【本編】episode27 黒く染まる夜・1 | 魔人の記

【本編】episode27 黒く染まる夜・1

episode27 黒く染まる夜・1


ケーキを食べた後、3人はそれぞれいつもの夜と同じ時間を過ごした。

トイレ掃除を5分以内に終わらせたのはめでたいことだったが、それと残りの仕事をやるかどうかは別の話だった。

玲央菜もそれはわかっていたので、文句を言うつもりもない。
洗い物とトイレ以外の掃除をテキパキと終わらせ、榊に報告する。

「終わりました」

「わかりました、後で確認します」

この時、榊は書類を見ている。
彼はこの時だけ黒ぶちの老眼鏡をかけていた。

「では、今日はあがってください」

「はい、それじゃおつかれさまでーす」

「おつかれさま…ああ、ちょっと待ってください」

榊は、それまで見ていた書類から目を離して玲央菜を見た。
不思議に思った彼女は、去りかけていた足を止める。

「…なんですか?」

「今夜、恐らく天馬さまの体が変異します…あなたは部屋にしっかりとカギをかけて、そこから出ないようにしてください」

「あ…」

玲央菜ははたと気づく。
そういえばそろそろ前回の変異から2週間ほどがたつのだと。

新月と満月の夜には、天馬の体が悪魔のような姿へと変異する。
玲央菜も最初こそ驚かされたが、部屋で寝ていれば特に問題はなかったので、「そういえばそんなこともあった」程度の認識になりつつあった。

そのため、彼女の顔は真面目にはなるが、恐怖をたたえたものにはならない。

「わかりました」

ただそれだけ言う。
天馬と榊は大変だろうと思うが、がんばってと自分が言うのも何か変な気持ちがするので、ただそれだけ言うようにしていた。

榊は、恐れも油断も見せない彼女の表情を確認すると、一度小さくうなずいた。
その後で彼女にこう告げる。

「これもわかっているとは思いますが、トイレなどののっぴきならない用事の場合は、できるだけ速やかにすませて部屋に戻ること…そして39階部分には絶対に下りてこないこと」

「はい」

「夜中に起きて不安になるかもしれないという場合には、睡眠薬の用意もありますが…」

「ボクは、だいじょぶです」

「わかりました。それではまた明日」

「はい、それじゃおやすみなさーい」

玲央菜は榊にぺこりと頭を下げて、部屋へと戻っていく。
その後ろ姿を見ながら彼は小さく微笑み、やがてまた書類へと視線を戻した。

彼女は、リビングでいつものようにノートパソコンを操作している天馬にも声をかける。

「お仕事終わったのでボク寝ますね。おやすみなさい」

「ああ、おつかれさまー。また明日ね」

彼はいつも通り、軽い言葉と笑顔を玲央菜に返し、またノートパソコンの画面を見た。

玲央菜もちらりと画面を見るのだが、何やらグラフだとかレーダーチャートなどが表示されて難しそうなので、詳しく見ようという気にも、教えてもらおうという気にもならない。

それもまたいつものことであり、住良木家の日常だった。
玲央菜は部屋へと戻り、メイド服を脱いで部屋着に着替える。

ここ最近追加された日常の行動としては、スマートフォンのSNSアプリの活用があった。

とはいっても話し相手は留美だけで、仕事が終わった後でいつも他愛ない会話で盛り上がっては、眠くなるまで話し続けるのだった。

さまざまなことに慣れ、楽しいことも増えてきた日常。
しかし、日付が変わって午前2時を過ぎた時、それは唐突に終わりを告げる。

「く、う…!」

39階部分の中央。
大広間と呼べるほどの広さを持つ空間のど真ん中で、天馬はうめき声をあげている。

その体は、徐々に変化を始めていた。
人間のものから、どの動物とも違う異形の姿へと変わっていく。

「……」

榊はそれを、じっと見つめていた。
左腰には銀色で装飾された短剣をさげており、柄には左手がすでに添えられている。

「うぐっ…! さ、榊…」

「…?」

天馬の声に、榊の眉がぴくりと動いた。
声の響きを彼は不思議に思い、変わりゆく主人に尋ねる。

「天馬さま…?」

「こ、黒皇刃(こくおうじん)を…持って、逃げろ」

「な…!?」

「つ…いに…きて、しまったんだ……」

「天馬さま、お気を確かに!」

「この、とき…が、ついに……!」

「……!」

榊の背中を、一筋の汗が流れる。
それはとても冷たく、流れた後の筋もまた凍るほどに冷たい。

天馬の体は、もはや左半身の上部以外はすべて悪魔化してしまっている。
そんな中、彼は声をふりしぼった。

「あの子と…いっしょに……! にげるんだ………!」

「天馬さま…!」

「うおああああああああああああッ!?」

天馬は絶叫する。
そしてついに、その体のすべてが悪魔のような姿へと変貌した。

それと同時に、天馬だったものの周囲から黒い光が泉のように湧き出る。
光は水のように、しかも勢いよく広がり、榊の足元も黒く染めた。

「…! これは!」

榊は思わず声をあげた。
黒い光に染まった両足は、まるでコールタールで固められたように微動だにしない。

それに気づいた直後、天馬がいた場所からまったく別の声が聞こえてきた。

”ククッ…クハハハハハッ!”

「…!」

榊が顔を上げると、悪魔化した天馬…その「悪魔そのもの」が、胸部を反らせて高笑いを放っているところだった。

背中からは大きな翼が生え、腕は左3本右1本の4本となり、体のいたるところから鋭い角を生やしている。

それを見た榊は、思わずこう言った。

「これは…! 今までとはちがう!」

”ああ、ちがう…そうだ、ちがう”

榊の言葉に答える悪魔の顔は、これまで彼が見てきた鬼のような形ではなかった。
西洋甲冑の兜のような形をしており、生物とはまったく別の存在に見えるが、人らしい何かを残している。

それはこの「悪魔」が、「天馬の体にとりついていたもの」からまったく新しいものへと変化した証だった。

”待ったぞ…ずいぶん待った。だが、待ち続けた甲斐はあった”

「く、うぅ…!」

榊はどうにか足を動かそうとするが、黒い光に染め上げられた両足はまったく動かない。
悪魔はそれをわかっているのか、彼を見て小さく笑った。

”どうした老人…その剣で我を切るのではないのか? これまでのように、我の一部分を切り取って数値を測るのではないのか?”

「なに…! なぜ、それを!」

”我は押さえつけられたとて、消えるわけではない…この男の中から、お前たちがやることをすべて見ていた。すべての手順を我は知っている”

「く…!」

”まずその短剣で、我の体から一部分を切り取る…その後、この男の意志で上に向かわせ、水銀の風呂で我の力を押さえつける…”

「……」

”何年も、何年も…我がこの男にとりついた時から、それは繰り返されてきたな? 我の一部分を切り取った傷口から水銀を流れ込ませ、我の影響を取り除く…だが、我は耐えて待ち続けたのだ”

悪魔はそう言って、ゆっくりと両手を広げた。
直後、悪魔を中心とした衝撃波が巻き起こり、榊の体は壁まで吹き飛ばされる。

「うぐっ!?」

背中をしとどに打ち付け、榊は壁のそばでへたり込む格好になる。
彼は立ち上がろうとするのだが、まだ両足は動かない。

「くっ…動け、動くのだ!」

両足を右手で叩くのだが、力が入らない。
榊は足を叩きながら、悪魔の襲来に備えて顔を上げる。

だが、悪魔は不思議そうに周囲を見回していた。

”なんだ…? 我が力で、ヒビひとつ入らないとはどういうことだ”

榊が吹き飛ばされるほどの衝撃波が放たれたのだが、39階部分は少し揺れた程度でどこも壊れない。
悪魔は自らの足元も見るが、床に穴が開いているということもない。

”まだ覚醒して間もないからか…? いや、そんなはずはない”

悪魔はそう言って、榊に向かって右手をかざす。
その先から濃い紫色の球体が放たれた。

「…!」

榊の足はまだ動かない。
しかし彼は床に向かって倒れ込み、その勢いで体を回転させて悪魔の攻撃を避けた。

”ほう…”

老人とは思えない榊の動きに、悪魔は感心したように声を漏らす。
悪魔が放った球体は、壁にぶつかって四散した。

それを見た悪魔は、左腕3本のうち1本と右腕とで腕組みをする。

”この部屋…やはり何か仕掛けがあるな。我が力を押さえ込むのは、水銀風呂だけではない…そういうことか”

「うぐ、く…!」

悪魔が不思議そうにしている間にも、榊は自らの足を叩き続けていた。
だが、黒く染まった足はやはり動かない。

さらに、それだけではなかった。

「うぅ…!?」

気がつくと、足を叩いていただけのはずの手までもが、黒く染まっている。

最初に湧いて出た黒い光は、次の衝撃波で消えてしまっていたはずなのに、両足と同じように黒く染まっていた。

榊はここで気づく。

「あの黒い光は、この床に染み込んで…!?」

衝撃波で消えたように見えた黒い光だが、実はその影響が床に残り続けていたようだ。
両足はその影響を受け続け、何度叩いても元に戻ることはなかった。

しかも、球体を避けるために床を転がって回避したことで、榊の体のほとんどが床に触れてしまった。
そしてその影響は、彼が気づいた直後に出る。

「うぅっ!?」

がくん、とひざが折れる。
床にひざがついた途端、その場所も黒く染まった。

そこからは早かった。
榊の体は一気にくずおれ、床に倒れ込んでしまう。

「こ、このままでは……!」

榊はもはや顔まで黒く染まり、言葉をしゃべることすらもできなくなってしまう。
手にしていた短剣も床に落ち、まるで半紙が墨汁を吸うかのように、みるみるうちに黒く染まっていった。

それまで壁を見ていた悪魔は、ゆっくりと榊へ視線を移す。
冷たく見下ろしながら、こうつぶやいた。

”フン、ようやく動かなくなったか…我の予想よりはるかに効きが悪いな”

「う、うぅ」

”これは余計なことをせず、この場所を出ることに集中した方が良さそうだ……”

悪魔は翼をはためかせ、床から少しだけ宙に浮く。
そしてその状態のまま、広間の中央から出口のドアへ向かって移動を開始した。

「……くっ…!」

榊は必死に追いすがろうとするが、黒く染まりきったその体はもう指先すら動かない。
彼は最後の力をふりしぼり、なぜか奥歯を強く噛んだ。

一方、玲央菜は少し前に目を覚ましていた。
39階部分が揺れた…悪魔が衝撃波を起こしたのが、彼女のいる40階部分に伝わってしまっていた。

「…地震…?」

ベッドの上で上体だけ起こし、そばに転がっているスマートフォンを拾う。
それを操作するが、地震速報などは出ていない。

「ん…?」

夜中に起きることがなかったわけではない。
やはり天馬と榊が心配で、眠りが浅くなることもあった。

だがこれまでは、それでも横たわればすぐに眠ることができた。

「……なんか、変な感じ…?」

玲央菜は、この夜に限って眠れなかった。
そしてこの夜に限って、鋭敏に何かを感じ取った。

彼女は横たわらず、ベッドを下りる。
この時、近くで何か重い物が落ちる音がした。

「…?」

不思議に思った玲央菜は、音がした方へ歩いていく。
それはクローゼットの中のようだった。

クローゼットを開くと、見慣れたメイド服がある。
と、その脇に何やら見慣れないものがあった。

「なんだこれ…刀?」

もちろん、玲央菜はメイド服の脇に刀など置いた覚えはない。
不思議に思ってクローゼット内部を見てみると、上部に細長い穴がぽっかり空いていた。

「なんのしかけなんだろ…?」

どうやら何らかの仕掛けでクローゼットに穴が空き、そこから刀が落ちてきたらしい。
だが、なぜそのようなことが置きたのかはわからなかった。

「しかけが壊れたのかな。榊さんに持ってけばいいのかなこれ」

玲央菜はつぶやきながら、刀を持ち上げる。
それは彼女が思ったよりも重く、気をつけなければ取り落としそうだった。

両手で刀を持つと、鞘に彫り込まれている文字が目に入る。
彼女はそれを、何気なく読み上げた。

「くろ…すめら、ぎ? やいば…」

その刀の名前を知らない彼女は、文字をひとつひとつ分けて読んだ。
「黒」、「皇」、「刃」と鞘には彫り込まれている。

自分が持っていても仕方がないと考えた玲央菜は、刀を横に持つことをやめ、左手だけで持つ。
かなり重さを感じるが、そうしなければ右手でドアを開けることができなかった。

「んしょ、っと」

ドアを開けて部屋を出ると廊下に出るため、やはり両手で横に持つことはできない。
彼女はどうにか刀を床に引きずらないようにしながら、榊がいるであろう39階部分へと向かって歩き出した。

彼女たちの長い夜は、この時から始まる。
だがこの時、その顛末に思い至ることができた者は、誰ひとりとしていなかった。


>episode28へ続く

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