【本編】潮騒は風にさらわれて その7 | 魔人の記

【本編】潮騒は風にさらわれて その7

潮騒は風にさらわれて その7

「う……」

何回目か、何十回目か、何百回目か。
細かい数はわからないが、征司は目を覚ました。

辺りは暗く、頬をなでる風は冷たい。
その風が体に触れると、頬よりも体の方が涼しく感じることに気づいた。

服が濡れているのだ。

(汗…?)

肉体的と精神的な苦痛により悶えた彼は、その服にかなりの量の汗を染みこませていた。
だが今感じる汗は、それとは若干種類が違う。

(暑い……)

あたたかく、やわらかいものに囲まれて寝ていたようだ。
少しだけ何らかの臭みを感じる。

征司が体を起こしてみると、それは馬の腹だった。
自分のそばに馬が寝そべっており、彼はいつの間にかその腹を枕にして寝ていたらしい。

何らかの臭みというのは、馬が持つ獣臭さだった。
それに気づいた征司は一度前方を見た後で、また馬が寝ている後方を見た。

「ぶふおお、ふおおお」

馬はいびきをかいている。
その姿を征司は、額ににじんだ汗を手の甲で拭いながら見ていた。

「……」

と、たった今汗を拭った手を見る。
それは右手であり、前に起きていた時に自ら叩き折ってしまったはずだった。

今は骨が修復され、痛みもない。

(…痛く…ない……)

そしてさらに征司は、全身の痛みが消えていることに気づく。
筋肉が勝手に痙攣、収縮することもなく、激痛を伝えてくることもなかった。

それに気づいた征司は、痛みに苦しめられることがなくなったと感じてホッとする。
だがその直後、またその表情は暗くなる。

(オレは…死ぬべきだったのに、生きてる…)

そう思いながら、いびきをかいて寝る馬を見つめる。
こうして目覚める前、意識を失う直前に何があったのかを思い出す。

(…死のうとしたのに、オレがそうしたせいでサソリが1匹…死んでしまった。この馬はオレを…なんでかはわかんないが…助けてくれたんだな。でも、オレがそばにいたらこの馬もきっと死ぬんだ)

そう思いながら吐いた息は、胃の奥底から昇ってきたような深い息だった。
馬から目を離し、前方へと向き直る。

そしてゆっくりと立ち上がった。
ここまで動いても、痛みはもう現れない。

(歩けるな…)

そしてゆっくりと歩き出す。
馬が寝ている間に、できるだけ音を立てずにその場を去った。

どう進めばいいのかは、全く見当もつかなかった。
そもそもこの荒地がどこなのかさえ、征司にはわからなかった。

ヴァージャや偽魔たちの声は聞こえず、ただ彼自身の心の声と、鼓膜を震わせる音だけが「聞こえて」いる。
遠くで風の鳴く音が響く以外は、静かな場所を彼は歩いていた。

「……」

1歩、2歩と何の気なしに歩く。
途中から、その音が少しだけ重く聞こえるようになる。

「………」

方角も何も気にせず、ただ歩く。
すると、征司は突然後ろを向いた。

「…なんだよお前…ついてくるなよ」

「ぶるるん」

征司の背後には、いつの間にか馬がいた。
彼が歩くと、その速度に合わせて馬もそっと蹄を乾いた地面に置いていく。

歩く音が途中から重く聞こえるようになったのは、征司の歩く音に馬が自身の歩行を重ねていたからだった。
蹄特有の音がしなかったのは、それだけ静かに歩いているためだった。

「オレについてきたって、ロクなことはないんだ…お前も死んじゃうんだぞ」

「ぶるるん」

「エサだって持ってないんだ…早くどこでも好きなとこに逃げろよ」

征司はそう言って、少し早足になる。
すると馬は、それに合わせて静かに歩く。

「……ついてくるなって」

征司がいらだった様子で言う。
しかし馬は知ったことではないのか、上唇を裏返してみせた。

「なんだそれ…お前、オレをバカにしてるのか」

「ぶるるん」

馬はそうだとでも言いたげに、何度か上唇を戻しては裏返す。
それにカチンときた征司は、もう何も言わずに早足で歩き出した。

しかしすぐに、彼は体調の変化を思い知らされる。
馬とのんびり会話をしている場合ではなかった。

(くそ…すごくノドが渇いた…)

汗も涙も嫌というほど絞られた征司の体は、水分を欲していた。
風は冷たいが乾燥しているせいで、渇きはさらに強まってしまう。

(どっか、川か何かないのか…)

歩きながら周囲を見てみるが、荒地には岩と砂、石と乾いた風しかない。
地面がひび割れるほどではないにしろ、かなり乾燥した場所であるようだ。

一度渇きを意識した肉体は、休息に征司を急かし始めた。

(ノドが渇いてしょうがない…! くそ、どこかに水は…水はないのか!)

馬をまくために早足で歩きながら、暗い荒地を見回して水を探す。
そんなことをしばらくしていたが、ふと彼は何かに気づいた。

だがそれは、水場を見つめたというわけではない。
自分が何をしているかに気づいたというだけだった。

(なんだ…なんだよオレ。死にたいんじゃなかったのかよ)

そう思いながらも、足は止まらない。
以前、アージスタル号に乗り込む前に感じた渇きよりも、今回の方が渇きが強い。

つまり、危機の度合いとしては今の方が上なのである。
死にたいはずの征司は、死にたいはずであるのに、足を止めて渇きをそのまま受け入れるということができなかった。

(オレのそばにいたら、みんなが死ぬ。新しく誰かが死ぬ。だからオレが死ねばいいって、オレが死ねば他の誰かが死ぬことはないって…そう思ったんじゃないのか!)

じっとしていれば、やがて渇きで征司は死ぬだろう。
だが今、征司は動いている。

その体は水場を探しているし、その精神は体を止めることをしない。
つまり精神もまた、水場を探していた。

(死にたいって言いながら、オレはなんで水がほしいってずっと歩いてるんだ…おかしいだろ)

征司自身も、論理が破綻しているのはわかっている。
わかっているのだが、渇きで死ぬということを受け入れることはできない。

(結局のところ、オレは…オレだけでも生きてたいって、死にたくないって…思うばっかりなんだよな)

新たな自己嫌悪が、征司の心をちくりと刺す。
だがその自己嫌悪でさえ、渇きを癒したいという本能の前には存在が霞んでしまう。

さらに、夜の荒野で灯りを見つけた時には、そんな嫌悪感は簡単に消し飛んでしまった。
灯りを見た瞬間、彼は近くの岩場に身を隠した。

(灯りだ…! 誰かいるのか!)

荒野の一角に、10ほどのテントが建てられた集落らしき場所があった。
壁はないが、入口らしき場所に松明をくくりつける棒があり、炎は明々と燃えている。

だが、その向こうには誰もいないようだ。
征司が周囲をうかがうと、背後に馬がいる以外に何らかの生物の気配はない。

(誰かいて、でも今は誰もいない…!)

自然と、征司は岩陰から出る。
そして集落の中へ、迷うことなく入っていった。

「……」

集落に入ってからも警戒はしてみるのだが、やはり人や獣の気配はない。
松明がついていることで人がいることは間違いないが、今はどこかへ出ているようだ。

(今がチャンスだ…水だけ、少しだけもらって…!)

征司はそう思い、集落の奥へと向かう。
テントの中に入らないのは、ぴっちり閉じられたテントを開けるよりも前に、確かめておくべきことがあったからである。

そして「それ」は、すぐに見つかった。

(あったぞ…井戸だ!)

集落の中央奥、テントに囲まれたその場所に、井戸はあった。
粗末な作りではあるが、周囲の地面が濡れていることから涸れていないことはすぐにわかる。

(少しだけ…少しだけ…!)

征司はそう思いながら、井戸のそばにある金属製のバケツを中へ投げ入れた。
バケツの取っ手にはロープがくくりつけられており、それが井戸真上の滑車とつながっている。

征司は、落としたバケツではないロープを掴み、それを引き上げ始めた。
ロープはかなり重く感じられ、その先に水をたたえたもうひとつのバケツがあることを容易に想像させる。

「ふっ、くっ、くううっ」

征司は歯を食いしばりながら、ロープをそのまま引き上げていく。
彼から死角になる場所に、小さく重い石があるのに気づかず、またそれを重りとしてバケツに入れてまず落とすことを知らないまま、彼はしゃにむにロープを引き上げていった。

果たして、もうひとつのバケツが闇の底から現れる。
その表面が揺らめいて見えるのは、間違いなくバケツに水が満たされていることの証だった。

(水だ!)

征司は歓喜し、重さも忘れてロープを引き上げる。
そしてバケツを上まで上げたところで、我を忘れてそのバケツに口をつけた。

わざわざコップに注ぐなどということは考えられなかった。

「んぐっ、んぐっ、んぐっ」

流れこんでくる水は冷たく、そして清涼であった。
アージスタル号の元奴隷部屋で飲んだカビ臭い水とは、雲泥の差であった。

(うまい…水が、水がこんなにうまいなんて!)

口から食道、胃にかけて、さらにはその先へも冷たい水がしみこんでいくのがわかった。
風は冷たくともすれば寒かったが、清涼な水によって感じる冷たさはそれとは全く異質のものであり、とてつもない快感を彼にもたらした。

「んぐっ…はあ、はあ、はあ…」

(も、もう飲めない…)

さすがに、バケツに満たされた水を全て飲み干すことはできなかった。
飲み疲れてそれを地面に置くと、馬が寄ってきて水を飲み始める。

(ああ…そうか、お前もノドが渇いてたんだな…)

そう思いながら、征司は馬が水を飲んでいる様子を見つめる。
両手を使えないため征司ほど豪快には飲めなかったが、それでも忙しく水を舐めとるように飲んでいた。

「はー…」

征司はその場に座り込み、少し体を反らせた状態で両手を後ろに置いて体を支える。
井戸には屋根があったが、そちらは見ずにその隣にある夜空を見上げた。

(なんだかんだ言って、飲んじゃったな…)

闇を彩る星々を眺めながら、征司はそう思った。
彼は、渇きで死ぬことを選ぶことはできなかった。

(結局…オレは自分がかわいいんだな。オレがいたら、誰かが死ぬってわかってても…オレ自身は、オレだけは死にたくないんだ)

それは、生物としては当然の感覚である。
だが征司はそれを自嘲した。

どこか恥ずかしいことだと彼は考えていた。
死にたいと言いながら死に切れない自分を、有言実行できない人間だと思った。

その情けなさに、小さく笑うことをこらえきれなかった。
しかしすぐに、その笑顔は凍りつくことになる。

「…ほぅ…こりゃあ驚いた」

松明がある方から声が聞こえた。
征司は思わず素早く立ち上がりながらそちらを見る。

すると、そこには10人ほどの男がいた。
先頭の男が、入口のものとはまた別の松明を持って、征司の方へと向けている。

「こんな荒地にお客さんとはなァ…」

「ガキか? 珍しいな」

「馬いるぜ」

「なかなかの馬だなありゃ」

リーダーらしき男が口を開くと、他の男たちも口々にそんなことを言う。
どうも興味は征司よりも、馬に向いているらしい。

リーダーらしき男は、征司に向かってこう続けた。

「だがオマエ、客ってわけじゃなさそうだな? 井戸の前にいてくつろいでたってことは、水を飲んだってことで…つまり水泥棒だ」

「……」

(まずい…)

「違うならそう言ってくれ。こっちの間違いってこともある」

(あの目は、もう『わかってる』って目だ…!)

リーダーらしき男は、わざと「違うならそう言え」と征司に言ってきている。
だがもはや、状況は動かし難い。

この場にいる誰もが、もうわかっていた。
当然、征司自身もわかっている。

(オレは水泥棒だ…わかってる。どうにかここを突破するしかない)

死にたいと考えていた征司だが、今はこの状況を突破することを考えている。
自分自身でも矛盾だらけな言動を自覚しているが、かといってそれを改めようという気にもなれない。

(相手は10人。数は結構多いが、どうにもならないって数じゃない。まずは72本の『手』でおどかして…)

そう思い、征司は背中へと意識を飛ばした。
今まで戦ってきたのと同じように、背中から青白い手が

出ない。

(…? おい?)

出そうとしている感覚はある。
だが、出てこない。

(アスタロト? どうした、何があった)

偽魔アスタロトへ呼びかけてみる。
だが、彼に返答する者はいない。

視界は、やけにすっきりと晴れている。
賑やかに跳ね回る偽魔たちの姿は、そこにはない。

(ヴァージャ?)

彼の肉体の声たる、ヴァージャを呼んでみる。
だが、最も近くで一緒に戦ってきたはずの「親友」でさえも、征司の視界に姿を現さない。

「………?」

(なんだ…? 一体、何があったんだ?)

ヴァージャや偽魔たちの声は、しばらく前から征司には届かなくなっていた。
そして今、逆に征司の声もヴァージャたちに届かなくなっている。

(なんで出てこないんだ? なんで…)

状況を理解できない征司。
ふと、砂が散らばった地面を凝視してみる。

だが、砂は一粒たりとも動かない。
100グラム分どころか、本当に一粒も動くことがなかった。

瞬間、征司の背中が一気に寒くなる。
原因はわからないが、彼は自分の身に何が起こったのかを悟ったのだ。

(能力が…全部、使えなくなってる……!)

そしてそこへ、集落のリーダーらしき男が笑いながらこう言った。

「ぼちぼち決めてもらおうかな、少年」

彼は松明を後ろに投げ、部下らしき男にキャッチさせつつ腰の曲刀を抜いた。
今度はその切っ先を征司へと向ける。

「オマエは誰だ? 俺たちにいいものをくれる優しいヤツなのか、それとも八つ裂きにすべき水泥棒なのか…そろそろ決めてもらおうじゃねーの」

「……!」

(まずい…この状況はまずい……!)

征司は青い顔で、男が突き出した曲刀を見ているばかりである。
今の彼は、すべてを失った…ただの少年でしかなかった。


>その8へ続く