【本編】潮騒は風にさらわれて その9 | 魔人の記

【本編】潮騒は風にさらわれて その9

潮騒は風にさらわれて その9

(…何が起きているんだ? これは…なんだ?)

征司は曲刀で腹を刺され、生死の境にいた。
その状態が視力を失わせ、彼に闇を見せていた。

闇は、彼にこれまでの記憶を見せていた。
もちろん、ロダフスやカリスを殺されたことも、恭一が彼らを殺したことももう一度見ることになった。

だが今の征司には、恭一に対する憎悪がなくなってしまっていた。
それよりも気になったのが、これまでの記憶が終わった後に見えた「彼女」の姿だった。

(なんであの人が見えたんだ?)

地球に残してきた弥生の姿が見えた。
異世界と地球をつなぐ通信手段など、当然ながら存在しないというのに、である。

間違いなく、それは過去の記憶ではなかった。
今、現在を生きるふたりを、何かがつないだのである。

そして彼女は、自らが持つ能力によって彼を「見つけた」。
彼が普通の状態でないことをすぐに察知したのだろう、さらに能力を使って彼が失ってしまったものを征司の代わりに彼女が「見つけた」のである。

”セェジ、セェジ! そのまま寝るんじゃねーぞ、寝たら怒るからな! 起きるんだ、起きやがれくそったれェ!”

”傷は少しずつふさがっていますが…あまりに遅すぎます! 早く目を覚ましてください、我らが主人よ!”

(ヴァージャ、アスタロト…)

生死の境にいる征司の視界に、ヴァージャとアスタロトの姿は見えている。
ヴァージャは右前方に、アスタロトと偽魔たちは左前方にいた。

だがわからないのは、征司を含めた三者の中央に突然現れたものである。

(なんだ、これ…)

漆黒の刃と柄。
鍔はなく、刀身も全長も大きなものではない。

まさに「黒いナイフ」だった。
それは闇の中に静かに浮かび、動くこともなくただそこにあった。

征司は、それを見つめながらこんなことを思う。

(オレは…もうダメなんじゃないかと思ってた。でも、今もまだ『オレはオレ』だ…)

彼は、自分自身を認識できていることを確認している。
それはつまり、まだ死んでいないことを彼が理解した、ということを意味している。

(『黒いナイフ』…確か、アイツが何か話をしてたような…何かに書かれてたのか? そこらへんは忘れたけど…それがこれなのか?)

自分ですら全貌を理解することができない自身を「闇」に例え、その中に眠る才能を「黒いナイフ」にたとえた恭一。

使いこなせば運命さえも切り裂く力を持つが、掴み損ねれば手指をすべて斬り落とされ、二度と触れることさえできなくなるとした。

だがそれは「たとえ」である。
たとえにも様々な種類があるが、どの種類のたとえにしても「黒いナイフは実物としては存在しない」というのが共通しているはずなのだ。

だが征司の目の前には、それが見えている。
彼自身の今の状態が生死の境にいるような状態であり、黒いナイフも「実物」とは少し違う状態ではあるが、形として今の征司にはそれが見えているのだ。

(これが、本当にアイツが言ってた『黒いナイフ』なら…)

恭一が考えだした「たとえ」を征司が認識し、数々の戦いの中で得たものが作用して「かたち」として生まれ出る。
生まれ出ただけではなく、弥生の能力によって征司自身が見つけるに至る。

(これをつかめば、オレは…)

見つけ出された「黒いナイフ」は、征司の感覚と今つながりつつある。
彼は倒れた状態のまま、右手をそちらに向かって伸ばした。

(オレは、アイツに……!)

歯を食いしばり、力の限り手を伸ばすその姿は、もはや死の誘惑に囚われた者の姿ではない。
征司は、自分でも知らず知らずのうちに必死になって、「黒いナイフ」へ手を伸ばし…

それを掴んだ。
瞬間。

”…うっ!?”

”こ、これはっ!?”

征司を助けようと躍起になっていたヴァージャとアスタロトが、ほぼ同時に声をあげる。
そして「黒いナイフ」を掴んだ征司の方を見た。

精神と肉体と。
そして魔人の異細胞が、ここにまたひとつにまとまり、さらに…

征司は新たな感覚を得ていた。
この生死の境において、彼が得た感覚。

それは。

(う…!)

止まりかけた循環のエネルギー。
それが、再度動き始める。

失われかけた生命が、息を吹き返す。
刺されたことで体外へ出てしまった血液が、温められた鉛のように地面から浮き上がり、雑菌を消し飛ばしながら体内へと戻っていく。

”こ、これは…この感覚はッ!?”

驚愕したアスタロトは叫んだ。
その声はあまりに大きく、ヴァージャは彼に問いかけることさえ忘れるほど驚かされた。

”おおお…! 我らが主人よ、この感覚…! いまだかつて何人たりとも知ることのなかった、この感覚…!”

いつの間にか、征司の右手に添うように何本もの手が現れていた。
その根元は肩ではなく、背中である。

72本の手が征司の右手に添い、黒いナイフに触れている。
それはただの「手」ではなく、ソロモンの魔手。

『すべてを侵し、すべてを変える』もの。

”我らが主人は知った! 苦悶と悲劇の果てに、ついに知ったのだ!”

アスタロトのそばにいた偽魔たち。
彼らは通常時は3頭身だったが、それが次々に8頭身へと戻る。

悪魔をモチーフとした本来の姿へと戻り、征司の周囲を取り囲む。
そして彼と同じように、黒いナイフへ手を伸ばす。

”どんなに強靭で高潔な人間であろうと知ることのなかった『死』を! 意思の力など問答無用で殺す『現象でしかなかったもの』を! 我らが主人はついに『識(し)った』!”

アスタロトがそう言うと、今度は偽魔ガープが言葉を続ける。

”どのような叡智も、死から逃れること能わず。しかし我らが主人は死から逃れず、死を識るに至れり。即ち全ての叡智を超え、全ての王を従える存在となりけり”

そしてこの後は、偽魔全員が言葉を合わせた。

”我ら偽魔、偽りの悪魔なるが、偽りであるが故に真の王に仕えん”

”賢王ソロモンの名を冠する魔手、今こそ究極の力を開放し…”

”『死をも侵し、死をも変え』、我らが主人を王へと昇華せしむ!”

偽魔たちが言葉を終えると、征司の視界から闇が消える。
代わりに現れたのは現実の、夜の闇だった。

「…!」

刺されて倒れていたはずの征司は、いつの間にか立ち上がっていた。
目の前には曲刀を抜いた男たちがいるが、征司を見ていない。

なぜかそろって、征司から向かって左方向を向いていた。
征司もそちらを見たが、特に何かがあるようには見えなかった。

「……!」

その後で、征司は自身が小さなナイフを持っていることに気づく。
それは生死の境で見た「黒いナイフ」であり、物体ではなかったはずのものだった。

存在しないはずのものを手に持っていることで、征司は自分に何が起こったのかをはっきりと感じ取ることができる。

(オレは…掴みとったんだ、『黒いナイフ』を…! そして『今も生きてる』!)

「え…!?」

男たちの驚きの声を聞く。
征司を刺した者たちが、驚愕の顔で彼を見ていた。

「お、お前、なんで立ってる…!?」

「な、なんだってんだ? さっきは逃げた馬が光って、今度は殺したはずのガキが立ち上がっ…?」

「はああッ!」

征司は気合の雄叫びをあげる。
そして手にした黒いナイフを横に振った。


ピシィ!


「!?」

征司が黒いナイフを横に振っただけで、まるで新品のカッターナイフで紙を切るかのように、男たちの曲刀が切れてしまった。

刃が地面に落ちて音を立てるのを聞いて、男たちはようやく事態を飲み込む。

「な、なんだぁあ!?」

「や、刃が…逆に刃が切れちまうなんて、なんだこれ…」

「お前…! いつの間にそんな…っていうかなんでお前生きてんだァ!?」

事態は飲み込んだものの、理解が追いついているわけではない。
突然のことに、男たちは大混乱に陥った。

だが曲刀を持っているのはまだ6人いるため、負けたとは思っていないらしい。
混乱しながらも敵は間違えず、征司に向かって走り込んできた。

「うっ、うおおおおっ!」

「死ねやクソガキィ!」

「……」

向かってくる男たちを、征司はじっと見つめている。
彼らが曲刀を振り上げたところで、背中へ意識を飛ばす。

すると、背中から72本の「手」が現れ、曲刀を振り上げた男たちを殴り飛ばした。
これまで「手」の色は青白く半透明だったが、今は黒く染め上げられている。

征司はそれを見ながら、やけに冷静にこう思った。

(オレが『黒いナイフ』をつかんだから…『手』の色も変わったのか)

そして右手にある黒いナイフを見る。
それはゆっくりと、手の中に溶け込んで消えていった。

「……」

黒いナイフが右手の中に消えたのを確認すると、征司は顔を上げた。
その頃にはもう、『72本の黒い手』によって男全員が叩きのめされてしまっていた。

「ぐ、う、うぅ…」

「なん…だよ、これ…意味わかんねえ…」

男たちにしてみれば、殺したはずの青年が突然復活して自分たちを倒すという、意味不明な展開であっただろう。
しかし、意味不明であろうと彼らが負けたという事実は、厳然と存在している。

死も本来はそうであるはずだった。
誰がどう願おうと、どれだけ良い事をしてきていようと、死ぬ時は死ぬものなのである。

その事実は厳然と存在するはずだった。
だがここに、ただひとり…その事実から免れる者が出現した。

戦いに次ぐ戦い、悲劇に次ぐ悲劇。
それは彼の心をいたく傷つけて、時には発狂寸前のところにまで追い詰めた。

しかし、だからこそ彼は「認識」できたのだ。
生から死へ向かう時に何が起こるのか、死とは何なのかを。

それこそが征司の「黒いナイフ」、つまり運命さえ切り裂く才能だった。
死を認識した彼は、「すべてを侵し、すべてを変える」ソロモンの魔手により、死を超えた存在になった。

「……」

(馬、か…さっき誰か、馬が光ったって言ってたな)

征司は、馬が逃げた方角を見た。
そして、先程起きた「理解できないこと」を思い出す。

(あの馬…もしかしたら、とんでもない別の何かだったのかもしれない。あの人がオレを見つけられたのも、その何かが…力を貸してくれたのかもしれない)

弥生が、どれだけ強力な「見つける力」を持っていたとしても、異世界にいる征司を見つけられたのは今回だけだった。

彼の存在を感じるとすぐさま能力を使ったことからして、彼女がもう征司のことを忘れていたとは考えにくい。

つまり、征司が異世界に来てから、彼女は最低でも何度かは「見つける力」で彼を探したことがある、ということだった。
それで見つけられなかったのに、今回だけ見つけられた理由がわからない。

征司はその部分から、自分たちに誰かが力を貸したのではないかと考えた。
そしてそれは、なんとなく正解なような気がしていた。

「…ん?」

ふと、蹄の音が聞こえてくる。
征司が振り返ると、そこには逃げたはずの馬がいた。

「ぶるるん」

「なんだよ…お前、逃げたんじゃなかったのか?」

「ぶるん」

鼻を鳴らしながら、馬は首を横に振る。
それはまるで、征司の言葉に応答しているようでもある。

「……」

征司はふと、この馬に質問をしてみようと考えた。
問うてみたのはこんな内容である。

「もしかしてお前、本当は…馬じゃないんじゃないのか?」

「ぶるるん」

征司の問いに馬は鼻を鳴らし、上唇をめくってみせた。
その仕草に彼は小さく笑う。

「なんだそれ、バカにしてんのか」

「ぶるん」

「あははっ、なんだよお前。変なヤツ」

征司は笑った。
少しだけ大きな声で笑った。

死の淵から蘇った征司は、この時だけはいろんなものを忘れて笑っていた。
夜の闇はまだ深かったが、彼が見てきた闇よりかは数段明るく、そして空に浮かぶ星々は美しかった。


>その10へ続く