【本編】悪夢の最期 その7 | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

悪夢の最期 その7

恭一の研究の興味は、完全に征司そのものから離れた。
征司の記憶に現れた「影」が、彼の研究における主要なテーマとなっていた。

切り離された征司の脳と体は、倉庫のような場所に置かれるようになり…
時折メンテナンスのために研究員が入ってくる他は、誰もこなくなった。

当然、恭一が姿を現すこともなくなってしまった。

”……”

征司の視点は動かない。
ただじっと、一点だけを見つめている。

横に寝かされた冷却カプセル。
それに入った自身の肉体。

彼はずっとそれを見つめ続けていた。
カプセルの上部分は透明であり、見慣れたはずの体が見慣れない角度で見えていた。

”ヴァージャ…みんな”

自然とスピーカーから電子音が漏れる。
だが、カプセル内の体は動くことはない。

征司もそれをわかっている。
そして彼自身も、言葉を語ろうと思ったわけではない。

心に浮かんだ言葉が、そのままスピーカーから漏れているというだけのことだった。
それは彼に「とても情けない」と自分を責めさせたが、もはやそれにも慣れるほど…時間が過ぎていた。

”アイツは…もうお前たちが体の中にはいないと言った。でも本当にそうだろうか…アイツは、オレとお前たちのつながりを『異世界に行く前のレベル』でしか知らない”

脳だけではどうしようもないという絶望は、変わらず彼の中を満たしている。
だが、ずっと脳だけの状態で生き続けていることで、考えることだけはできている。

考えることだけは、誰にもコントロールされずに続けることができていた。
征司の自由は、それだけだった。

彼は、唯一の自由を心のままに「使って」いた。
そして思い浮かんだことを、スピーカーが勝手に垂れ流し続けていた。

”アイツは、オレの体を使ってツヴァイなんてものを作り出した…でもそれは『アイツじゃなかった』。明らかに性格が違ってたんだ…あの時はわからなかったけど、あれってお前たちが影響していたんじゃないのか?”

征司の肉体に、恭一の脳細胞を搭載した存在であるツヴァイは、同一人物であるはずの恭一とは性格が異なっていた。
恭一もそれを感じ、自らの駒にせずに早々と自身の細胞を取り出してしまっていた。

そこで導き出されることは、人は脳だけで「その人たりえるわけではない」ということである。
個性を形作るのは脳だけでなく、他の肉体部分も大きく影響してくることとなる。

征司が気にしたのは、その「影響」だった。

”アイツは、ヴァージャのことをプログラムとしか思ってない。今もそうだ。だけどオレは、お前をそれ以上の存在だと思い続けている…異世界で何かがあったらしくてオレはそれを憶えてないけど、この気持ちは変わらない”

異世界で「復活」したヴァージャは、征司の「肉体の声」という存在だった。
そこまでの認識は今の征司にはないが、肉体を失って考え続けることにより、かなり近い部分にまで感覚が戻ってきている。

だからこそ、征司は分断された肉体を今もじっと見つめていた。
そしてその中に、ヴァージャがいると考えることができていた。

”きっと、その体が死なない限り、お前もずっと生き続けるはずなんだ。オレがその体に戻ったなら、お前はきっと憎まれ口を叩きながら…オレの前に現れてくれるはずなんだ”

ヴァージャが、恭一によって生み出された「体内アンテナ」だった時も、幽獄でともに戦いながら恭一にデータを送り続けていたプログラムであった時も、そして肉体の声として復活した時も…

征司はずっと変わらずに、兄のような弟のような、それでいて友人のような感覚で、ヴァージャを思い続けた。
そばに発現していない時でも、心の中ではいつもそばにいた。

能力がどうこう、というのではない。
征司にとって、ヴァージャという存在はいて当たり前であり、いなければ困る存在だった。

そこには、誰にも理解できないほど深い絆が確かにある。
だからこそ、征司はヴァージャが今も肉体の中で生き続けていることを、信じて疑わなかった。

”…今はもう、どうしたらいいのか全然わからない。お前や弥生を助けてやりたいけど、脳だけじゃどうしようもないんだ…でも、このままじゃ終わらない。終わってたまるかよ…!”

そこに自信や展望はない。
固い決意すらもない。

考えることしかできない時間は、ともすればすぐに征司の中を絶望で満たしてしまう。
だがそれが落ち着いた後で、また希望に燃えた思いが復活してくる。

ヴァージャや弥生のことを考えながら、征司は絶望と希望を燃やすことを繰り返していた。
絶望に浸る時間が少しずつ長くなっていることは感じていたが、それをどうすることもできずにいた。

しかし…確かに、そこに絆は存在した。

”ああ…わかってるぜセェジ。お前、そんなとこに閉じ込められてよ…苦しいよな。きっついよな…”

肉体の声たるヴァージャは、確かに征司の体の中で生きていた。
恭一の脳細胞によって全身を支配されている間も、その存在が消えることはなかった。

”あの野郎、相変わらず勘が鋭いっつーか、鋭すぎだ…もう少し時間をかけりゃ、逆にこっちから侵食することだってできたかもしれねーのによ。すぐにツヴァイを、くそったれ脳細胞を取り出しやがったもんだからそれができなかった”

同じ「恭一」でありながら、性格が激しく違っていたツヴァイ。
征司が予測した通り、そこにはヴァージャの存在があった。

ヴァージャの存在を「肉体の声」と認識することができない恭一は、その暗躍に気づくことはなかったが、自らが詰め込んだ「恭一の異細胞」を頭蓋骨から取り出すことで、ツヴァイは活動停止した。

間接的にではあるが、恭一はヴァージャから反撃のチャンスを奪っていたのである。
それをヴァージャは「勘が鋭すぎる」と表現した。

”あと一週間もありゃ、確実だったんだがな…まあいい。頭からっぽじゃねーと、セェジを迎え入れらんねーしな”

ツヴァイを自分の支配下に置いたところで、征司の脳を頭蓋骨の中に戻すには、結局脳を交換する必要があった。
そういう意味では、手間が省けたのではないかとヴァージャは考えている。

だが結局、冷却カプセルに入れられた状態では、そして『彼ひとり』では、頭蓋骨の中に征司の脳を迎え入れることはできない。

”ただ頭開けて脳をぶっ込みゃいい、ってわけじゃねーからな…ある程度の神経は俺がつなぐこともできるが、全部じゃねえ。優秀な脳外科医ってのが、必ずひとりは必要になる…あと、頭開けるんだからそこらへんのサポートもな…”

執刀を担当する者と、補助を担当する者。
最低ふたりは、征司を元に戻すために必要になる。

そして現状では、征司にもヴァージャにもそれを用意する手段がない。
征司は脳だけ取り出された状態であり、ヴァージャは体を冷却された状態でなおかつ、征司がいない状態では体を動かすことはできなかった。

”逆に俺にもあのスピーカーつけてくれりゃ、セェジと会話もできたが…それはしゃーねえか。どうやら俺が『生きてる』ってのはセェジもわかってくれてるみてーだし、今はそれでいいのかもしれねえ”

ヴァージャはそう考えた後で、全身に意識を飛ばす。
偽魔たちの様子を見ていたのだが、その状態は無残なものだった。

”……『壊れてやがる』な”

征司の脳が取り出されたショックによるものなのか、あるいはずっと肉体が冷却されているためなのか、それはわからなかったが、偽魔という個性を形作っていた異細胞は変質し、破壊されていた。

恐らく、ツヴァイを作り出すために「恭一の異細胞」を脳として詰め込まれたことも、偽魔たちにとっては悪影響だったのだろう。
ツヴァイからの命令を拒絶した状態で破壊された偽魔は少なくなかった。

”お前らも苦しかったろうな。最期まで、あの野郎に操られまいとした姿は…立派なもんだぜ”

ヴァージャは敬意を込め、偽魔たちにそんな言葉をかける。
そして、個性を失った「魔人の異細胞」にゆっくりと力をかけていく。

”偽魔としての能力も、個性も失くしちまったお前ら…だが、死んだわけじゃねえ。異細胞は、ここにある…”

個性を失った異細胞に、肉体が働きかけるということ。
このようなことは、異細胞と細胞の関係上、起こるはずのないことである。

だが、ヴァージャと征司、そして偽魔たちの間には密接な結びつきが確かに存在していた。
その絆は物理的にもつながり、ヴァージャと壊れた偽魔たちは少しずつ互いを変質させ始める。

”勘が鋭すぎるのはキツいが、ヒントはもらったぜクソ野郎…てめぇが異細胞から魔人の個性を追い出して『自分の異細胞』とするんなら、俺は壊れた偽魔たちを『セェジの異細胞』に変えてやる…”

体を覆うカプセルによって冷却され、本来の生命維持活動を停止されてもなお、いやだからこそ、ヴァージャは偽魔たちの変質に手を伸ばすことができた。

それはとてもゆっくりで、遅々として進まないと思えてしまうような速度ではあったが…
着実に進み続ける。

”セェジ…今のうちに何度でも絶望してろ。お前は今までがんばりすぎたんだ…たまには絶望したっていい”

肉体を冷やし続けるカプセルは、異常を検知しない。
細胞を絵具、精神を絵画に例えた恭一でさえ、脳を失った肉体の中でヴァージャが行動を開始したとは夢にも思えない。

それは完全に、誰にもわからない感覚だった。
征司とヴァージャだけが認識できるものだった。

そのために、脳から征司の記憶を抽出しようとは考えるが、肉体に同じことをしようとは考えない。
そもそも思いつくことができないのだ。

これにより、ヴァージャの作業は誰にも邪魔されることなく進み続けた。
さらに恭一側で新たな発見があったことも、ヴァージャの邪魔をしない要因となる。

「…これは…!」

脳だけの征司から取り出された記憶。
奇妙な影の正体が、ついに判明した。

研究員のひとりが、その結果を口に出して恭一に言う。

「これ…馬、ですか?」

「ああ、馬だ」

白い紙に印刷されたのは、一頭の馬だった。
確かに四足で立っている姿は「作」の人偏を取った形とよく似ている。

「…今まで我々は見る向きを間違えていたようだな。だが、馬がどうしたというのだ…?」

印刷された馬を眺めながら、恭一は首を傾げる。
すると、プリンタから新たに紙が排出されてきた。

研究員がそれを手に取る。
そして恭一にこう報告した。

「これも馬ですね…向きが違いますが」

「見せろ」

恭一は手を伸ばし、研究員から紙を受け取る。
確かに、報告の通り向きの違う馬の絵がそこにはあった。

さらにプリンタからの排出は続く。
それはなぜか、だんだんと速度を上げ始めた。

「なんだ…?」

「おい、そんなにいらないぞ! プリンタを止めろ!」

「は、はい!」

慌てて女性研究員のひとりが、端末を操作してプリンタに印刷停止の命令を送る。
だが、プリンタはそれを受け付けない。

彼女は、それをそのまま報告するしかなかった。

「駄目です、命令を受け付けません!」

「なんだよメモリがイカれたのか? 電源引っこ抜け! このままじゃ部屋が紙だらけだ!」

別の男性研究員がいら立った口調で言うと、女性研究員は慌てて電源プラグを抜きにコンセントへと向かう。
恭一はちらりとそちらを見たが、特に止めることはしなかった。

プリンタから出てくる紙は、勢いを増す。
紙にはどれも馬が印刷されており、どれも向きが違った状態で描かれていた。

正面の向きで描かれたのは最初の一枚だけだった。
他の紙には、角度を示しているであろう数字と、それに合わせた映像が出力されているばかりである。

「なんだ、これは…?」

ここに至って、ようやく恭一もこの状況の不気味さに気づいた。
その背後では、男性研究員の怒号が飛んでいる。

「おい、何やってる! さっさと電源を抜け!」

「もう抜いてます! さっき抜いたんです、でも…!」

「…なんだと!?」

ここで恭一と男性研究員の声が重なった。
ふたりは同時に女性研究員を見て、彼女が右手に持っている電源プラグを見つめた。

確かに電源は抜かれている。
だが、プリンタに目をやるまでもなく、その駆動音は紙を排出し続けるものだった。

「バカな、プリンタが止まらないだと?」

「別の機器から電源供給してんのか? 何やってる!」

「いえ、そういうことはありません! プリンタが勝手に動いてるとしか…」

「そんなバカな…!」

誰もが驚愕の声をあげた。
バッテリーを持たない電子機器が、電源もなしに動くことなどありえない。

それは研究の「け」の字も知らない子どもでさえ、理解できる理屈である。
だが、その部屋にいる誰もが実際に、電源のない状態で動くプリンタを見ている。

「……どういうことだ…」

こればかりは、恭一にも意味がわからなかった。
当然、機械には「傀儡の王」が効かないため、それを使って止めるということもできない。

だが彼が止めるまでもなく、30分もするとプリンタは動きを止めた。
機器内で紙を詰まらせないため、排紙されたものを取り続けていた研究員が、ホッとした表情でこうつぶやく。

「よかった…やっと止まった」

「……」

恭一はそのつぶやきを聞いた後で、机に置かれた紙を束を見た。
100枚や200枚という量ではなく、かなり大量の紙がそこに積まれていた。

「なんなのだ、これは…これが征司の記憶なのか?」

なぜ電源なしでプリンタが動き続けたのか、ということは考えず、恭一は紙に描かれた馬の映像のことを第一に考えた。
どの紙を見ても、馬の絵とその下に数字が書かれているという体裁は同じだった。

「数字は角度だ…1度ずつ違う」

「これが、ターゲットの記憶の中にあるってわけですか?」

「どうやらそのようだ。しかし、この馬がどうしたというのだ…?」

恭一と男性研究員は、首を傾げながら馬の絵を見ている。
その間、女性研究員と若い男性研究員が、机に積まれた紙の枚数を高さから推し量っていた。

「100、200…1000枚近くないですかこれ」

「度数が書かれてるってことは、360枚でいいはずなのにね…っていうか、今日補充したばっかなのに…」

「あ、じゃあ僕取ってきます。倉庫ですよね」

「おねがーい」

若い男性研究員はうなずいて、補充の紙を持って来るべく部屋から出ていった。
その後ろ姿を眺めた後で、恭一はまた馬の絵を見る。

「征司の記憶にはこの馬がいたということか…? だが、なぜこんなに紙が排出されるに至ったのだ?」

「さ、さあ…向きが1度ずつ違うのは間違いないですから、あいつらが言ってたように360枚でもいいような気はしますけど、何しろ主観の混じった記憶の話ですからねえ…」

「……とにかく、片付けは任せる。それが終わってから分析に移るぞ」

「はい、わかりました。準備しておきます」

男性研究員がそう言ったのを聞いてから、恭一はゆったりとした足取りでその部屋を出ていく。
自動ドアが開いた時、彼の背後でこんな言葉が聞こえた。

「あれ? これ…上向きの絵もあるんですね。これも360度分あるのかな…」

「なんでもいいからまずは片付けろ。分析はその後だ」

「は、はい」

「……」

恭一はその会話を聞き流しながら廊下に出る。
そして背後で自動ドアが閉まる音を聞いた。

プリンタからの排紙の勢いはかなりのもので、床に散らばっているものも少なくはない。
片付けるのにしばらくかかるだろうと考えた恭一は、一度自室で休憩しようとそちらへ向かった。

思わぬことで研究が一時停止されたわけだが、いら立ちを感じることはなかった。
彼はすべてに勝利し、好きな研究をやるだけの毎日を手に入れていたわけで、焦る必要はどこにもなかった。

それに加えて、不測の事態にも対応できるように、意識して自身を落ち着けているという部分もある。
プリンタの誤作動程度で、その精神に波が立つようなことはなかった。

しかし、である。
機械の誤作動ではない異常には、人一倍敏感だった。

「…?」

恭一の足音。
廊下の床を、かかとを鳴らして歩くその足音に混じって、何か別の音が聞こえてくる。

背後に気配は感じない。
恭一は一度立ち止まり、周囲を確認してからもう一度歩き出す。

そしてまた別の音が聞こえてきた時、背後に明らかな気配を感じた。

「…!」

恭一は素早くそちらを見る。
だが、そこには誰もいない。

「なにっ!?」

そう声をあげて、今度は前を見る。
するとそこには大きな何かがいた。

「…な……!?」

恭一といえど、あまりに突拍子もない出来事が起これば、驚きを隠すことができなくなる。
彼の目の前で起こったことは、まさにそれに相応しい出来事だった。

今の今まで、彼の周囲には誰もいないはずだった。
だが今、彼の目の前には馬がいる。

「…なんだと…?」

当然、人の体より大きなその馬は、通路を完全にふさいでしまう。
驚愕する恭一の前で、馬は上唇を裏返らせてニッと歯を見せた。

「ヒヒン」

人間を小馬鹿にしたように、馬は笑う。
だがさすがの恭一も、なぜ突然馬が現れたのかはわからず、ただその顔をじっと見つめるばかりだった。


>その8へ続く