【本編】episode16 マリネdeゴーモン
episode16 マリネdeゴーモン
「…まあ、それはそれとして、さ」
天馬はそう言いながら、縛られて横たわっている男の体を起こした。
そしてその正面に移動し、玲央菜に背を向ける形をとる。
そうしておいて、少しばかり険しい表情を男へ向けた。
「困るんだよなあ…あまりこの家のことは、公にしたくないんだよ」
「な、なに…?」
天馬の語気が、玲央菜と話していた時とは明らかに変化したのを感じて、男は警戒した表情で彼を見る。
自身が怒った顔を、天馬は玲央菜に見せないようにしている。
それに男は気づいた。
「お…公にしたくねェっつーんならよォ、どっか無人島にでも住んでりゃいいんじゃねーのかな?」
「いやいや、それは不正解だよドロボーさん」
胃痛に耐えながら毒づく男に、天馬は穏やかに言う。
だが険しい表情は消えていない。
「無人島なんかに住んでたら、いざって時に人を呼べないじゃないか」
「だからなんだってんだよ」
「わかってないか。じゃあわかりやすく真正面から問おう」
天馬はそう言って、男に顔をぐっと近づけた。
そして低い声で言う。
「誰に雇われた?」
「……!」
瞬間、男は目を大きく見開いた。
だがすぐに表情をうすら笑いに変え、「何の話だ?」と返した。
しかしその返答に、天馬は納得しない。
それにはこんな理由がある。
「今言ったばかりだけど、俺はこの家の存在を公にはしたくない…おおっぴらにしたくない、と言った方がイメージとして正しいかもしれないけど、とにかくあまり存在を知られたくないわけなんだよ」
「だからなんだっつーんだ」
「つまりそれなりに、隠す努力をしてきたってことさ。ここに住んでない人は、エレベーターが38階まで行かないことなんて知らないし、住んでいる人は39階と40階がこんな家になってるなんて知らない」
「……だから?」
「普通は、ここに入り込もうなんて思わないんだよ…面倒な構造だとわかれば、コソドロはそそくさと逃げるもんだ」
「そりゃオメーの『普通』だろーが。オレにゃ関係ねェ」
「しかもお前、空きっ腹のままここに入り込んだだろ」
天馬はそう言って、一度テーブルの方へ向かう。
すぐに戻ってきたのだが、その手には榊専用ソースが入ったタッパーを持っていた。
「そんな非常時に、わざわざめんどうなつくりをしてるこの家に、わざわざ入り込むかなーと思ってさ」
「お、おいオマエ…なんでそれ持ってきた、おい」
男は、タッパーを見て明らかにおびえている。
自身をひと口で気絶に追いやった榊ソースの味を思い出してか、その額からは脂汗がにじみ出てきた。
一方、天馬はとぼけた口調で男に応答してやる。
「なんでって、そりゃー…腹が減ってるのはかわいそうだと思ってさ。榊特製のソースで和えられた野菜マリネでも食べれば、きっと俺たち仲良くなれると思ってね」
「バカお前、それはバカだろお前…おいやめろ、そのタッパー近づけんじゃねェ!」
榊ソースの威力は絶大で、男はうすら笑いをその顔から強制的に消させられてしまった。
顔全体が焦りで彩られ、思わず周囲に助けを求める。
「お、おいそこのメイド!」
「えっ!?」
急に呼ばれて玲央菜は驚いた。
彼女が反応したことが男に希望を見せたのか、すがるような目で彼女に言う。
「このバカを止めろ! あのタッパーにはやべェモンが入ってんだ! 空きっ腹で…いや腹が普通でも、食ったら一発で死ぬ! やめさせろ!」
「え、あ、でも…」
「……」
天馬は玲央菜の方を見ない。
だが玲央菜は、彼の背中を見て何かを感じた。
「…と、止めない方がよさそう…」
天馬の背中から立ちのぼる何かが、玲央菜に止めることをためらわせた。
男はすぐに玲央菜を説得するのをあきらめ、今度は榊に声をかける。
「おいジジイ! このバカを止めろ! オマエが作ったんだろ、この殺人ソース! 今度食わされたらマジでオレが死ぬ!」
「……」
しかし、天馬の執事である榊が、男の言うことなど聞くはずもない。
ソースのことが玲央菜や男にバレたことがショックでもあるのか、少し顔をうつむけたままで何も反応しなかった。
「おいマジかよ…!」
顔を青くしたのは男である。
もともと味方がいない場所へ侵入しているのだが、今の状況でも味方がまったくいないというのは、正直こたえた。
「…ほら…食わせてやるよ」
しかも、天馬はタッパーをゆっくりと男へ近づけてきている。
ロープで体をぐるぐる巻にされてしまった男には、体をよじらせて逃げる他ない。
だが、縛り方がかなりきついのか、体をよじらせる余裕すらもなかった。
男の脂汗はさらにその量を増し、寒気なのか悪寒なのか体をガタガタと震わせる。
「お、おい、バカマジでやめろってマジで」
「じっとしてろよ、暴れたら鼻に入るかもしれない」
「かもしれない、じゃねーだろオマエ! 何ニヤニヤしてんだ鼻にぶっこむつもりだろテメェ!」
「いやいや、曲りなりにもこれは榊特製の料理だからな…鼻に入れるなんてそんなことは。ふふっ」
「おい何笑ってんだこらァ! やる気だろオマエ、絶対やる気だろ!」
「ふ、ふふっ、ふふふふふふふ…!」
天馬は不気味に笑う。
その異様さは、男だけでなく玲央菜までも震え上がらせていた。
「て、天馬さま、こわい…!」
「怖くない…怖くないよ別に。俺はただ、親睦を深めようとしているだけさ」
天馬は背を向けたまま、おびえる玲央菜に弁解する。
だが表情が見えないので、それが本当かどうかはわからない。
というか、自宅に侵入してきた者と一体どうしてすぐに親睦を深めようと思うだろう?
「……」
そこに思い至った時、玲央菜はもう何も言えなくなった。
そして彼女の様子を見た男は、顔色を土気色に変えながら天馬にこう言った。
「お、おい、ウソだよな? おい、冗談だよな? さすがにマジでそのサラダみてーなもん、オレに食わせたりしねーよな?」
「サラダじゃなくて野菜のマリネ、な。俺も、子どもの頃はイタズラ心でこれを食って、1週間くらい…榊の顔を見るだけで腹を痛くしたもんさ」
「バカバカバカ、そんな経験があるならよくわかってるだろ、空きっ腹のオレがまたそれ食ったらどうなるか! 1回目は気絶したんだぞ!」
「じゃあ今は、完全に空きっ腹ってわけでもないってことだよな。そりゃあよかった。もしかしたらおいしく食べられるかもしれない」
「オマエ、ノーミソ腐ってんじゃねーの…」
「きっとおいしいさ、榊の特製なんだから」
「やめろ…!」
「ほら、あーん」
「ふほほっへ!」
男は唇を閉じたまま、天馬にやめるように言う。
だが天馬は、いつの間にか用意していたトングを手に、野菜のマリネをつかみ上げて男の鼻先へ持っていく。
「おや、口を開けてくれないなら、こちらで香りを楽しんでもらおうかな」
「ふへほ! ふへほほほふふ!」
「ははは、なに言ってるかわかんないな。ほれほれ」
天馬はそう言って、マリネを男の鼻先にくっつける。
その瞬間、男は壊れた。
「ぎゃーーーーーーーーーーー」
思わず口を開けてしまう。
天馬は、そこへマリネを放り込んだ。
「うっ!? ごォふっ、ぐほっ!」
男は盛大にむせ、そして…
真っ白になった。
さらに2時間が経過した。
再度、『榊専用マリネ』を食わされた男は、気絶から立ち直ってすぐに天馬に自身の正体を明かした。
榊ソースの威力は絶大だった、というわけである。
「えーっと…風野 又三郎…変わった名前だな」
「うっせェ…」
風野と名乗った男は、毒づくが元気がない。
二度も榊ソースの辛さで気絶したせいか、胃がやられて腹に力が入らない。
その直接の加害者である天馬は特に気にする様子もなく、風野に再度雇い主を尋ねた。
「通りすがりのドロボーが、わざわざこの家を狙うとはどうしても思えないんだよ。お前は誰に雇われたんだ?」
「このオレが、誰かに雇われて盗みなんざやるわけねーだろ」
「おや、また榊特製のマリネを食いたいのかな?」
「んなわけねーだろバカ野郎! 高層マンションの最上階ってのはなァ、油断してベランダ側のカギを開けてる連中も多いんだ。オレにとっちゃカモなんだよ」
「それはエレベーターで直接最上階まで行ける場合の話だろ? 屋上まで行ってしまえば、最上階のベランダにおりるのは簡単…でも、38階からのぼっていくのは危険すぎる」
「……」
「エレベーターの階層ボタン見ただろ? ここは40階建てだけど、ボタンは38階までしかない…その時にやめようと思うんじゃないのか? 普通」
「だァからそりゃオマエの『普通』だっつってんだろ。建物そのものが特殊であればあるほど、そこには金があるってことじゃねーか…一度やる気になったんなら、簡単にあきらめるわけにはいかね…」
「あ!」
男が話している時に、玲央菜が声をあげた。
何事かと天馬は振り返り、男もそちらを見る。
同時にふたりの視線をいきなり受けて、玲央菜は驚いた。
「あ、そ、その…ごめんなさい」
「なにか、気づいたことでもあるのかい?」
天馬は、玲央菜が声をあげた理由を察して尋ねてやる。
その言葉に彼女はすぐにうなずいた。
「そういえばその人、天馬さまと榊さんのことも知ってるっぽかったです」
「へぇ…」
「ふたりが出て行ったのを知ってて、ここに来たみたいですし…」
玲央菜はそう言いながら風野を見た。
風野は思わぬことを玲央菜にバラされ、悔しそうな腹立たしそうな顔をしている。
だが、一時は無理やりキスまでされそうになった相手である。
玲央菜は風野に同情などしなかった。
「ふたりそろって出て行ったんなら、すぐには帰ってこないって言ってました」
「こ、このバカメイド…!」
「べーっ」
風野が毒づくと、玲央菜は舌を出して反撃する。
そして天馬はというと、再度…マリネが入ったタッパーを手に取っていた。
「もうこれ全部食べるか? 風野」
「だからやめろっつてんだろバカ野朗…! 胃がすげェいてーんだよ! くちびるまわりがずっとビリビリしてんだよ! 全部食ったら確実に死ぬだろ!」
「いやいやそんなことはないさ。なんたって榊は月に二度はこれを食べてる…それでもあんなに元気だ」
天馬は笑顔で榊を指し示すが、榊は今も顔をうつむけている。
風野は当然、それを指摘した。
「なんかガックリきてるじゃねーかジジイ!」
「いやいや、あれは…楽しみにしてたマリネをお前に食われて残念がってるのさ」
「オレだって好きで食ったわけじゃねーよ! 知らなかっただけだ! っていうか残念がってるともまたちがわねーかアレ!?」
「まあまあ、細かいことは気にしないで。さあ、口を開けて…全部食べていいからな」
「や、やめ…」
風野は身をよじるが、どんなに暴れてもロープが緩むことはまったくない。
タッパーが顔の近くまで迫ってくると、さすがに三度目はたまらないと思ったのか…
天馬にこう言いながら、前へと倒れ込んだ。
「わかったー! わかった、わかったって! 言うからそれはやめろぉおお!」
「おっ…」
天馬は、風野にタッパーを近づける手を止めた。
あまりに刺激的な榊ソースの前に、風野はついに敗北を認めた。
タッパーをテーブルに置き、天馬は前に倒れた風野を起こす。
「さあ、答えてもらうぞ…お前を雇ったのは誰だ?」
「お、オレを雇ったのは…」
風野が言いかける。
その時だった。
「うッ!?」
突然、風野は口から泡を吹いた。
それと同時に白目をむいてしまう。
「あ…こりゃマズい」
天馬は瞬時に反応し、ポケットからスマートフォンを取り出す。
すぐさま119番へ電話をかけようとした。
だがこの時、彼の手に何かが当たる。
その衝撃が思いの外強く、天馬はスマートフォンを取り落としてしまった。
「や…やめろ」
「お、お前…」
天馬の手にぶつかったのは、風野の手だった。
泡を吹き、半分白目をむきながらも、彼は天馬の電話を阻止しようとしたようだ。
それが何を意味するのか、天馬はすぐに理解する。
「病院に運ばれちゃ、雇い主に迷惑がかかるってことか。わかったよ、救急車は呼ばないでやる…榊!」
「はっ」
天馬に名を呼ばれた瞬間、榊はいつもの表情を取り戻していた。
ふたりは風野の体を持ち上げて、急いで天馬の寝室へと運んでいった。
「…あ…」
ふたりの素早い行動に、玲央菜はおいてけぼりを食らってしまう。
自分もついていこうと思った時、彼女は風野がいた場所に何かが落ちているのに気づいた。
「これ…?」
それは小さなカギだった。
持ち手の部分に、カギ全体の大きさには似つかわしくないほど大きなアメジストが取りつけられている。
カギそのものは金色に光り輝き、貴金属にうとい玲央菜でも安くはないことがわかる。
「これ…あの人のだよね…」
そうつぶやきながら、彼女はカギの表面を見ては裏面を見て、さらにひっくり返して表面を見た。
錠をかけるにはあまりに小さなそれは、部屋の照明を受けてキラキラと光る。
玲央菜もしばらくの間はその輝きに目を奪われ、瞳を輝かせてじっと見つめているのだった。
>episode17へ続く
→目次へ
「…まあ、それはそれとして、さ」
天馬はそう言いながら、縛られて横たわっている男の体を起こした。
そしてその正面に移動し、玲央菜に背を向ける形をとる。
そうしておいて、少しばかり険しい表情を男へ向けた。
「困るんだよなあ…あまりこの家のことは、公にしたくないんだよ」
「な、なに…?」
天馬の語気が、玲央菜と話していた時とは明らかに変化したのを感じて、男は警戒した表情で彼を見る。
自身が怒った顔を、天馬は玲央菜に見せないようにしている。
それに男は気づいた。
「お…公にしたくねェっつーんならよォ、どっか無人島にでも住んでりゃいいんじゃねーのかな?」
「いやいや、それは不正解だよドロボーさん」
胃痛に耐えながら毒づく男に、天馬は穏やかに言う。
だが険しい表情は消えていない。
「無人島なんかに住んでたら、いざって時に人を呼べないじゃないか」
「だからなんだってんだよ」
「わかってないか。じゃあわかりやすく真正面から問おう」
天馬はそう言って、男に顔をぐっと近づけた。
そして低い声で言う。
「誰に雇われた?」
「……!」
瞬間、男は目を大きく見開いた。
だがすぐに表情をうすら笑いに変え、「何の話だ?」と返した。
しかしその返答に、天馬は納得しない。
それにはこんな理由がある。
「今言ったばかりだけど、俺はこの家の存在を公にはしたくない…おおっぴらにしたくない、と言った方がイメージとして正しいかもしれないけど、とにかくあまり存在を知られたくないわけなんだよ」
「だからなんだっつーんだ」
「つまりそれなりに、隠す努力をしてきたってことさ。ここに住んでない人は、エレベーターが38階まで行かないことなんて知らないし、住んでいる人は39階と40階がこんな家になってるなんて知らない」
「……だから?」
「普通は、ここに入り込もうなんて思わないんだよ…面倒な構造だとわかれば、コソドロはそそくさと逃げるもんだ」
「そりゃオメーの『普通』だろーが。オレにゃ関係ねェ」
「しかもお前、空きっ腹のままここに入り込んだだろ」
天馬はそう言って、一度テーブルの方へ向かう。
すぐに戻ってきたのだが、その手には榊専用ソースが入ったタッパーを持っていた。
「そんな非常時に、わざわざめんどうなつくりをしてるこの家に、わざわざ入り込むかなーと思ってさ」
「お、おいオマエ…なんでそれ持ってきた、おい」
男は、タッパーを見て明らかにおびえている。
自身をひと口で気絶に追いやった榊ソースの味を思い出してか、その額からは脂汗がにじみ出てきた。
一方、天馬はとぼけた口調で男に応答してやる。
「なんでって、そりゃー…腹が減ってるのはかわいそうだと思ってさ。榊特製のソースで和えられた野菜マリネでも食べれば、きっと俺たち仲良くなれると思ってね」
「バカお前、それはバカだろお前…おいやめろ、そのタッパー近づけんじゃねェ!」
榊ソースの威力は絶大で、男はうすら笑いをその顔から強制的に消させられてしまった。
顔全体が焦りで彩られ、思わず周囲に助けを求める。
「お、おいそこのメイド!」
「えっ!?」
急に呼ばれて玲央菜は驚いた。
彼女が反応したことが男に希望を見せたのか、すがるような目で彼女に言う。
「このバカを止めろ! あのタッパーにはやべェモンが入ってんだ! 空きっ腹で…いや腹が普通でも、食ったら一発で死ぬ! やめさせろ!」
「え、あ、でも…」
「……」
天馬は玲央菜の方を見ない。
だが玲央菜は、彼の背中を見て何かを感じた。
「…と、止めない方がよさそう…」
天馬の背中から立ちのぼる何かが、玲央菜に止めることをためらわせた。
男はすぐに玲央菜を説得するのをあきらめ、今度は榊に声をかける。
「おいジジイ! このバカを止めろ! オマエが作ったんだろ、この殺人ソース! 今度食わされたらマジでオレが死ぬ!」
「……」
しかし、天馬の執事である榊が、男の言うことなど聞くはずもない。
ソースのことが玲央菜や男にバレたことがショックでもあるのか、少し顔をうつむけたままで何も反応しなかった。
「おいマジかよ…!」
顔を青くしたのは男である。
もともと味方がいない場所へ侵入しているのだが、今の状況でも味方がまったくいないというのは、正直こたえた。
「…ほら…食わせてやるよ」
しかも、天馬はタッパーをゆっくりと男へ近づけてきている。
ロープで体をぐるぐる巻にされてしまった男には、体をよじらせて逃げる他ない。
だが、縛り方がかなりきついのか、体をよじらせる余裕すらもなかった。
男の脂汗はさらにその量を増し、寒気なのか悪寒なのか体をガタガタと震わせる。
「お、おい、バカマジでやめろってマジで」
「じっとしてろよ、暴れたら鼻に入るかもしれない」
「かもしれない、じゃねーだろオマエ! 何ニヤニヤしてんだ鼻にぶっこむつもりだろテメェ!」
「いやいや、曲りなりにもこれは榊特製の料理だからな…鼻に入れるなんてそんなことは。ふふっ」
「おい何笑ってんだこらァ! やる気だろオマエ、絶対やる気だろ!」
「ふ、ふふっ、ふふふふふふふ…!」
天馬は不気味に笑う。
その異様さは、男だけでなく玲央菜までも震え上がらせていた。
「て、天馬さま、こわい…!」
「怖くない…怖くないよ別に。俺はただ、親睦を深めようとしているだけさ」
天馬は背を向けたまま、おびえる玲央菜に弁解する。
だが表情が見えないので、それが本当かどうかはわからない。
というか、自宅に侵入してきた者と一体どうしてすぐに親睦を深めようと思うだろう?
「……」
そこに思い至った時、玲央菜はもう何も言えなくなった。
そして彼女の様子を見た男は、顔色を土気色に変えながら天馬にこう言った。
「お、おい、ウソだよな? おい、冗談だよな? さすがにマジでそのサラダみてーなもん、オレに食わせたりしねーよな?」
「サラダじゃなくて野菜のマリネ、な。俺も、子どもの頃はイタズラ心でこれを食って、1週間くらい…榊の顔を見るだけで腹を痛くしたもんさ」
「バカバカバカ、そんな経験があるならよくわかってるだろ、空きっ腹のオレがまたそれ食ったらどうなるか! 1回目は気絶したんだぞ!」
「じゃあ今は、完全に空きっ腹ってわけでもないってことだよな。そりゃあよかった。もしかしたらおいしく食べられるかもしれない」
「オマエ、ノーミソ腐ってんじゃねーの…」
「きっとおいしいさ、榊の特製なんだから」
「やめろ…!」
「ほら、あーん」
「ふほほっへ!」
男は唇を閉じたまま、天馬にやめるように言う。
だが天馬は、いつの間にか用意していたトングを手に、野菜のマリネをつかみ上げて男の鼻先へ持っていく。
「おや、口を開けてくれないなら、こちらで香りを楽しんでもらおうかな」
「ふへほ! ふへほほほふふ!」
「ははは、なに言ってるかわかんないな。ほれほれ」
天馬はそう言って、マリネを男の鼻先にくっつける。
その瞬間、男は壊れた。
「ぎゃーーーーーーーーーーー」
思わず口を開けてしまう。
天馬は、そこへマリネを放り込んだ。
「うっ!? ごォふっ、ぐほっ!」
男は盛大にむせ、そして…
真っ白になった。
さらに2時間が経過した。
再度、『榊専用マリネ』を食わされた男は、気絶から立ち直ってすぐに天馬に自身の正体を明かした。
榊ソースの威力は絶大だった、というわけである。
「えーっと…風野 又三郎…変わった名前だな」
「うっせェ…」
風野と名乗った男は、毒づくが元気がない。
二度も榊ソースの辛さで気絶したせいか、胃がやられて腹に力が入らない。
その直接の加害者である天馬は特に気にする様子もなく、風野に再度雇い主を尋ねた。
「通りすがりのドロボーが、わざわざこの家を狙うとはどうしても思えないんだよ。お前は誰に雇われたんだ?」
「このオレが、誰かに雇われて盗みなんざやるわけねーだろ」
「おや、また榊特製のマリネを食いたいのかな?」
「んなわけねーだろバカ野郎! 高層マンションの最上階ってのはなァ、油断してベランダ側のカギを開けてる連中も多いんだ。オレにとっちゃカモなんだよ」
「それはエレベーターで直接最上階まで行ける場合の話だろ? 屋上まで行ってしまえば、最上階のベランダにおりるのは簡単…でも、38階からのぼっていくのは危険すぎる」
「……」
「エレベーターの階層ボタン見ただろ? ここは40階建てだけど、ボタンは38階までしかない…その時にやめようと思うんじゃないのか? 普通」
「だァからそりゃオマエの『普通』だっつってんだろ。建物そのものが特殊であればあるほど、そこには金があるってことじゃねーか…一度やる気になったんなら、簡単にあきらめるわけにはいかね…」
「あ!」
男が話している時に、玲央菜が声をあげた。
何事かと天馬は振り返り、男もそちらを見る。
同時にふたりの視線をいきなり受けて、玲央菜は驚いた。
「あ、そ、その…ごめんなさい」
「なにか、気づいたことでもあるのかい?」
天馬は、玲央菜が声をあげた理由を察して尋ねてやる。
その言葉に彼女はすぐにうなずいた。
「そういえばその人、天馬さまと榊さんのことも知ってるっぽかったです」
「へぇ…」
「ふたりが出て行ったのを知ってて、ここに来たみたいですし…」
玲央菜はそう言いながら風野を見た。
風野は思わぬことを玲央菜にバラされ、悔しそうな腹立たしそうな顔をしている。
だが、一時は無理やりキスまでされそうになった相手である。
玲央菜は風野に同情などしなかった。
「ふたりそろって出て行ったんなら、すぐには帰ってこないって言ってました」
「こ、このバカメイド…!」
「べーっ」
風野が毒づくと、玲央菜は舌を出して反撃する。
そして天馬はというと、再度…マリネが入ったタッパーを手に取っていた。
「もうこれ全部食べるか? 風野」
「だからやめろっつてんだろバカ野朗…! 胃がすげェいてーんだよ! くちびるまわりがずっとビリビリしてんだよ! 全部食ったら確実に死ぬだろ!」
「いやいやそんなことはないさ。なんたって榊は月に二度はこれを食べてる…それでもあんなに元気だ」
天馬は笑顔で榊を指し示すが、榊は今も顔をうつむけている。
風野は当然、それを指摘した。
「なんかガックリきてるじゃねーかジジイ!」
「いやいや、あれは…楽しみにしてたマリネをお前に食われて残念がってるのさ」
「オレだって好きで食ったわけじゃねーよ! 知らなかっただけだ! っていうか残念がってるともまたちがわねーかアレ!?」
「まあまあ、細かいことは気にしないで。さあ、口を開けて…全部食べていいからな」
「や、やめ…」
風野は身をよじるが、どんなに暴れてもロープが緩むことはまったくない。
タッパーが顔の近くまで迫ってくると、さすがに三度目はたまらないと思ったのか…
天馬にこう言いながら、前へと倒れ込んだ。
「わかったー! わかった、わかったって! 言うからそれはやめろぉおお!」
「おっ…」
天馬は、風野にタッパーを近づける手を止めた。
あまりに刺激的な榊ソースの前に、風野はついに敗北を認めた。
タッパーをテーブルに置き、天馬は前に倒れた風野を起こす。
「さあ、答えてもらうぞ…お前を雇ったのは誰だ?」
「お、オレを雇ったのは…」
風野が言いかける。
その時だった。
「うッ!?」
突然、風野は口から泡を吹いた。
それと同時に白目をむいてしまう。
「あ…こりゃマズい」
天馬は瞬時に反応し、ポケットからスマートフォンを取り出す。
すぐさま119番へ電話をかけようとした。
だがこの時、彼の手に何かが当たる。
その衝撃が思いの外強く、天馬はスマートフォンを取り落としてしまった。
「や…やめろ」
「お、お前…」
天馬の手にぶつかったのは、風野の手だった。
泡を吹き、半分白目をむきながらも、彼は天馬の電話を阻止しようとしたようだ。
それが何を意味するのか、天馬はすぐに理解する。
「病院に運ばれちゃ、雇い主に迷惑がかかるってことか。わかったよ、救急車は呼ばないでやる…榊!」
「はっ」
天馬に名を呼ばれた瞬間、榊はいつもの表情を取り戻していた。
ふたりは風野の体を持ち上げて、急いで天馬の寝室へと運んでいった。
「…あ…」
ふたりの素早い行動に、玲央菜はおいてけぼりを食らってしまう。
自分もついていこうと思った時、彼女は風野がいた場所に何かが落ちているのに気づいた。
「これ…?」
それは小さなカギだった。
持ち手の部分に、カギ全体の大きさには似つかわしくないほど大きなアメジストが取りつけられている。
カギそのものは金色に光り輝き、貴金属にうとい玲央菜でも安くはないことがわかる。
「これ…あの人のだよね…」
そうつぶやきながら、彼女はカギの表面を見ては裏面を見て、さらにひっくり返して表面を見た。
錠をかけるにはあまりに小さなそれは、部屋の照明を受けてキラキラと光る。
玲央菜もしばらくの間はその輝きに目を奪われ、瞳を輝かせてじっと見つめているのだった。
>episode17へ続く
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