【本編】episode57 初恋にさよならを | 魔人の記

【本編】episode57 初恋にさよならを

episode57 初恋にさよならを


玲央菜は丸太の家を出た。
来た時と同じように、紫苑とともにマイクロバスに乗って、チャーター機のある滑走路へと向かった。

「…アンタねぇ…」

マイクロバスの最後尾、横に長くつながってソファのようになっている座席に座りながら、紫苑は顔をしかめて言った。

「いちいち黒服連中に謝ってんじゃないわよ。ただでさえ遅い時間が、さらに遅くなるでしょうが」

「す、すいません…やっぱりちょっと申し訳ないなって思って」

「こういう時のために手当はちゃんと出してあるから、アンタが気にしなくてもいいのよ」

「紫苑さんはそうでしょうけど、ボクは…お世話になってるだけなんで」

「…めんどくさいわね、貧乏人のクセに」

「ボクもそう思います」

隣に座った玲央菜はそう言って、てへへと笑った。
紫苑は一瞬その顔をじっと見ていたが、やがて顔を赤くしてそっぽを向く。

その行動に、玲央菜は不思議そうに尋ねた。

「どうしたんですか、紫苑さん?」

「うるさいわね…アンタの顔見てると、さっきのこと思い出すのよ」

「さっき…あ、ご結婚おめでとうございます、ふふっ」

「この…!」

からかうんじゃない、と紫苑は振り返ったが、その時に玲央菜の笑顔を見てしまって、恥ずかしくなってまたそっぽを向く。

そして紫苑は、しばらくしてため息をついた。

「この私が…ヤキが回ったもんね。アンタなんかに手玉に取られるなんて」

「ボクもびっくりです。まさか紫苑さんが、そこまで雅人さんのことを好きだなんて」

「…好きってわけじゃないわ。気楽なのよ」

そう言った紫苑の顔から、焦りの色が消える。
何かを考えるような表情をしつつ、玲央菜の方へ向き直った。

「アイツはなんでも私の言うとおりにする…かと思ったら、間違ってることは間違ってるって私にだけはっきり言うの。他の皇家の連中にはてんで何も言えないクセに」

「へぇ…」

「あとは、私の好みとかいろいろわかってるし、なんていうのかリラックスするのよ。アイツだけは絶対に、私を裏切らないってわかるから」

「雅人さん『だけは』って…」

「アイツが私のこと話してたでしょ? 私は若い頃から…それこそアンタくらいの歳の頃には、もう皇の家で戦ってたの」

紫苑はそう言いながら、背筋を伸ばしつつ前を見る。
長い脚を組んで、厳しい表情になった。

「親戚はすべて敵だし、何百億何千億、時には兆って金も動くから、それこそ裏切り談合なんでもアリなの。だけど私は、お兄さまと入れ替わりに本家に入ることが決まった時から、覚悟を決めてたわ」

「なんでも、アリ…」

「そうよ。アンタとこうして話してるみたいに仲良くなれたかと思ったら、10分後には敵、なんてこともよくあったわ」

「え、10分後ですか!? 日も変わらないうちに…?」

「言っとくけど、例え話じゃなくて本当にそうだからね。金と権力がかかれば、人間はなんだってするしなんだってできるのよ…アンタだってわかったもんじゃないわ」

「え…ぼ、ボクは、お金とか権力とかよくわかんないから、そういうことはないですよ~」

玲央菜はそう言って苦笑してみせる。
まさか自分が例に出されるとは思わず、何を言っているのかと若干おちゃらけていた。

だが、紫苑は彼女を見ないままこう続ける。

「もし、私を今殺さなければ、お兄さまと榊が殺される…そう脅されても、同じ顔をしていられるかしら」

「…え?」

「私に接触してくる人間は、何も悪い人間ばかりじゃないわ。いい人間であっても、事情によって悪いことをしなきゃならない…そういう人間も含まれてるのよ」

「紫苑さん…」

玲央菜の顔が神妙なものに変わった。
それを横目で確認した紫苑は、前を向いたままフッと笑う。

「まあとにかく、そういう戦いをずっとしてきたわけ。いわゆる普通の『女の幸せ』なんてまったく縁がなかったわ。だけど、お兄さまの役に立ててるって思うだけで私は幸せだったのよ」

「……」

玲央菜は言葉を失う。
紫苑の覚悟が、自分が思っていたものよりも凄まじいものだったことに、驚きを隠しきれない。

子どもの頃から陰謀まみれの大人たちを相手に、彼女はたったひとりでひるむことなく戦ってきた。
その心の拠り所が、いつ会えるのかもわからない天馬の存在であったのだという。

雅人や紫苑の話を聞いて、大体のことはわかっているつもりだったが、紫苑自身の思いを聞いてしまうと、自分は何もわかっていなかったのではないか…玲央菜はそう思った。

「…? どうしたの?」

紫苑はふと玲央菜に尋ねる。
彼女の表情が、神妙なものを通り越して泣きそうになっているのを見て、不思議に思ったようだ。

「もともとブサイクな顔が、もっとブサイクになってるわよ」

「…ブサイクでごめんなさい。でも…ボク、なんか、わかってなかったなって思って」

「なにそれ?」

紫苑は小さく笑う。
だが、その声にはトゲがない。

紫苑は玲央菜から目を離し、窓から夜の森を見つつ話を続けた。

「そうね…初恋、だったのかもね。お兄さまは」

「…え?」

「初恋の人をいつまでも想い続けて、『私は義理の妹だ』…『義理の』とか強調しちゃって。ふふっ」

紫苑はそう言いつつ、また前へ視線を移す。
チラリと玲央菜を見た。

「今思えば、私も相当イタい女だったわね」

「そんなこと…ないと思います」

「いいえ、イタい女よ。本来の私から考えれば、あり得ないくらいのイタさだわ」

「そんなことないです」

「なんでアンタがムキになるのよ」

「だって…だって、なんか…初恋って、イタいとかイタくないとか、そういうんじゃないと思うんです」

「それはアンタの考え方でしょ。大丈夫、別にそのことを恥じているとかじゃないから」

紫苑はそう言って、優しく微笑んだ。
だが照れがあるのか、その笑顔を玲央菜に向けることはなかった。

それからしばらくして、マイクロバスは滑走路に到着した。
黒服や整備士たちがあわただしく準備をする中を、紫苑と玲央菜、そして世話をする黒服たちがチャーター機へと向かう。

来た時とはちがい、雪は降っていなかった。
黒というよりも、藍色を何度も塗り重ねたような夜空に、星がいくつも瞬いていた。

チャーター機へ乗り込んだ玲央菜たちは、自然と隣同士に座る。
無理やり連れてこられた当初より、ふたりの距離は縮まっていた。

やがてチャーター機は飛び立ち、玲央菜たちはアメリカの地をあとにする。

「…最初は、紫苑さんひどいと思ってたけど、今は…来てよかったと思います。アメリカ」

玲央菜は、小さくなっていく木々を見ながらそう言った。
対して紫苑は、あまり興味なさげに返す。

「そう、それはよかったわね」

その言葉があまりにそっけないので、玲央菜は目だけでちらりと紫苑を見た。
だが体勢が窓側にしっかり向いていたので、それだけでは紫苑の表情を見ることができない。

玲央菜は紫苑の方を向いて、じっとその顔を見ながら尋ねる。

「紫苑さんはどうでしたか?」

「…まあ、悪くはなかったんじゃない?」

「ちゃんと答えてくださいよ」

「そんな義理はないわ」

「あ、『義理の妹』だけに?」

「…ぶっ飛ばされたいのかしら」

「あっ、それはカンベンしてください。あはは」

「ふふっ」

玲央菜が笑い、紫苑も笑った。
暖房だけでなく、彼女たちを中心としたあたたかな雰囲気も、機内を優しくあたためていた。

それからしばらくして、玲央菜は眠ってしまった。
CAから毛布を受け取り、紫苑がそれを彼女にかけてやる。

自身のその行動に、ふと彼女は思った。

「なんか…妹ができたみたいね、これ」

「ぐぅ」

紫苑の言葉に、玲央菜はタイミングよく寝息で応える。
それに紫苑は思わず小さく笑い、人差し指でその頬をつついた。

「私の妹にしては、出来が悪すぎではあるけど…まあ、許しといてあげるわ」

「んむ、むぅ」

「ふふ、これおもしろいわね」

「んんん…」

ぷにぷにと頬をつつかれ、玲央菜は顔をしかめるが起きない。
紫苑はしばらく、飽きるまで彼女をつつき続けていた。

それから数時間後、チャーター機は日付変更線を越え、さらに太平洋を越えて日本へ帰ってきた。
そこからは車に乗り、空港からしばらく走って玲央菜はようやく、住良木の家に帰ることができた。

「ただいまかえりました!」

「おかえり、玲央菜ちゃん!」

「よく戻りました、柊 玲央菜」

ドアを開けると、天馬と榊が玲央菜を迎えた。
彼女がめいっぱいの笑顔を返すと、ふたりは安心した様子で互いを見た。

その後で、同行してきた紫苑を同時に見る。
紫苑は、天馬をまっすぐ見つめてこう言った。

「大事な話があるの、お兄さま」

「…わかった」

そして全員でリビングへと向かった。
席につくと、榊が紫苑に尋ねる。

「お食事はどういたしますか」

「いらないわ。飲み物だけ…そうね、紅茶を」

「かしこまりました」

「あっ、ボクやります」

玲央菜はそう言って立ち上がろうとする。
だが、榊がそれをそっと手で制した。

帰ってきたばかりの彼女を慮っての行動に、玲央菜も素直に従う。
その時に見せた照れ笑いのような笑顔に、榊も小さく微笑んでみせた。

「…あれ…?」

一方、天馬は不思議そうな顔で紫苑と玲央菜を見る。
ふたりの位置取りが、彼にとっては意外だった。

大きなソファのど真ん中に紫苑が座っている。
これはよくわかる。彼女らしくもある。

だがその隣に、玲央菜がちょこんと座っていた。
その様子に、彼はふたりに問う。

「キミたち、そんなに仲良かったっけ?」

「ちょっと、いろいろあったんです」

玲央菜が笑顔でそう答えると、紫苑は露骨に嫌そうな顔をした。

「別に何もないわ。勘違いしないでほしいわね」

「えぇ!? 何もなかったんですか、ボクたち」

「その言い方は少しおかしいわね? いたらない誤解を招くのも困るし、やめてくれる?」

「いたらない誤解って、どんな誤解ですか? うふふ」

「なんなのよ…突然ウザキャラになっちゃって…」

紫苑はそう言ってため息をついた。
ちょうどその頃、榊が紅茶を人数分持ってきた。

ソファに囲まれたテーブルにそれを置くと、キッチンへと退こうとする。
それを紫苑が止めた。

「待って、榊も聞いてちょうだい。大事なことだから」

「…かしこまりました」

榊は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに元の真面目な表情へと戻った。
天馬のそばに立ち、紫苑の言葉を待つ。

紫苑は、出された紅茶をそっと飲んだ。
口の中で味わい、飲み込み、鼻に抜ける香りを堪能する。

その後で、なぜか深呼吸をした。
天馬は思わず声をかけようとしたが、直後に見せた紫苑の真剣な表情を見て言葉を飲み込む。

紫苑は、じっと天馬を見た。
そしてついに口を開く。

「お兄さま」

「…なんだい」

「………」

紫苑の言葉は途切れた。
言おうとするのだが、言葉が口から出てこない。

彼女は一度、忌々しそうに首を横に振った。
それからもう一度深呼吸をして、天馬に話しかける。

「お兄さま、私…」

「……」

天馬は声を出さず、ただうなずきを返す。
自分が声を出すことで、紫苑の言葉を奪ってしまわないようにと彼は考えたようだ。

そんな彼の気持ちがわかるのか、紫苑はどうにか心を踏ん張らせて次の言葉を口にする。

「……私…!」

だが出てきたのは新たな言葉ではなかった。
そこから先へ、紫苑は進むことができない。

その時、隣にいた玲央菜が、彼女の手をそっと握った。
彼女はそれでハッとして、玲央菜の方を見る。

目と目があったふたりはうなずき合い、紫苑はもう一度天馬を見た。
だが、天馬を見た瞬間、紫苑の瞳から突然大粒の涙がこぼれ落ちた。

「…紫苑……?」

義妹のただならぬ様子に、天馬は思わず声を出す。
その心配げな顔を見た紫苑は、これまで見せていた真剣でこわばった表情を消し、優しく微笑んだ。

そして、当初は言おうと思っていなかったであろう言葉が、その艶やかな唇から紡がれる。

「お兄さまは…本当に優しくて、皇の本家の…しかも嫡子なのに全然気取らなくて…」

「………」

天馬は黙って聞いている。
紫苑は微笑んだまま、さらに言葉を紡いだ。

「お兄さまの代わりに本家に入る私を…いつかは誰かの操り人形になる運命だった私を、心から心配してくれた」

「……」

「私にとって、お兄さまは本当に、例えでもなんでもなく…王子さまだったわ。幼い頃、たった数日顔合わせをしただけ、とても短い時間だったけれど…」

「………」

「私が恋に落ちるには、充分な時間でした」

紫苑の瞳からは、あとからあとから涙があふれている。
それを拭うこともせずに、彼女は天馬に想いを打ち明けた。

「お兄さまとの時間があったから、私はがんばれました。持てるすべての能力を使って、本家の財政も盛り返すことができた…お兄さまのためにがんばるという気持ちがなかったら、とても大人たちとは戦えなかった」

「紫苑…」

「お兄さまのおかげで、私は操り人形になる運命を、自分で壊すことができたんです。あの時間があったから、私は今こうして無事に生きていられる…」

紫苑は少しだけうつむきかける。
自分の手を包んだ玲央菜の手を、強く握り込んでいる。

胸の奥のたかぶりが、彼女をふるわせる。
だがそれを上回る想いを動員して、言葉を続けた。

「お兄さま…本当に、たいせつな、たいせつな…お兄さま……私、紫苑は、お兄さまを心から愛しています」

「……うん…俺もそれは…」

「いいえ、お兄さま。同じなどではありませんわ。そんな残酷なこと、言わないでください」

紫苑は顔を上げ、絞り出すように言った。
その語気におされ、天馬は何も言えなくなる。

「………」

紫苑は、その姿を見て小さく苦笑した。
その頃には、涙の勢いも止まっていた。

彼女は、ここでついに決定的な言葉を天馬に告げる。

「お兄さま…私、結婚します」

「…え!」

「何度か話したでしょう? あの雅人と…私は結婚します」

「紫苑…」

天馬は何かを言おうとする。
それをわかっている紫苑は、彼が言う前にこう言った。

「大丈夫、変なしがらみとか脅されたりとか、そういうことじゃなくて…ちゃんとした関係だから」

「そ…そうなのか。でもまさか、お前が…雅人と結婚だなんて」

「私もね、まだそのつもりはなかったのよ」

紫苑は、ポケットからハンカチを取り出す。
それで涙を拭った後で、玲央菜を指差した。

「だけど、このポンコツ玲央菜が余計なことを言ってくれたおかげで、結婚が決まっちゃったわ」

「え、えぇ…?」

天馬は驚いて玲央菜を見る。
彼女は少し困ったように笑っていた。

紫苑はさらに続ける。

「詳しいことはまた話すけど…今回は結婚が決まったこと、決めたことを報告しに来たの。お兄さまにもちゃんと祝ってほしいから、覚悟はしておいてね?」

「覚悟っていうのはよくわかんないけど…う、うん、お祝いはさせてもらう…けどびっくりだな」

「ふふ、それも当然だと思うわ。そもそも私自身が驚いてるくらいだもの。だけど…」

紫苑は、玲央菜とつないだ手をまた強く握る。
そしてどこか晴れやかな顔で、天馬にこう言った。

「きっとこれでよかったのね。言ってから、そう思ったわ」

「…おめでとう、紫苑」

「ありがとう、お兄さま」

天馬と紫苑は、互いにそっと言葉を交わす。
この時、紫苑の瞳から、最後の涙が頬を伝って落ちていった。


>episode58へ続く

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