紫苑の瞳から、最後の涙が頬を伝って落ちていった。
>episode58へ続く
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玲央菜は丸太の家を出た。
来た時と同じように、紫苑とともにマイクロバスに乗って、チャーター機のある滑走路へと向かった。
「…アンタねぇ…」
マイクロバスの最後尾、横に長くつながってソファのようになっている座席に座りながら、紫苑は顔をしかめて言った。
「いちいち黒服連中に謝ってんじゃないわよ。ただでさえ遅い時間が、さらに遅くなるでしょうが」
「す、すいません…やっぱりちょっと申し訳ないなって思って」
「こういう時のために手当はちゃんと出してあるから、アンタが気にしなくてもいいのよ」
「紫苑さんはそうでしょうけど、ボクは…お世話になってるだけなんで」
「…めんどくさいわね、貧乏人のクセに」
「ボクもそう思います」
隣に座った玲央菜はそう言って、てへへと笑った。
紫苑は一瞬その顔をじっと見ていたが、やがて顔を赤くしてそっぽを向く。
その行動に、玲央菜は不思議そうに尋ねた。
「どうしたんですか、紫苑さん?」
「うるさいわね…アンタの顔見てると、さっきのこと思い出すのよ」
「さっき…あ、ご結婚おめでとうございます、ふふっ」
「この…!」
からかうんじゃない、と紫苑は振り返ったが、その時に玲央菜の笑顔を見てしまって、恥ずかしくなってまたそっぽを向く。
そして紫苑は、しばらくしてため息をついた。
「この私が…ヤキが回ったもんね。アンタなんかに手玉に取られるなんて」
「ボクもびっくりです。まさか紫苑さんが、そこまで雅人さんのことを好きだなんて」
「…好きってわけじゃないわ。気楽なのよ」
そう言った紫苑の顔から、焦りの色が消える。
何かを考えるような表情をしつつ、玲央菜の方へ向き直った。
「アイツはなんでも私の言うとおりにする…かと思ったら、間違ってることは間違ってるって私にだけはっきり言うの。他の皇家の連中にはてんで何も言えないクセに」
「へぇ…」
「あとは、私の好みとかいろいろわかってるし、なんていうのかリラックスするのよ。アイツだけは絶対に、私を裏切らないってわかるから」
「雅人さん『だけは』って…」
「アイツが私のこと話してたでしょ? 私は若い頃から…それこそアンタくらいの歳の頃には、もう皇の家で戦ってたの」
紫苑はそう言いながら、背筋を伸ばしつつ前を見る。
長い脚を組んで、厳しい表情になった。
「親戚はすべて敵だし、何百億何千億、時には兆って金も動くから、それこそ裏切り談合なんでもアリなの。だけど私は、お兄さまと入れ替わりに本家に入ることが決まった時から、覚悟を決めてたわ」
「なんでも、アリ…」
「そうよ。アンタとこうして話してるみたいに仲良くなれたかと思ったら、10分後には敵、なんてこともよくあったわ」
「え、10分後ですか!? 日も変わらないうちに…?」
「言っとくけど、例え話じゃなくて本当にそうだからね。金と権力がかかれば、人間はなんだってするしなんだってできるのよ…アンタだってわかったもんじゃないわ」
「え…ぼ、ボクは、お金とか権力とかよくわかんないから、そういうことはないですよ~」
玲央菜はそう言って苦笑してみせる。
まさか自分が例に出されるとは思わず、何を言っているのかと若干おちゃらけていた。
だが、紫苑は彼女を見ないままこう続ける。
「もし、私を今殺さなければ、お兄さまと榊が殺される…そう脅されても、同じ顔をしていられるかしら」
「…え?」
「私に接触してくる人間は、何も悪い人間ばかりじゃないわ。いい人間であっても、事情によって悪いことをしなきゃならない…そういう人間も含まれてるのよ」
「紫苑さん…」
玲央菜の顔が神妙なものに変わった。
それを横目で確認した紫苑は、前を向いたままフッと笑う。
「まあとにかく、そういう戦いをずっとしてきたわけ。いわゆる普通の『女の幸せ』なんてまったく縁がなかったわ。だけど、お兄さまの役に立ててるって思うだけで私は幸せだったのよ」
「……」
玲央菜は言葉を失う。
紫苑の覚悟が、自分が思っていたものよりも凄まじいものだったことに、驚きを隠しきれない。
子どもの頃から陰謀まみれの大人たちを相手に、彼女はたったひとりでひるむことなく戦ってきた。
その心の拠り所が、いつ会えるのかもわからない天馬の存在であったのだという。
雅人や紫苑の話を聞いて、大体のことはわかっているつもりだったが、紫苑自身の思いを聞いてしまうと、自分は何もわかっていなかったのではないか…玲央菜はそう思った。
「…? どうしたの?」
紫苑はふと玲央菜に尋ねる。
彼女の表情が、神妙なものを通り越して泣きそうになっているのを見て、不思議に思ったようだ。
「もともとブサイクな顔が、もっとブサイクになってるわよ」
「…ブサイクでごめんなさい。でも…ボク、なんか、わかってなかったなって思って」
「なにそれ?」
紫苑は小さく笑う。
だが、その声にはトゲがない。
紫苑は玲央菜から目を離し、窓から夜の森を見つつ話を続けた。
「そうね…初恋、だったのかもね。お兄さまは」
「…え?」
「初恋の人をいつまでも想い続けて、『私は義理の妹だ』…『義理の』とか強調しちゃって。ふふっ」
紫苑はそう言いつつ、また前へ視線を移す。
チラリと玲央菜を見た。
「今思えば、私も相当イタい女だったわね」
「そんなこと…ないと思います」
「いいえ、イタい女よ。本来の私から考えれば、あり得ないくらいのイタさだわ」
「そんなことないです」
「なんでアンタがムキになるのよ」
「だって…だって、なんか…初恋って、イタいとかイタくないとか、そういうんじゃないと思うんです」
「それはアンタの考え方でしょ。大丈夫、別にそのことを恥じているとかじゃないから」
紫苑はそう言って、優しく微笑んだ。
だが照れがあるのか、その笑顔を玲央菜に向けることはなかった。
それからしばらくして、マイクロバスは滑走路に到着した。
黒服や整備士たちがあわただしく準備をする中を、紫苑と玲央菜、そして世話をする黒服たちがチャーター機へと向かう。
来た時とはちがい、雪は降っていなかった。
黒というよりも、藍色を何度も塗り重ねたような夜空に、星がいくつも瞬いていた。
チャーター機へ乗り込んだ玲央菜たちは、自然と隣同士に座る。
無理やり連れてこられた当初より、ふたりの距離は縮まっていた。
やがてチャーター機は飛び立ち、玲央菜たちはアメリカの地をあとにする。
「…最初は、紫苑さんひどいと思ってたけど、今は…来てよかったと思います。アメリカ」
玲央菜は、小さくなっていく木々を見ながらそう言った。
対して紫苑は、あまり興味なさげに返す。
「そう、それはよかったわね」
その言葉があまりにそっけないので、玲央菜は目だけでちらりと紫苑を見た。
だが体勢が窓側にしっかり向いていたので、それだけでは紫苑の表情を見ることができない。
玲央菜は紫苑の方を向いて、じっとその顔を見ながら尋ねる。
「紫苑さんはどうでしたか?」
「…まあ、悪くはなかったんじゃない?」
「ちゃんと答えてくださいよ」
「そんな義理はないわ」
「あ、『義理の妹』だけに?」
「…ぶっ飛ばされたいのかしら」
「あっ、それはカンベンしてください。あはは」
「ふふっ」
玲央菜が笑い、紫苑も笑った。
暖房だけでなく、彼女たちを中心としたあたたかな雰囲気も、機内を優しくあたためていた。
それからしばらくして、玲央菜は眠ってしまった。
CAから毛布を受け取り、紫苑がそれを彼女にかけてやる。
自身のその行動に、ふと彼女は思った。
「なんか…妹ができたみたいね、これ」
「ぐぅ」
紫苑の言葉に、玲央菜はタイミングよく寝息で応える。
それに紫苑は思わず小さく笑い、人差し指でその頬をつついた。
「私の妹にしては、出来が悪すぎではあるけど…まあ、許しといてあげるわ」
「んむ、むぅ」
「ふふ、これおもしろいわね」
「んんん…」
ぷにぷにと頬をつつかれ、玲央菜は顔をしかめるが起きない。
紫苑はしばらく、飽きるまで彼女をつつき続けていた。
それから数時間後、チャーター機は日付変更線を越え、さらに太平洋を越えて日本へ帰ってきた。
そこからは車に乗り、空港からしばらく走って玲央菜はようやく、住良木の家に帰ることができた。
「ただいまかえりました!」
「おかえり、玲央菜ちゃん!」
「よく戻りました、柊 玲央菜」
ドアを開けると、天馬と榊が玲央菜を迎えた。
彼女がめいっぱいの笑顔を返すと、ふたりは安心した様子で互いを見た。
その後で、同行してきた紫苑を同時に見る。
紫苑は、天馬をまっすぐ見つめてこう言った。
「大事な話があるの、お兄さま」
「…わかった」
そして全員でリビングへと向かった。
席につくと、榊が紫苑に尋ねる。
「お食事はどういたしますか」
「いらないわ。飲み物だけ…そうね、紅茶を」
「かしこまりました」
「あっ、ボクやります」
玲央菜はそう言って立ち上がろうとする。
だが、榊がそれをそっと手で制した。
帰ってきたばかりの彼女を慮っての行動に、玲央菜も素直に従う。
その時に見せた照れ笑いのような笑顔に、榊も小さく微笑んでみせた。
「…あれ…?」
一方、天馬は不思議そうな顔で紫苑と玲央菜を見る。
ふたりの位置取りが、彼にとっては意外だった。
大きなソファのど真ん中に紫苑が座っている。
これはよくわかる。彼女らしくもある。
だがその隣に、玲央菜がちょこんと座っていた。
その様子に、彼はふたりに問う。
「キミたち、そんなに仲良かったっけ?」
「ちょっと、いろいろあったんです」
玲央菜が笑顔でそう答えると、紫苑は露骨に嫌そうな顔をした。
「別に何もないわ。勘違いしないでほしいわね」
「えぇ!? 何もなかったんですか、ボクたち」
「その言い方は少しおかしいわね? いたらない誤解を招くのも困るし、やめてくれる?」
「いたらない誤解って、どんな誤解ですか? うふふ」
「なんなのよ…突然ウザキャラになっちゃって…」
紫苑はそう言ってため息をついた。
ちょうどその頃、榊が紅茶を人数分持ってきた。
ソファに囲まれたテーブルにそれを置くと、キッチンへと退こうとする。
それを紫苑が止めた。
「待って、榊も聞いてちょうだい。大事なことだから」
「…かしこまりました」
榊は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに元の真面目な表情へと戻った。
天馬のそばに立ち、紫苑の言葉を待つ。
紫苑は、出された紅茶をそっと飲んだ。
口の中で味わい、飲み込み、鼻に抜ける香りを堪能する。
その後で、なぜか深呼吸をした。
天馬は思わず声をかけようとしたが、直後に見せた紫苑の真剣な表情を見て言葉を飲み込む。
紫苑は、じっと天馬を見た。
そしてついに口を開く。
「お兄さま」
「…なんだい」
「………」
紫苑の言葉は途切れた。
言おうとするのだが、言葉が口から出てこない。
彼女は一度、忌々しそうに首を横に振った。
それからもう一度深呼吸をして、天馬に話しかける。
「お兄さま、私…」
「……」
天馬は声を出さず、ただうなずきを返す。
自分が声を出すことで、紫苑の言葉を奪ってしまわないようにと彼は考えたようだ。
そんな彼の気持ちがわかるのか、紫苑はどうにか心を踏ん張らせて次の言葉を口にする。
「……私…!」
だが出てきたのは新たな言葉ではなかった。
そこから先へ、紫苑は進むことができない。
その時、隣にいた玲央菜が、彼女の手をそっと握った。
彼女はそれでハッとして、玲央菜の方を見る。
目と目があったふたりはうなずき合い、紫苑はもう一度天馬を見た。
だが、天馬を見た瞬間、紫苑の瞳から突然大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…紫苑……?」
義妹のただならぬ様子に、天馬は思わず声を出す。
その心配げな顔を見た紫苑は、これまで見せていた真剣でこわばった表情を消し、優しく微笑んだ。
そして、当初は言おうと思っていなかったであろう言葉が、その艶やかな唇から紡がれる。
「お兄さまは…本当に優しくて、皇の本家の…しかも嫡子なのに全然気取らなくて…」
「………」
天馬は黙って聞いている。
紫苑は微笑んだまま、さらに言葉を紡いだ。
「お兄さまの代わりに本家に入る私を…いつかは誰かの操り人形になる運命だった私を、心から心配してくれた」
「……」
「私にとって、お兄さまは本当に、例えでもなんでもなく…王子さまだったわ。幼い頃、たった数日顔合わせをしただけ、とても短い時間だったけれど…」
「………」
「私が恋に落ちるには、充分な時間でした」
紫苑の瞳からは、あとからあとから涙があふれている。
それを拭うこともせずに、彼女は天馬に想いを打ち明けた。
「お兄さまとの時間があったから、私はがんばれました。持てるすべての能力を使って、本家の財政も盛り返すことができた…お兄さまのためにがんばるという気持ちがなかったら、とても大人たちとは戦えなかった」
「紫苑…」
「お兄さまのおかげで、私は操り人形になる運命を、自分で壊すことができたんです。あの時間があったから、私は今こうして無事に生きていられる…」
紫苑は少しだけうつむきかける。
自分の手を包んだ玲央菜の手を、強く握り込んでいる。
胸の奥のたかぶりが、彼女をふるわせる。
だがそれを上回る想いを動員して、言葉を続けた。
「お兄さま…本当に、たいせつな、たいせつな…お兄さま……私、紫苑は、お兄さまを心から愛しています」
「……うん…俺もそれは…」
「いいえ、お兄さま。同じなどではありませんわ。そんな残酷なこと、言わないでください」
紫苑は顔を上げ、絞り出すように言った。
その語気におされ、天馬は何も言えなくなる。
「………」
紫苑は、その姿を見て小さく苦笑した。
その頃には、涙の勢いも止まっていた。
彼女は、ここでついに決定的な言葉を天馬に告げる。
「お兄さま…私、結婚します」
「…え!」
「何度か話したでしょう? あの雅人と…私は結婚します」
「紫苑…」
天馬は何かを言おうとする。
それをわかっている紫苑は、彼が言う前にこう言った。
「大丈夫、変なしがらみとか脅されたりとか、そういうことじゃなくて…ちゃんとした関係だから」
「そ…そうなのか。でもまさか、お前が…雅人と結婚だなんて」
「私もね、まだそのつもりはなかったのよ」
紫苑は、ポケットからハンカチを取り出す。
それで涙を拭った後で、玲央菜を指差した。
「だけど、このポンコツ玲央菜が余計なことを言ってくれたおかげで、結婚が決まっちゃったわ」
「え、えぇ…?」
天馬は驚いて玲央菜を見る。
彼女は少し困ったように笑っていた。
紫苑はさらに続ける。
「詳しいことはまた話すけど…今回は結婚が決まったこと、決めたことを報告しに来たの。お兄さまにもちゃんと祝ってほしいから、覚悟はしておいてね?」
「覚悟っていうのはよくわかんないけど…う、うん、お祝いはさせてもらう…けどびっくりだな」
「ふふ、それも当然だと思うわ。そもそも私自身が驚いてるくらいだもの。だけど…」
紫苑は、玲央菜とつないだ手をまた強く握る。
そしてどこか晴れやかな顔で、天馬にこう言った。
「きっとこれでよかったのね。言ってから、そう思ったわ」
「…おめでとう、紫苑」
「ありがとう、お兄さま」
天馬と紫苑は、互いにそっと言葉を交わす。
この時、紫苑の瞳から、最後の涙が頬を伝って落ちていった。
>episode58へ続く
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