【本編】episode27 黒く染まる夜・1
episode27 黒く染まる夜・1
ケーキを食べた後、3人はそれぞれいつもの夜と同じ時間を過ごした。
トイレ掃除を5分以内に終わらせたのはめでたいことだったが、それと残りの仕事をやるかどうかは別の話だった。
玲央菜もそれはわかっていたので、文句を言うつもりもない。
洗い物とトイレ以外の掃除をテキパキと終わらせ、榊に報告する。
「終わりました」
「わかりました、後で確認します」
この時、榊は書類を見ている。
彼はこの時だけ黒ぶちの老眼鏡をかけていた。
「では、今日はあがってください」
「はい、それじゃおつかれさまでーす」
「おつかれさま…ああ、ちょっと待ってください」
榊は、それまで見ていた書類から目を離して玲央菜を見た。
不思議に思った彼女は、去りかけていた足を止める。
「…なんですか?」
「今夜、恐らく天馬さまの体が変異します…あなたは部屋にしっかりとカギをかけて、そこから出ないようにしてください」
「あ…」
玲央菜ははたと気づく。
そういえばそろそろ前回の変異から2週間ほどがたつのだと。
新月と満月の夜には、天馬の体が悪魔のような姿へと変異する。
玲央菜も最初こそ驚かされたが、部屋で寝ていれば特に問題はなかったので、「そういえばそんなこともあった」程度の認識になりつつあった。
そのため、彼女の顔は真面目にはなるが、恐怖をたたえたものにはならない。
「わかりました」
ただそれだけ言う。
天馬と榊は大変だろうと思うが、がんばってと自分が言うのも何か変な気持ちがするので、ただそれだけ言うようにしていた。
榊は、恐れも油断も見せない彼女の表情を確認すると、一度小さくうなずいた。
その後で彼女にこう告げる。
「これもわかっているとは思いますが、トイレなどののっぴきならない用事の場合は、できるだけ速やかにすませて部屋に戻ること…そして39階部分には絶対に下りてこないこと」
「はい」
「夜中に起きて不安になるかもしれないという場合には、睡眠薬の用意もありますが…」
「ボクは、だいじょぶです」
「わかりました。それではまた明日」
「はい、それじゃおやすみなさーい」
玲央菜は榊にぺこりと頭を下げて、部屋へと戻っていく。
その後ろ姿を見ながら彼は小さく微笑み、やがてまた書類へと視線を戻した。
彼女は、リビングでいつものようにノートパソコンを操作している天馬にも声をかける。
「お仕事終わったのでボク寝ますね。おやすみなさい」
「ああ、おつかれさまー。また明日ね」
彼はいつも通り、軽い言葉と笑顔を玲央菜に返し、またノートパソコンの画面を見た。
玲央菜もちらりと画面を見るのだが、何やらグラフだとかレーダーチャートなどが表示されて難しそうなので、詳しく見ようという気にも、教えてもらおうという気にもならない。
それもまたいつものことであり、住良木家の日常だった。
玲央菜は部屋へと戻り、メイド服を脱いで部屋着に着替える。
ここ最近追加された日常の行動としては、スマートフォンのSNSアプリの活用があった。
とはいっても話し相手は留美だけで、仕事が終わった後でいつも他愛ない会話で盛り上がっては、眠くなるまで話し続けるのだった。
さまざまなことに慣れ、楽しいことも増えてきた日常。
しかし、日付が変わって午前2時を過ぎた時、それは唐突に終わりを告げる。
「く、う…!」
39階部分の中央。
大広間と呼べるほどの広さを持つ空間のど真ん中で、天馬はうめき声をあげている。
その体は、徐々に変化を始めていた。
人間のものから、どの動物とも違う異形の姿へと変わっていく。
「……」
榊はそれを、じっと見つめていた。
左腰には銀色で装飾された短剣をさげており、柄には左手がすでに添えられている。
「うぐっ…! さ、榊…」
「…?」
天馬の声に、榊の眉がぴくりと動いた。
声の響きを彼は不思議に思い、変わりゆく主人に尋ねる。
「天馬さま…?」
「こ、黒皇刃(こくおうじん)を…持って、逃げろ」
「な…!?」
「つ…いに…きて、しまったんだ……」
「天馬さま、お気を確かに!」
「この、とき…が、ついに……!」
「……!」
榊の背中を、一筋の汗が流れる。
それはとても冷たく、流れた後の筋もまた凍るほどに冷たい。
天馬の体は、もはや左半身の上部以外はすべて悪魔化してしまっている。
そんな中、彼は声をふりしぼった。
「あの子と…いっしょに……! にげるんだ………!」
「天馬さま…!」
「うおああああああああああああッ!?」
天馬は絶叫する。
そしてついに、その体のすべてが悪魔のような姿へと変貌した。
それと同時に、天馬だったものの周囲から黒い光が泉のように湧き出る。
光は水のように、しかも勢いよく広がり、榊の足元も黒く染めた。
「…! これは!」
榊は思わず声をあげた。
黒い光に染まった両足は、まるでコールタールで固められたように微動だにしない。
それに気づいた直後、天馬がいた場所からまったく別の声が聞こえてきた。
”ククッ…クハハハハハッ!”
「…!」
榊が顔を上げると、悪魔化した天馬…その「悪魔そのもの」が、胸部を反らせて高笑いを放っているところだった。
背中からは大きな翼が生え、腕は左3本右1本の4本となり、体のいたるところから鋭い角を生やしている。
それを見た榊は、思わずこう言った。
「これは…! 今までとはちがう!」
”ああ、ちがう…そうだ、ちがう”
榊の言葉に答える悪魔の顔は、これまで彼が見てきた鬼のような形ではなかった。
西洋甲冑の兜のような形をしており、生物とはまったく別の存在に見えるが、人らしい何かを残している。
それはこの「悪魔」が、「天馬の体にとりついていたもの」からまったく新しいものへと変化した証だった。
”待ったぞ…ずいぶん待った。だが、待ち続けた甲斐はあった”
「く、うぅ…!」
榊はどうにか足を動かそうとするが、黒い光に染め上げられた両足はまったく動かない。
悪魔はそれをわかっているのか、彼を見て小さく笑った。
”どうした老人…その剣で我を切るのではないのか? これまでのように、我の一部分を切り取って数値を測るのではないのか?”
「なに…! なぜ、それを!」
”我は押さえつけられたとて、消えるわけではない…この男の中から、お前たちがやることをすべて見ていた。すべての手順を我は知っている”
「く…!」
”まずその短剣で、我の体から一部分を切り取る…その後、この男の意志で上に向かわせ、水銀の風呂で我の力を押さえつける…”
「……」
”何年も、何年も…我がこの男にとりついた時から、それは繰り返されてきたな? 我の一部分を切り取った傷口から水銀を流れ込ませ、我の影響を取り除く…だが、我は耐えて待ち続けたのだ”
悪魔はそう言って、ゆっくりと両手を広げた。
直後、悪魔を中心とした衝撃波が巻き起こり、榊の体は壁まで吹き飛ばされる。
「うぐっ!?」
背中をしとどに打ち付け、榊は壁のそばでへたり込む格好になる。
彼は立ち上がろうとするのだが、まだ両足は動かない。
「くっ…動け、動くのだ!」
両足を右手で叩くのだが、力が入らない。
榊は足を叩きながら、悪魔の襲来に備えて顔を上げる。
だが、悪魔は不思議そうに周囲を見回していた。
”なんだ…? 我が力で、ヒビひとつ入らないとはどういうことだ”
榊が吹き飛ばされるほどの衝撃波が放たれたのだが、39階部分は少し揺れた程度でどこも壊れない。
悪魔は自らの足元も見るが、床に穴が開いているということもない。
”まだ覚醒して間もないからか…? いや、そんなはずはない”
悪魔はそう言って、榊に向かって右手をかざす。
その先から濃い紫色の球体が放たれた。
「…!」
榊の足はまだ動かない。
しかし彼は床に向かって倒れ込み、その勢いで体を回転させて悪魔の攻撃を避けた。
”ほう…”
老人とは思えない榊の動きに、悪魔は感心したように声を漏らす。
悪魔が放った球体は、壁にぶつかって四散した。
それを見た悪魔は、左腕3本のうち1本と右腕とで腕組みをする。
”この部屋…やはり何か仕掛けがあるな。我が力を押さえ込むのは、水銀風呂だけではない…そういうことか”
「うぐ、く…!」
悪魔が不思議そうにしている間にも、榊は自らの足を叩き続けていた。
だが、黒く染まった足はやはり動かない。
さらに、それだけではなかった。
「うぅ…!?」
気がつくと、足を叩いていただけのはずの手までもが、黒く染まっている。
最初に湧いて出た黒い光は、次の衝撃波で消えてしまっていたはずなのに、両足と同じように黒く染まっていた。
榊はここで気づく。
「あの黒い光は、この床に染み込んで…!?」
衝撃波で消えたように見えた黒い光だが、実はその影響が床に残り続けていたようだ。
両足はその影響を受け続け、何度叩いても元に戻ることはなかった。
しかも、球体を避けるために床を転がって回避したことで、榊の体のほとんどが床に触れてしまった。
そしてその影響は、彼が気づいた直後に出る。
「うぅっ!?」
がくん、とひざが折れる。
床にひざがついた途端、その場所も黒く染まった。
そこからは早かった。
榊の体は一気にくずおれ、床に倒れ込んでしまう。
「こ、このままでは……!」
榊はもはや顔まで黒く染まり、言葉をしゃべることすらもできなくなってしまう。
手にしていた短剣も床に落ち、まるで半紙が墨汁を吸うかのように、みるみるうちに黒く染まっていった。
それまで壁を見ていた悪魔は、ゆっくりと榊へ視線を移す。
冷たく見下ろしながら、こうつぶやいた。
”フン、ようやく動かなくなったか…我の予想よりはるかに効きが悪いな”
「う、うぅ」
”これは余計なことをせず、この場所を出ることに集中した方が良さそうだ……”
悪魔は翼をはためかせ、床から少しだけ宙に浮く。
そしてその状態のまま、広間の中央から出口のドアへ向かって移動を開始した。
「……くっ…!」
榊は必死に追いすがろうとするが、黒く染まりきったその体はもう指先すら動かない。
彼は最後の力をふりしぼり、なぜか奥歯を強く噛んだ。
一方、玲央菜は少し前に目を覚ましていた。
39階部分が揺れた…悪魔が衝撃波を起こしたのが、彼女のいる40階部分に伝わってしまっていた。
「…地震…?」
ベッドの上で上体だけ起こし、そばに転がっているスマートフォンを拾う。
それを操作するが、地震速報などは出ていない。
「ん…?」
夜中に起きることがなかったわけではない。
やはり天馬と榊が心配で、眠りが浅くなることもあった。
だがこれまでは、それでも横たわればすぐに眠ることができた。
「……なんか、変な感じ…?」
玲央菜は、この夜に限って眠れなかった。
そしてこの夜に限って、鋭敏に何かを感じ取った。
彼女は横たわらず、ベッドを下りる。
この時、近くで何か重い物が落ちる音がした。
「…?」
不思議に思った玲央菜は、音がした方へ歩いていく。
それはクローゼットの中のようだった。
クローゼットを開くと、見慣れたメイド服がある。
と、その脇に何やら見慣れないものがあった。
「なんだこれ…刀?」
もちろん、玲央菜はメイド服の脇に刀など置いた覚えはない。
不思議に思ってクローゼット内部を見てみると、上部に細長い穴がぽっかり空いていた。
「なんのしかけなんだろ…?」
どうやら何らかの仕掛けでクローゼットに穴が空き、そこから刀が落ちてきたらしい。
だが、なぜそのようなことが置きたのかはわからなかった。
「しかけが壊れたのかな。榊さんに持ってけばいいのかなこれ」
玲央菜はつぶやきながら、刀を持ち上げる。
それは彼女が思ったよりも重く、気をつけなければ取り落としそうだった。
両手で刀を持つと、鞘に彫り込まれている文字が目に入る。
彼女はそれを、何気なく読み上げた。
「くろ…すめら、ぎ? やいば…」
その刀の名前を知らない彼女は、文字をひとつひとつ分けて読んだ。
「黒」、「皇」、「刃」と鞘には彫り込まれている。
自分が持っていても仕方がないと考えた玲央菜は、刀を横に持つことをやめ、左手だけで持つ。
かなり重さを感じるが、そうしなければ右手でドアを開けることができなかった。
「んしょ、っと」
ドアを開けて部屋を出ると廊下に出るため、やはり両手で横に持つことはできない。
彼女はどうにか刀を床に引きずらないようにしながら、榊がいるであろう39階部分へと向かって歩き出した。
彼女たちの長い夜は、この時から始まる。
だがこの時、その顛末に思い至ることができた者は、誰ひとりとしていなかった。
>episode28へ続く
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ケーキを食べた後、3人はそれぞれいつもの夜と同じ時間を過ごした。
トイレ掃除を5分以内に終わらせたのはめでたいことだったが、それと残りの仕事をやるかどうかは別の話だった。
玲央菜もそれはわかっていたので、文句を言うつもりもない。
洗い物とトイレ以外の掃除をテキパキと終わらせ、榊に報告する。
「終わりました」
「わかりました、後で確認します」
この時、榊は書類を見ている。
彼はこの時だけ黒ぶちの老眼鏡をかけていた。
「では、今日はあがってください」
「はい、それじゃおつかれさまでーす」
「おつかれさま…ああ、ちょっと待ってください」
榊は、それまで見ていた書類から目を離して玲央菜を見た。
不思議に思った彼女は、去りかけていた足を止める。
「…なんですか?」
「今夜、恐らく天馬さまの体が変異します…あなたは部屋にしっかりとカギをかけて、そこから出ないようにしてください」
「あ…」
玲央菜ははたと気づく。
そういえばそろそろ前回の変異から2週間ほどがたつのだと。
新月と満月の夜には、天馬の体が悪魔のような姿へと変異する。
玲央菜も最初こそ驚かされたが、部屋で寝ていれば特に問題はなかったので、「そういえばそんなこともあった」程度の認識になりつつあった。
そのため、彼女の顔は真面目にはなるが、恐怖をたたえたものにはならない。
「わかりました」
ただそれだけ言う。
天馬と榊は大変だろうと思うが、がんばってと自分が言うのも何か変な気持ちがするので、ただそれだけ言うようにしていた。
榊は、恐れも油断も見せない彼女の表情を確認すると、一度小さくうなずいた。
その後で彼女にこう告げる。
「これもわかっているとは思いますが、トイレなどののっぴきならない用事の場合は、できるだけ速やかにすませて部屋に戻ること…そして39階部分には絶対に下りてこないこと」
「はい」
「夜中に起きて不安になるかもしれないという場合には、睡眠薬の用意もありますが…」
「ボクは、だいじょぶです」
「わかりました。それではまた明日」
「はい、それじゃおやすみなさーい」
玲央菜は榊にぺこりと頭を下げて、部屋へと戻っていく。
その後ろ姿を見ながら彼は小さく微笑み、やがてまた書類へと視線を戻した。
彼女は、リビングでいつものようにノートパソコンを操作している天馬にも声をかける。
「お仕事終わったのでボク寝ますね。おやすみなさい」
「ああ、おつかれさまー。また明日ね」
彼はいつも通り、軽い言葉と笑顔を玲央菜に返し、またノートパソコンの画面を見た。
玲央菜もちらりと画面を見るのだが、何やらグラフだとかレーダーチャートなどが表示されて難しそうなので、詳しく見ようという気にも、教えてもらおうという気にもならない。
それもまたいつものことであり、住良木家の日常だった。
玲央菜は部屋へと戻り、メイド服を脱いで部屋着に着替える。
ここ最近追加された日常の行動としては、スマートフォンのSNSアプリの活用があった。
とはいっても話し相手は留美だけで、仕事が終わった後でいつも他愛ない会話で盛り上がっては、眠くなるまで話し続けるのだった。
さまざまなことに慣れ、楽しいことも増えてきた日常。
しかし、日付が変わって午前2時を過ぎた時、それは唐突に終わりを告げる。
「く、う…!」
39階部分の中央。
大広間と呼べるほどの広さを持つ空間のど真ん中で、天馬はうめき声をあげている。
その体は、徐々に変化を始めていた。
人間のものから、どの動物とも違う異形の姿へと変わっていく。
「……」
榊はそれを、じっと見つめていた。
左腰には銀色で装飾された短剣をさげており、柄には左手がすでに添えられている。
「うぐっ…! さ、榊…」
「…?」
天馬の声に、榊の眉がぴくりと動いた。
声の響きを彼は不思議に思い、変わりゆく主人に尋ねる。
「天馬さま…?」
「こ、黒皇刃(こくおうじん)を…持って、逃げろ」
「な…!?」
「つ…いに…きて、しまったんだ……」
「天馬さま、お気を確かに!」
「この、とき…が、ついに……!」
「……!」
榊の背中を、一筋の汗が流れる。
それはとても冷たく、流れた後の筋もまた凍るほどに冷たい。
天馬の体は、もはや左半身の上部以外はすべて悪魔化してしまっている。
そんな中、彼は声をふりしぼった。
「あの子と…いっしょに……! にげるんだ………!」
「天馬さま…!」
「うおああああああああああああッ!?」
天馬は絶叫する。
そしてついに、その体のすべてが悪魔のような姿へと変貌した。
それと同時に、天馬だったものの周囲から黒い光が泉のように湧き出る。
光は水のように、しかも勢いよく広がり、榊の足元も黒く染めた。
「…! これは!」
榊は思わず声をあげた。
黒い光に染まった両足は、まるでコールタールで固められたように微動だにしない。
それに気づいた直後、天馬がいた場所からまったく別の声が聞こえてきた。
”ククッ…クハハハハハッ!”
「…!」
榊が顔を上げると、悪魔化した天馬…その「悪魔そのもの」が、胸部を反らせて高笑いを放っているところだった。
背中からは大きな翼が生え、腕は左3本右1本の4本となり、体のいたるところから鋭い角を生やしている。
それを見た榊は、思わずこう言った。
「これは…! 今までとはちがう!」
”ああ、ちがう…そうだ、ちがう”
榊の言葉に答える悪魔の顔は、これまで彼が見てきた鬼のような形ではなかった。
西洋甲冑の兜のような形をしており、生物とはまったく別の存在に見えるが、人らしい何かを残している。
それはこの「悪魔」が、「天馬の体にとりついていたもの」からまったく新しいものへと変化した証だった。
”待ったぞ…ずいぶん待った。だが、待ち続けた甲斐はあった”
「く、うぅ…!」
榊はどうにか足を動かそうとするが、黒い光に染め上げられた両足はまったく動かない。
悪魔はそれをわかっているのか、彼を見て小さく笑った。
”どうした老人…その剣で我を切るのではないのか? これまでのように、我の一部分を切り取って数値を測るのではないのか?”
「なに…! なぜ、それを!」
”我は押さえつけられたとて、消えるわけではない…この男の中から、お前たちがやることをすべて見ていた。すべての手順を我は知っている”
「く…!」
”まずその短剣で、我の体から一部分を切り取る…その後、この男の意志で上に向かわせ、水銀の風呂で我の力を押さえつける…”
「……」
”何年も、何年も…我がこの男にとりついた時から、それは繰り返されてきたな? 我の一部分を切り取った傷口から水銀を流れ込ませ、我の影響を取り除く…だが、我は耐えて待ち続けたのだ”
悪魔はそう言って、ゆっくりと両手を広げた。
直後、悪魔を中心とした衝撃波が巻き起こり、榊の体は壁まで吹き飛ばされる。
「うぐっ!?」
背中をしとどに打ち付け、榊は壁のそばでへたり込む格好になる。
彼は立ち上がろうとするのだが、まだ両足は動かない。
「くっ…動け、動くのだ!」
両足を右手で叩くのだが、力が入らない。
榊は足を叩きながら、悪魔の襲来に備えて顔を上げる。
だが、悪魔は不思議そうに周囲を見回していた。
”なんだ…? 我が力で、ヒビひとつ入らないとはどういうことだ”
榊が吹き飛ばされるほどの衝撃波が放たれたのだが、39階部分は少し揺れた程度でどこも壊れない。
悪魔は自らの足元も見るが、床に穴が開いているということもない。
”まだ覚醒して間もないからか…? いや、そんなはずはない”
悪魔はそう言って、榊に向かって右手をかざす。
その先から濃い紫色の球体が放たれた。
「…!」
榊の足はまだ動かない。
しかし彼は床に向かって倒れ込み、その勢いで体を回転させて悪魔の攻撃を避けた。
”ほう…”
老人とは思えない榊の動きに、悪魔は感心したように声を漏らす。
悪魔が放った球体は、壁にぶつかって四散した。
それを見た悪魔は、左腕3本のうち1本と右腕とで腕組みをする。
”この部屋…やはり何か仕掛けがあるな。我が力を押さえ込むのは、水銀風呂だけではない…そういうことか”
「うぐ、く…!」
悪魔が不思議そうにしている間にも、榊は自らの足を叩き続けていた。
だが、黒く染まった足はやはり動かない。
さらに、それだけではなかった。
「うぅ…!?」
気がつくと、足を叩いていただけのはずの手までもが、黒く染まっている。
最初に湧いて出た黒い光は、次の衝撃波で消えてしまっていたはずなのに、両足と同じように黒く染まっていた。
榊はここで気づく。
「あの黒い光は、この床に染み込んで…!?」
衝撃波で消えたように見えた黒い光だが、実はその影響が床に残り続けていたようだ。
両足はその影響を受け続け、何度叩いても元に戻ることはなかった。
しかも、球体を避けるために床を転がって回避したことで、榊の体のほとんどが床に触れてしまった。
そしてその影響は、彼が気づいた直後に出る。
「うぅっ!?」
がくん、とひざが折れる。
床にひざがついた途端、その場所も黒く染まった。
そこからは早かった。
榊の体は一気にくずおれ、床に倒れ込んでしまう。
「こ、このままでは……!」
榊はもはや顔まで黒く染まり、言葉をしゃべることすらもできなくなってしまう。
手にしていた短剣も床に落ち、まるで半紙が墨汁を吸うかのように、みるみるうちに黒く染まっていった。
それまで壁を見ていた悪魔は、ゆっくりと榊へ視線を移す。
冷たく見下ろしながら、こうつぶやいた。
”フン、ようやく動かなくなったか…我の予想よりはるかに効きが悪いな”
「う、うぅ」
”これは余計なことをせず、この場所を出ることに集中した方が良さそうだ……”
悪魔は翼をはためかせ、床から少しだけ宙に浮く。
そしてその状態のまま、広間の中央から出口のドアへ向かって移動を開始した。
「……くっ…!」
榊は必死に追いすがろうとするが、黒く染まりきったその体はもう指先すら動かない。
彼は最後の力をふりしぼり、なぜか奥歯を強く噛んだ。
一方、玲央菜は少し前に目を覚ましていた。
39階部分が揺れた…悪魔が衝撃波を起こしたのが、彼女のいる40階部分に伝わってしまっていた。
「…地震…?」
ベッドの上で上体だけ起こし、そばに転がっているスマートフォンを拾う。
それを操作するが、地震速報などは出ていない。
「ん…?」
夜中に起きることがなかったわけではない。
やはり天馬と榊が心配で、眠りが浅くなることもあった。
だがこれまでは、それでも横たわればすぐに眠ることができた。
「……なんか、変な感じ…?」
玲央菜は、この夜に限って眠れなかった。
そしてこの夜に限って、鋭敏に何かを感じ取った。
彼女は横たわらず、ベッドを下りる。
この時、近くで何か重い物が落ちる音がした。
「…?」
不思議に思った玲央菜は、音がした方へ歩いていく。
それはクローゼットの中のようだった。
クローゼットを開くと、見慣れたメイド服がある。
と、その脇に何やら見慣れないものがあった。
「なんだこれ…刀?」
もちろん、玲央菜はメイド服の脇に刀など置いた覚えはない。
不思議に思ってクローゼット内部を見てみると、上部に細長い穴がぽっかり空いていた。
「なんのしかけなんだろ…?」
どうやら何らかの仕掛けでクローゼットに穴が空き、そこから刀が落ちてきたらしい。
だが、なぜそのようなことが置きたのかはわからなかった。
「しかけが壊れたのかな。榊さんに持ってけばいいのかなこれ」
玲央菜はつぶやきながら、刀を持ち上げる。
それは彼女が思ったよりも重く、気をつけなければ取り落としそうだった。
両手で刀を持つと、鞘に彫り込まれている文字が目に入る。
彼女はそれを、何気なく読み上げた。
「くろ…すめら、ぎ? やいば…」
その刀の名前を知らない彼女は、文字をひとつひとつ分けて読んだ。
「黒」、「皇」、「刃」と鞘には彫り込まれている。
自分が持っていても仕方がないと考えた玲央菜は、刀を横に持つことをやめ、左手だけで持つ。
かなり重さを感じるが、そうしなければ右手でドアを開けることができなかった。
「んしょ、っと」
ドアを開けて部屋を出ると廊下に出るため、やはり両手で横に持つことはできない。
彼女はどうにか刀を床に引きずらないようにしながら、榊がいるであろう39階部分へと向かって歩き出した。
彼女たちの長い夜は、この時から始まる。
だがこの時、その顛末に思い至ることができた者は、誰ひとりとしていなかった。
>episode28へ続く
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