【本編】潮騒は風にさらわれて その5 | 魔人の記

【本編】潮騒は風にさらわれて その5

潮騒は風にさらわれて その5

「うっ…ぐ、この…クソ馬」

ヴァージャはうめきながら、忌々しそうに馬のたてがみを見ている。
蹴り上げられた腹は、震動で激痛を彼に伝えてくる。

(ただでさえ、俺が引っ込んだ後の筋肉痛がひでえってのに、土手っ腹蹴り上げやがって…あばら何本かイカれてんぞこれ)

”修復できそうですか”

アスタロトが少し心配げに声をかける。
その言葉にヴァージャはニヤリと笑ってみせた。

(できそうですか、じゃねーよアスタロト。できるに決まってんじゃねーか…だが今は無理だ。セェジが『表』に出てきてくれてねーと、俺は『裏』で力を発揮できねえ)

”どちらが肉体を支配するかで、できることが変わってくる…と”

(ああそうだ。しかしこのクソ馬…どういうつもりだ?)

ヴァージャはまた厳しい表情に戻り、今自分が乗っている馬を見る。
商人から3万ルージュで買った馬は、駄馬という割にはあまりに美しく街を駆け抜けていた。

そしてそのままパカラ港を離れ、街の北部にある荒地にやってきていた。
土と空気が乾燥しており、緑はまばらにしか見えない。

パカラ港からの線路は北東方向に伸びていたのだが、もちろんそちらへ行けばストル駅へ向かうことになる。

だが馬はそちらへは進まず、真っ直ぐ北へ進んでこの荒地にやってきていた。

(俺が買ってすぐ後に、俺を蹴り上げて無理やり乗せるたァ…意味がわからねえ)

”しかもこれまで迷うことなく真っ直ぐに、この場所までやってきています。ただ逃げるだけなら、もう少し『どこへ行くのか』考える部分があってもおかしくはないと思うのですが…”

(…ただの馬じゃねーってことか?)

”確証はありません。ただ、ここは私たちがいた世界とは違う場所…可能性は否定できません”

アスタロトはそう言いながら、馬が自分のいる方向をじっと見た瞬間を思い出していた。

彼の姿は征司、もしくはヴァージャの「視界の中でのみ存在する」姿であり、他人には見ることができない。

”空間に両目の焦点を合わせるというのは、認識能力の高い人間でさえ困難な作業です。それを普通の馬がやれるとは思えません”

アスタロトがそれをヴァージャに伝えると、彼は痛みに苦しみながらもまた小さく笑った。

(…まあ、なんでもいいぜ…)

”なんでもいい?”

ぶっきらぼうな言葉に、アスタロトは不思議そうな顔をする。
しかし考えがないわけではないらしく、ヴァージャはすぐに次の言葉を心に思い浮かべた。

(とにかく今は、人がいねえ場所に行くしかねえんだ。不思議な馬っつっても、まさか肉食じゃねーだろ…取って食われるってことはねえはずだ)

”…そうですね。危険な雰囲気はありませんから、今は街から離れることを優先させましょう”

(ああ…)

馬の背に、ほぼ寝そべった状態でヴァージャは手綱を握っている。
しかも握っているのは左手のみであり、右手は蹴られた腹部をまだ押さえている。

(あと少し…もう少しだけ、あの街から離れてくれ。セェジの思い出がぶっ壊れちまったあの街から、できるだけ遠くへ…)

馬が走ることで起こる揺れは、ヴァージャの体を突き上げる。
それが腹部の痛みを増し、揺れていない間にゆっくりと痛みが引いていくということを繰り返す。

(…終わっちまう…あとちょいで『俺の時間』が…)

痛みに顔を歪めながら、ヴァージャはそんなことを思う。
そして何度目かの揺れの後、彼は最も深いしわを眉間に刻んで、こう思った。

(セェジ…お前を寝かせてやれる時間が、もうすぐ…終わっちまう。すまねえ…!)

ぐっ、と強くまぶたを閉じた。
それと同じくらい、強い力で奥歯を噛んだ。

馬が走ることで起こる規則正しい揺れと、それによって引き起こされる痛みを、ヴァージャがすべて引き受けていた。

いっそのこと、このままずっと引き受けるつもりでもあった。

しかし、彼が支配しているのは征司の肉体であり、彼もそもそもは『肉体の声』である。

少しずつ気が遠くなっていくのを感じながら、自分の時間が終わっていくのを思い知らされていた。


「う…」

ゆっくりとまぶたを開ける。
その直後。

「うぐっ…!」

全身を駆け巡る痛みに、その身をこわばらせる。
呼吸をしようとするのだが、息を吸うだけで引きつるような痛みが彼を襲った。

「ふ、は…はあ…!」

できるだけ体に負担を与えないよう、小さく吸い、小さく吐く。
それを何度か繰り返す。

だが痛みは消えない。
痛みから守ろうと体をこわばらせているおかげで、今度は別の場所が痛くなる。

痛みが来る直前に筋肉は痙攣し、その直後に激しく震えて体内に何かが断ち切られたような音を響かせた。

それは筋肉が硬くなり、その硬質化に筋肉自身が耐え切れずに断裂してしまうという、特異な症状の始まりでもあった。

「があっ! あ、ぐ…!」

痛みに声が出る。
だが声を出すことで筋肉が動き、その筋肉がまた断裂して痛みを引き起こす。

「ぎぃい…ひ、はっ…」

痛みをかばおうとすれば、今度はかばった部分から激痛がやってくる。
呼吸を忘れていたと再開すれば、呼吸をするにも痛みを伴う。

(い、痛い…痛い痛い痛い!)

今の彼には…征司には、それしかなかった。
自分がどこでどういう状態でいるのかも、認識する暇がなかった。

(痛い…)

「ぐ、はっ…あぐぅ」

(痛い痛い痛いッ!)

「いだっ…がああっ」

(痛い…!)

「ぎっ、がはっ、うぐ…!」

征司の中には、今や痛みしかなかった。
彼は荒地の岩陰で横になっており、砂にまみれながら痛みを受け続けていた。

彼のそばには馬がいる。
痛みに悶える彼をしばらく見ていたが、やがて別の方向へ目をやった。

当然、征司は自分のそばに馬がいるなどということさえもわからない。

「……ぐふっ、が…ああ……」

ヴァージャが肉体を支配したことによる痛み。
そして、馬に蹴り上げられたことで肋骨を損傷した痛み。

それらが混ざり合い、今感じている痛みが何に由来するものなのか、彼には全くわからなかった。

そもそもヴァージャ由来の痛みなどというものがあることも、彼はわかっていない。

「痛い…いだっ……うぐうぅ!」

うめき声をあげながら、その場でのた打ち回るばかりである。
ほどなく、そのまぶたから涙がこぼれ落ちた。

(何が…何があったんだ)

征司は知らない。
なぜ自分がここにいるのかを知らない。

(オレは…オレは、これから…何をしようとしていたんだ)

何かが欠落したような、そんな気がしている。
しかし切れ間なく襲ってくる痛みが、彼に思い出させる。

あの時はほとんど聞こえなかったはずの、その声を。


”お前に幸せな時間が訪れることなど、絶対に無い”


「あ…?」


”…この私が生きている限りはな”


「う…おおおおおおおおああああああああああああっ!」

征司は叫んだ。
その瞬間、彼は痛みを感じなかった。

「うわあああああああっ、ぐがああああああああああ!」

獣のように叫び、右手を固く握り締める。
痛みも構わず、彼はその拳で大地を打った。

何かが割れる音がした。
何かが折れる音がした。

「があああああっ! うおおおおおおおあああああああっ!」

それでも彼は大地を打った。
右手は不自然にぐにゃりと曲がり、力強く打つことができなくなった。

手の骨は砕け、折れた。
痛みを超えたものが、征司の中にあった。

右手では殴れなくなったので、征司は右腕を地面へ振り下ろした。
だが手より若干リーチが短くなってしまったため、力強く打つことができない。

それならばと体を真っ直ぐ起こそうとした。
しかしその瞬間、これまでにない痛みが征司を襲う。

「ぐあっ! …くうぅ……!」

痛みは背中から起こった。
彼は叫べなくなり、起きかけていた体勢を維持することができずにうつぶせに倒れ込んだ。

「うう…うううぅ……!」

うめき声をあげる。
骨という支えを失った右手を振り上げようとするが、今度は右脇腹から刺すような痛みを感じ、腕から力が抜けた。

左手を上げようとするも、今度は肩の痛みで動かせなくなる。
痛みを超えられたのは一瞬だけで、彼はまたたちまち体を動かせなくなってしまった。

「ふっ、ふっ、ふはっ、うう…」

必死に呼吸だけをしている。
涙がこぼれたせいで、顔中に砂がまとわりついている。

その両目は焦点が定まらず、口からは泡を吹いている。
今の征司の形相は、もはや常人のそれではなかった。

(あああああああっ、うぐおおおああああああああっ!)

心の中にさえ、今は言葉がない。
ただの叫びが、その胸の中を満たしている。

彼の視界にはヴァージャもアスタロトもいたのだが、もはや目に入っていない。
彼らの存在を感じている余裕など、あろうはずもなかった。

”……”

”………”

そして彼らも、征司に何かを言うことができない。
ただ悔しげに唇を噛みながら、じっとしていることしかできなかった。

「……」

馬は、征司が叫び出した時に驚いて彼を見たが、それ以降は別の方向をじっと見ていた。

征司が痛みによって叫べなくなった後は、少しだけ彼の方に近づいたが、別の方向を見ているのは変わらなかった。

ただし、そこに何かがあるわけではない。

パカラ港から荒地に入った時より岩が目立つようになった程度であり、景色にそれほど大きな変化はなかった。

「うう…うぅ………」

「……」

”………”

”…………”

岩陰は、静かだった。
征司の叫びが止んだ後は、とてもとても静かだった。


>その6へ続く