【本編】潮騒は風にさらわれて その10 | 魔人の記

【本編】潮騒は風にさらわれて その10

潮騒は風にさらわれて その10

「……」

レブリエンタ家、本宅。
大食堂。

当主の席に座っているのは恭一だった。
この世界で目立たないように簡素な服を着ているが、そのような服を着る者が座る席ではなかった。

だが誰も、彼をとがめる者はいない。
その周囲には5人のメイドがじっと立ち、彼からの命令を待っている。

そして恭一から見て右前方の席に、本来の当主であるヒュリス・ディストーラ・レブリエンタが座っていた。
だが今や彼は、恭一の能力によって操られた傀儡に他ならない。

「さて、次はどこを…ふふっ、どこを手に入れてくれよう…くふふ」

ヒュリスは楽しげにそう言いながら、赤ワインを口に運ぶ。
それは味わうというよりは、まるでビールを飲むかのように直接のどの奥へ送り込んでしまう飲み方だった。

彼は空になったワイングラスを自分付きのメイドに差し出し、ワインを注がせながら恭一に言う。

「この国を手に入れるには、まだまだ力が足りない…そなたはどこから攻めるのがいいと考える?」

「フン…私としてはどこでも構わん」

恭一はそう言って、ナイフとフォークを置いた。
今しがた分厚いステーキを食べ終えたところで、満足げに息を吐く。

その後でこう続けた。

「ただ、あまり無茶はしないことだ」

「何を言う。そなたがいれば、我らは無敵であろうに」

ヒュリスはそう言いながら笑い、ワインで満たされたグラスに口をつける。
そして一気に飲み干した。

「ぷふゥ~…気分がいい。無敵というのは気分がいいぞ!」

「…戦いもいいが、内政も気をつけておくことだ。1から10まで私が面倒を見る、というわけにもいかないからな」

「わかっている。だがそなたの力のおかげで、併呑したカッシード家の連中も従順だ。今この時に何もしないというようなことがあれば、それは機を逃すということにもなりかねん」

「勢いには乗れ、ということか」

「そういうことだ。まあ、そなたがどこでも構わないと言うのであれば、戦争は私の好きにやらせてもらうとしよう」

「勝手にするがいい。私としてはその後が重要だからな」

「ククク…奴隷どもの命を『使う』実験場など、いくらでも作ってやる。あと半分ほどで、第1棟も出来上がるだろう」

「ならばいい。お前が私との約束を違えぬなら、私はお前に協力しよう」

「ではあらためて、我らの成功に乾杯といこうではないか。はっはっは」

ヒュリスは赤い顔で機嫌よさそうに笑う。
再度空になったグラスにワインを注がせた後で、恭一を見つめつつグラスを少しだけ上に掲げる。

「ふ…いいだろう」

恭一も小さく笑い、残っていたワインを先に飲んでからメイドに新しい分を注がせる。
そしてヒュリスの乾杯に応えるように、グラスを少しだけ上に掲げた。

直後。


ピシィ!


「!?」

恭一とヒュリスが持っていたグラスが、その上半分が切れた。
割れたというのではない、一条の線が横に入り、切れたのである。

「う!」

「な、なんだ!?」

当然、切れたところからワインがこぼれ、ふたりの服を汚す。
恭一は簡素な服だったが、ヒュリスが着ていたのは当主らしい豪奢なものだったため、メイドたちが殺到した。

「これは…!」

「恭一さま、お着替えを…」

「…ああ」

メイドに言われ、恭一は一度グラスの下半分をテーブルに置いた。
着替えさせられる中で、視界が服によって一瞬遮断され、脱がされたところでまた視界が戻る。

だがどう見ても、グラスはふたつに「切れて」いた。
どんなに鋭利な刃物でも、ガラス製のグラスにヒビひとつ入れることなく「切る」というのは、そうそうできることではない。

「……」

鋭利な刃物だけあってもグラスを切るということなどは不可能であり、また鋭利な刃物の威力を十二分に発揮できる使い手もこの場所にはいない。

いたとしても、恭一に敵対する者ではない。
少なくともこの本宅にいる者たちはすべて、当主のヒュリスでさえも「傀儡の王」によって認識を操られている。

ヒュリスがあたかも普通に恭一と会話しているのは、彼の場合は「傀儡の王」の効きが弱められているためだった。
ある程度操れば自らの道具となる性格だったため、危険がない程度まで能力のレベルを下げている。

しかし中にはそうでない者もおり、ヒュリスにもともと忠誠など誓うはずもないカッシード家の親衛騎士たちなどは、かなり効きを強める必要があった。

現時点ではまだ「傀儡の王」の能力を込めた異細胞を他人に埋め込んで操る、ということはできていなかった。
そのため、今は何千人という人間を意のままに操るということはできないのだが…

「…なんだ…?」

この邸宅の中に、暗殺者など入れない程度には「傀儡の王」の力は行き渡っているはずだった。
だというのに突然ワイングラスが「切れた」という事態が起きたのは、恭一にとって驚愕すべきことだった。

「この中にいる者ではない…では一体なぜ、このようなことが…」

「すまない恭一。私としたことが、グラスの管理さえできない下僕どもを邸宅に入れてしまったようだ」

着替え終わったヒュリスは、神妙な面持ちで恭一にそう言った。
心底すまないと思っているのか、深々と頭を下げる。

「下僕どもには相応の責任を取らせよう。その家族の命も、お前の好きにするがいい」

「ああ、わかった…我が研究の材料とさせてもらおう」

恭一はさらりとそう言った。
だが、その表情は明るくならない。

ヒュリスはそんな彼の顔を覗き込んだ。

「恭一…? どうした、何か気になることでもあるのか?」

「いや…なんでもない」

ヒュリスの問いに、恭一はそう答えた。
だが彼は体勢を変えず、さらに覗き込んでくる。

「…恭一?」

「なんでもないと言っている」

ヒュリスの態度を鬱陶しいと思った恭一は、少し口調を荒げてそう言った。
だが直後、ヒュリスは震える手であらためて恭一の顔を指さした。

「い、いや、違う。そなた、その傷は…どうした?」

「…なに?」

恭一は意味がわからず、ヒュリスに指をさされた場所、左頬に手を添える。
すると


べちょり


「…!?」

何かねばつくものがくっついた感触があった。
慌てて左手を引いて、何がくっついたのかを見る。

「こ、これはッ!?」

それは血だった。
間違いなく、恭一の血だった。

「血だと…?」

「魔法ではないようだが…もし魔法なら、他のものも切れているはずだ」

「風の魔法ではないということか」

「そうだ。風属性の魔法によって起こる真空波であるなら、もっと被害は大きい。そしてこの家で魔法を使うことはできない…寝首をかかれては困るからな」

「……だとするなら…」

恭一は立ち上がった。
その顔は青い。

止血しようとメイドが彼を呼んだが、それには及ばないと彼は大食堂を出ていった。
広く、窓の枠さえ光り輝く廊下を歩く恭一の顔は、これまでになく青かった。

「何かが起こったのだ…私の運命をひっくり返すような何かが!」

”…考えすぎではないのか”

恭一の中に巣食う魔人エンディクワラが、彼の左手に顔を作って言葉をしゃべる。
しかしその言葉に、恭一は首を横に振った。

「私はこれまで、徹底的に危険を排除しつつ事を進めてきた。それは、とるにたらないことで足元をすくわれ、それで失敗することを嫌ったからだ! それが功を奏して私はすべての戦いで勝ってきた…しかし」

”何かが起こったとして、汝の薄皮を切った程度であろう。『傀儡の王』は無敵なり。それを超える能力は存在せぬ”

「私もそう考える。そしてだからこそ油断せず、さらに完璧であろうとした…だが、ここは地球とは違う異世界…何かが狂い始めたとしても、何の不思議もない!」

恭一の生存本能が、何かを敏感に感じ取っている。
そしてまた彼自身も、それが間違いではないことを理解している。

「私の運命を狂わせる可能性を持つ者、それは征司しか考えられないが…今の征司にそこまでの力があるとも思えん。一体何が起こっているのか?」

考え込みながら、恭一は廊下を進む。
そしてある部屋の前で立ち止まり、ドアを開けて中に入った。

部屋の中には花をモチーフにしたかわいらしい調度品が数多く置かれており、部屋の奥には天蓋つきベッドもある。
そこには、ミュゼが安らかな顔で眠っていた。

その寝顔を見つめながら、恭一はつぶやく。

「急がねばならん…この娘の能力を引き出し、我が戦力としなければ…!」

危機感に染め上げられた恭一の言葉で起きることもなく、ミュゼはただただ眠りに落ちている。
魔人はどこか呆れた表情をした後で、手に浮かび上がらせた顔を消した。

やがて、恭一の背中から青白い「手」が72本現れる。
それは施設にいた時に、彼が征司から奪い取った「ソロモンの魔手」だった。

すべてを侵し、すべてを変える力は征司だけが持つものではない。
やがて72本の魔手は素早く動いて、眠るミュゼの体内へと侵入していくのだった。


「……」

征司は馬に乗っていた。
馬は荒野を疾走していた。

彼を殺そうとした10人の男たちは、集落に残してきた。
自分が殺すのもどうかと思ったのか、征司は彼らを井戸の周囲に外向きで縛り付けた。

「お、おい! まさかこのままどっかいかねーよな!?」

男たちのリーダーは、慌てた声で征司にそう尋ねた。
そんな彼に、そして返答を待ちわびる他の男たちに向かって、征司はこう言った。

「あんたたちはオレを殺そうとした。実際オレは死にかけた…だけどおかげでオレは力を手に入れたし死ななかった。それはとても運が良かった」

「…だ、だからなんなんだよ?」

「あんたたちも、運が良かったら生き残れるはずだ」

「え」

「人としてやっちゃいけないことをしてるみたいだけど、それをオレが裁くべきなのかっていうと、それはちょっと違う気がするからさ」

「な、なに言ってんだ? ちょっと?」

「がんばってくれ」

「お、おい? ちょっとまて、おーい?」

呼びかける男たちの声を無視して、征司は馬に乗った。
10本の曲刀は、ソロモンの魔手を使って変化させ、ただの鉱石にしてしまった。

征司は、彼らからは何も取らなかった。
財布もそのままにしておいたし、ただ武器になりそうなものだけを鉱石に溶かし込んで使えなくした。

井戸の外向きに縛り付けたため、そのままでは水が飲めない。
だが協力しあえば、意外とすぐに水が飲めるかもしれない。

征司はもう、そこまでは関知しなかった。
ただ魔手を使って縛り上げ、そこへ放置した。

(これでよかったのか悪かったのか、オレにはわからない。でも…)

強い向かい風が、征司の頬に当たる。
なでるという強さではない。

(オレの前で人が死ぬのは、もうイヤだったんだ)

馬に行き先を指示した覚えはなかった。
征司が乗ると、馬は自然と走り出した。

馬に乗ったことがないはずの征司だったが、ヴァージャが運動神経をサポートすることで、乗馬を趣味とする者と同じ程度には乗れるようになっている。

たまに砂が混じる向かい風は、目の中に入って征司に激痛を訴える。
だが目を閉じて視界が闇に閉ざされても、彼は手綱をしっかり握って姿勢を崩さない。

(オレの前で誰かが死ぬとすれば、それは…たったひとり)

背中から伸ばした「手」で目の中の砂粒を取り、今度は薄く目を開ける。
砂は目に入らず、今度は頬を叩いた。

砂粒の角が頬をひりつかせる。
馬の疾走はそれだけ速度が速かった。

征司にはわかっている。
馬が今、どこへ向かおうとしているのかを。

(オレの前で誰かが死ぬとすれば、それはお前だけだ…加賀谷 恭一!)

不思議な馬の正体が何者なのか、ということに関しては、征司はもう考えなかった。
彼はただ、来る恭一との最終決戦に向けて、再びその闘志を燃え上がらせるばかりだった。


>新章へ続く

>まとめへ続く