【本編】episode50 雪のアメリカ | 魔人の記

【本編】episode50 雪のアメリカ

episode50 雪のアメリカ


紫苑のチャーター機は、アメリカの北西部にあるエリアに到着した。
玲央菜は眠そうな目をこすりながら体を起こす。

「…あ」

起きた後で、自分が眠っていたことと、CAが毛布をかけてくれたことに気づく。
スマートフォンは胸の前に持ったままで、ボタンを押して画面を明るくしても変わりはなかった。

「……あ、そうか」

スマートフォンなどの通信機器は、チャーター機内では『機内モード』に設定されている。
玲央菜はそのことも思い出し、変わりがない…つまり何の連絡もないのは、そのためだと理解した。

「玲央菜」

「はい…」

誰かに呼ばれて、ぼんやりとそちらを見る。
彼女の視線の先には、席を立って毛皮のコートをまとった紫苑がいた。

「…!」

紫苑の姿を目にするのとほぼ同時に、玲央菜の眠気は消し飛ぶ。
厳しい目で彼女をにらむのだが、当の本人はまったく意に介していない。

「降りるわよ。コートは用意してあるから、それを着ておきなさい」

「…コート?」

「そうよ。予報じゃ30度くらいだから」

「……え?」

紫苑が何を言っているのか、玲央菜には意味がわからない。
ふと気づくと、CAが玲央菜用のコートを手に、すぐそばでにこやかに待っていた。

「あ…す、すいません」

玲央菜は恐縮し、すぐに立ち上がってコートを受け取る。
それは毛皮で作られており、とても分厚くあたたかそうだった。

ただ、すでにあたたかい機内で着ると、当然ながら暑い。
玲央菜は、CAがわざわざ持ってきてくれたものだから着るには着たが、なぜ着なければならないのかがわからなかった。

「30度なのにコート…?」

「フフ」

玲央菜の疑問を鼻で笑いながら、紫苑は降り口へと歩いていく。
彼女はついていきながら窓をちらりと見たが、どの窓も暗く、外の景色を映してはいない。

「…?」

やはり意味がわからず、玲央菜は首をかしげた。
チャーター機の降り口が開かれようとしているのは、ちょうどそんな時だった。

「いいわ、開けて」

「はい!」

紫苑の声にCAが応え、何やら無線でどこかに連絡をとる。
その直後、重々しい音を短く響かせて、チャーター機のドアが開いた。

瞬間、ドアの隙間から凍った風が飛び込んでくる。

「わぁ!?」

その勢いと『痛さ』に、玲央菜は思わず声をあげてまぶたを閉じる。
自身のまぶたが作り出した闇の向こうで、紫苑の笑い声が聞こえた。

「フフフ、わぁ!? だって…いい反応」

そう言って、彼女は笑いながらチャーター機を降りた。
玲央菜はカチンときて、まぶたを開いて彼女についていこうとする。

その時、外の世界が目に入った。

「…え」

チャーター機の外は、一面の白世界だった。
銀世界というほど光はなく、灰色というほど汚れてもいない。

まさに、白い世界だった。
周囲を見回しながらも、玲央菜はここにいる唯一の知り合いである紫苑を追って、チャーター機を降りた。

するとすぐに、凍った空気が全身を包み込む。
機内にいる時は風だけが冷たかったのに、降りた今では空気そのものが凍っているように思えた。

「ちょっ…紫苑さん」

「何よ」

玲央菜の呼びかけに、紫苑はめんどうくさそうに反応する。
だが、彼女の顔は笑っていた。

玲央菜はまだ紫苑に追いついていないので、その笑い顔に気づかない。
気づかないままこう抗議した。

「すっごい寒いじゃないですか…これのどこか30度だっていうんですか」

「あら、私はウソなんかついてないわよ? これが30度…ええそうよ、間違いないわ」

「30度がこんなに寒いわけないじゃないですか。さすがのボクでも、暑いか寒いかくらいはわかります!」

「いいえ、アンタは何もわかっちゃいないわ。もちろんそれは、私が何も言わないせいもあるけどね」

「…え?」

紫苑の意外な言葉に、玲央菜の足が止まる。
ふと見ると、紫苑はピンヒールではなく、いつの間にかブーツを履いていた。

恐らく降りる前に履き替えていたのだろう。
だが玲央菜は、コート以外はさらわれた時そのままなので、そこから出た足が外気にさらされている。

「ほら、早く来なさい。アメリカの雪国で雪だるまになりたい、っていうのなら…そこでじっとしてるといいわ」

「…!」

紫苑の言い草に、玲央菜の眉がぴくりと動く。
彼女は何やらぶつぶつ言いながら、紫苑の背中を追いかけていった。

チャーター機が着陸したのは、およそ空港とは言い難い森の中の空き地のような場所だった。
空港として営業している場所ではなく、皇家が個人で所有する空港だった。

そのように説明されても、玲央菜には『個人所有の空港』という概念、考え方が理解できない。
ただ、この場所の存在を普通の人は誰も知らないのだろうな、ということだけはわかった。

その空港からマイクロバスに乗り、雪深い森の中を走っていく。
道路は車4台分ほどの幅があり、決してせまいものではなかったが、対向車らしきものは全く存在しなかった。

玲央菜はマイクロバスの一番後ろに乗るように黒服に頼まれ、それに従った。
本当のところは頼みではなく指示なのだが、黒服たちの態度は紫苑に対するそれにほぼ近い、従属を表に出したものだった。

「……」

玲央菜は正直、その空気があまり好きではなかった。
変に恐縮してしまっていた。

その反動なのかは自分でもわからなかったが、ソファのように横長の後部座席に紫苑が先に座っているのを見ると、なんだかとてもイライラした気持ちを覚えるようになっていた。

「…あのー…」

「出して」

玲央菜が話しかけたというのに、紫苑は彼女のことなど気にせず運転手に指示を出した。
運転手は迷うことなく、マイクロバスを発車させる。

「!」

玲央菜は発車の揺れを警戒して、すぐ近くにある椅子をつかんで両足を踏ん張る。

だが雪道の走り出しは初速が遅い。
車はほとんど揺れず、ゆっくりと動き始めた。

「……」

踏ん張ったのが無駄になったとわかると、玲央菜は一度息をついて足早に後部座席へと向かった。
紫苑から少し距離を開けて座ると、眉を釣り上げて彼女に問う。

「なんなんですか」

「何が?」

「いきなりさらったり、ボクをからかったり…一体何がしたいんですか」

「別にからかってるつもりはないわ」

「でもさっき…」

「オモチャにしてるだけよ」

「…あのですねぇ…!」

「どうでもいいけど、機内モード解除しなくていいの?」

「あ…!」

玲央菜は、紫苑に言われてようやくそのことに気づいた。
コートのポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、機内モードを解除する。

「……」

その様子を見て、紫苑はニヤリと笑った。
だが、玲央菜がスマートフォンの画面から目を離して顔を上げる瞬間、その笑顔を消す。

そしてとてもつまらなそうに、彼女にこう言った。

「ま、無理やりさらったのは謝ってあげるわ…ただ、その割にはよく寝てたみたいだけど」

「…あ、あれは…飛行機の中、あったかかったから、つい…」

機内モードを解除して、すぐに文句の続きを言ってやろうと思っていた玲央菜だったが、紫苑の言葉を聞いて思わず言いよどむ。

そんな彼女に、紫苑は容赦しなかった。

「豪胆なのは感心するけど、拉致した相手のすぐ前でいびきかいて寝るってのはねぇ…さすがに乙女としてどうなのかしら」

「い、いびきなんてかいてないです!」

「あら? アンタは寝てる自分のことがわかるの?」

「そ、それは…わかりませんけど、いびきはない…と、思います……思いたい」

「まあそうよね。女なら誰だって、しとやかに眠ってるものと信じたいわよね。信じるのは自由だわ、信じるのは、ね」

「…うぅ…」

寝ている間のいびきに関しては、確かに玲央菜には明確な反論材料がない。
だが、そもそもそんなものを律儀に探してやる必要もなかった。

恥ずかしさはあったが、話を変えるためにもここは恥ずかしがっている場合ではないと玲央菜は判断した。
無理やりに大きな声を出して、紫苑に問う。

「そ、そんなことはいいんです! それよりそろそろ教えてください、ボクをどこへつれていこうっていうんですか!」

「私がアンタをつれてきたかったのは、この国…アメリカよ」

紫苑は、急に神妙な表情でそう言った。
窓の外を一度見た後で、また玲央菜を見る。

「自由と平等の国、とか言いながら相変わらず白人至上主義が幅をきかせてて、他の国の人間にヤードポンド法とか華氏とかわけがわからない単位を押し付けてくる国よ」

「…え?」

「飛行機の中で、30度って私が言ったの…憶えてる?」

「え、ええ。すっごい雪ですけど」

「あれって華氏なのね」

「…かし?」

「そう。言い換えるとファーレンハイト。華氏30度は、摂氏で言うとマイナス1度くらい」

「あ、摂氏は聞いたことあります」

「そうよね、日本で普通に使われてるのは摂氏。でもここアメリカじゃ、華氏が普通に使われるの」

「なんでですか?」

「さあね。それがアメリカ人の感覚なんでしょ…それに、その感覚がどうとかいうつもりはないわ。そういうのを気にする立場でもないし」

「…まあ、そうでしょうけど」

紫苑が、細かい単位を気にする必要がないというのは、玲央菜も深く同意できた。
立ち居振る舞いはどうでも、紫苑が人の上に立つ人間というのは、玲央菜も理解せざるを得ない。

それほどまでに強烈なオーラともいうべきものが、紫苑からは放たれているように感じられた。
ただ、それと自分のことがつながっているとはどうにも理解できない。

だから彼女は素直に尋ねた。

「どうして、ここなんですか?」

「私は別に関係ないんだけど…アンタにとっては重要なことだと思ったのよ」

「え?」

「言っておくけど、このことはお兄さまも了承済みよ」

「天馬さまも…知ってるんですか?」

紫苑から、天馬と学校に連絡はしていると聞いていたが、天馬からはまさか了承までもらっているとは思わない玲央菜は、驚きの目で彼女を見る。

だが彼女は、玲央菜の驚きなどどこ吹く風、というたたずまいでこう返した。

「全部は伝えてないわ。お兄さまは変なところで生真面目だから、全部言ってしまうとこっちに来ちゃう可能性がある…それに、また責任を感じさせてしまうし」

「あ…」

紫苑の言葉に、玲央菜はなんとなく理解した。
天馬が、アメリカにまで来る責任を感じる…それはつまり、『悪魔化』に関することなのだと。

「…そういえば紫苑さん、飛行機に乗る前…言ってましたよね」

「義継おじさまのことね。そうよ、そのこと」

「そう、ですか…」

玲央菜は、自分の予測が当たったのを感じた。
だが特に嬉しさなどはない。

義継というのは玲央菜の実の祖父であり、2兆とも3兆ともいわれる金を出して『月の石』を買った人物だった。

彼の研究がもとで『月の石』から悪魔は生まれ、研究所にいた人間は天馬と榊を残して全員殺されてしまった。

それだけでなく、悪魔は天馬にとりついて、それから長年彼自身と榊を悩ませることになる。

「……」

不思議な縁としか言えないめぐり合わせにより、天馬にとりついた悪魔は義継の孫娘である玲央菜によって倒された。

それで天馬の悪魔化は完全になくなり、玲央菜としてもこれまで通りの生活が戻ってくるものと思っていたのだが…今はこうして紫苑につれさられ、アメリカの雪深い森の中にいる。

なんでも、紫苑はすべての元凶が義継ではないということを知ったらしい。
だが玲央菜にとっては、顔も知らない祖父のことなど、今さらどう考えたものかよくわからなかった。

血縁者として、天馬への責任は感じている。
だが感じたところで、自分にはもう何もできない。

というより、何をどうしろというのか?
そんな気持ちもそこそこある。

自分が仮初の両親に育てられたなどということも全く知らなかったし、いきなり事実を次々に放り込まれて、一体自分をどうしようというのか? 何をさせたいのか?

そんな、どこか怒りすらはらんだ疑問を、どうにかなだめすかすので精一杯だった。
玲央菜の心にはもう余裕がなかった。

紫苑に明確な怒りが向くのも、心に余裕がないせいだと玲央菜もどこかで気づいている。
だが気づいたところで、先回りして落ち着かせることはもうできなかった。

「……」

「………」

玲央菜はうつむき、紫苑はまた外を見ている。
沈黙がふたりの間をさまよう。

その時間はしばらく続いた。
降り続いていた雪はやがて止み、雲の切れ間から薄まった闇がのぞく。

そんな中、ふと玲央菜が声をあげた。

「…あ」

彼女は、スマートフォンが震えているのに気づいた。
見ると、留美からメールが届いている。

SNSアプリでのメッセージではなく、メールだった。
玲央菜は急いでその内容を確認する。

文面にはこうあった。

”柊さん、どうか無事でいてね”

短い文章だった。
絵文字の類はなかった。

「月島さん…」

友だちがさらわれる現場を見て、平静でいられるわけがない。
それが普通だし、電話の様子でもそうだった。

だが留美は、何があったのかどういうことなのかを尋ねることなく、ただ無事でいてほしいという願いだけをメールに込めた。

かわいらしい雑貨屋を知っている留美のこと、飾ろうと思えばいくらでも絵文字で文章を飾れただろう。
だが、今回はそれをしていない。

メールに表示されている時間は、現在時刻よりずいぶん前だった。
学校が終わってから、しばらくたった頃くらいだった。

それは留美が、玲央菜が以前住んでいた家に行ってから少したってからの時間だったのだが、そのことについては文面にない。

「…えっと…」

玲央菜は、留美にどう説明したものかよくわからない。
どういう状況なのか、彼女自身にもまだわからないからだ。

だが、無事だと伝えることはできる。
だから彼女は、スマートフォンを操作した。

「……」

その気配を感じながら、紫苑はまた小さく笑う。
彼女は、窓に映った自身の微笑みに気がついて、慌ててその笑みを消すのだった。


>episode51へ続く

→目次へ