【本編】潮騒は風にさらわれて その3
潮騒は風にさらわれて その3
”お、おい…なんだってんだ”
いつもは強気で、そして皮肉屋でもあるヴァージャの声が、今は震えている。
征司の目が見たものを彼も感じて、声を震わせている。
だが小さな声がその口から漏れるのは、少しの時間だった。
彼はすぐにあらん限りの声で叫んだ。
”おいちょっと待てェ! こんなことが…こんなことが起こっていいわけがねーだろうがァ!”
その叫びは征司と、すぐそばにいる偽魔たちにしか聞こえない。
征司は何も反応せず、偽魔たちの中でただひとり常時偽魔としての能力を発動させているアスタロトも、青い顔をして黙り込んでいる。
”チッ…!”
ヴァージャは忌々しげに舌打ちをし、3頭身になっている偽魔セーレをその手につかんで無理やりに引き寄せた。
小さな馬に乗った小さな美青年は、馬から落ちないようにバランスを取るのに精一杯だった。
”う、うわあ”
”おいセーレ! いろいろおかしなことが起こってるの、お前ならわかってるよな!”
”え、え…? なんで僕?”
どうにかバランスを取り、しかしヴァージャの言葉に意味がわからないという表情をするセーレ。
そこにヴァージャの怒声が降り注ぐ。
”お前、誘拐事件の時に言っただろーが! 一瞬でワープするのはこの世界の禁忌だからできねえって!”
”あ、ああ…それは確かに言ったけど”
”じゃあなんでこんなことが起こったんだ! アイツは…あのクソ野郎はいきなり出てきて、いきなり消えやがったんだぞ! 一体何がどうなってる!”
アージスタル号の面々と別れ、しばらくたった時に恭一は突然姿を現した。
そして征司の見送りに来ていた者たちのほとんどを殺し、ただひとり殺さなかったミュゼの手を取ってその場から消えてしまった。
この世界では、離れた場所へ瞬時に飛ぶ空間魔法が禁忌とされている。
偽魔セーレの瞬間移動は魔法ではないが、この世界では空間魔法と同じとみなされ、使用することができなかった。
そのため、ミュゼ誘拐事件の時はわざわざ馬車を借りて貨物列車を追いかける、という行動に出る他なかったのである。
しかし恭一は、征司の目の前で瞬時に消えた。
それがヴァージャには納得できなかったのである。
しかしその解答は、セーレではなくアスタロトからもたらされた。
”…『傀儡の王』…です”
”なんだと?”
ヴァージャはセーレを右手に持ったまま、アスタロトの方を見る。
彼がどういうことだと尋ねると、アスタロトは青い顔のままこう続けた。
”『傀儡の王』…その能力は『他者の認識を操ること』。ヤツは瞬間移動をしたわけではありません…私たちが、ヤツの姿を見ることができなかったというのが正しいのです”
”姿を見ることが…できなかった?”
”そうです。そばにいても、目がヤツの姿を見ていても、それを認識できなければ何も見ていないのと同じなのです。ヤツはその能力を使って、瞬時に現れて消えたように見せた…”
”つまり…”
ヴァージャはその手からセーレを放した。
そして征司の視界内で、できるだけ広く周囲を確認する。
”ヤツは、あのクソ野郎は今も近くにいるってことなのか!”
”無駄です。私たちには、ヤツの姿を認識することができません”
”それはお前がそう思ってるだけだろーが! 『手』でいろんなとこ攻撃したら、もしかしたら…”
”わかりませんか!”
アスタロトは激昂した。
青い顔のままで、しかしヴァージャに怒りを見せている。
これは今までのアスタロトにはない行動だった。
彼は熱を帯びた言葉をヴァージャにぶつける。
”ヤツの姿が見えないだけではないのです! 攻撃をしたところで、それが当たったのかどうか、そこにいたのかどうかも私たちにはわからない! 一体今はどこにいて、どういう状況なのかさえも私たちには全くわからないのです!”
”そんなもん知ったことかくそったれがァ! このまま、このままあのクソ野郎をすんなり帰せるわけねーだろって話をしてんだよ俺は!”
ヴァージャも負けてはいない。
アスタロト以上に熱い口調で、さらに胸ぐらをつかむ勢いでまくしたてる。
かと思うと、急に静かになった。
”やっと、やっと素直に笑えるようになったんだぜ…こっちに来るまでの戦いがどれだけ悲惨だったか、お前だって知ってるだろ”
”…はい”
アスタロトも、ヴァージャの雰囲気に感化されて静かになる。
だがここでヴァージャの言葉は、また激しい熱さを取り戻した。
”そんなセェジの心をズタズタに引き裂きやがったあンのクソ野郎を、このまま帰すわけいはいかねえ…! 絶対に無傷で帰すわけにはいかねーんだよ!”
”ですがこの状況で『手』を出すわけにはいきません! 状況からして、我らが主人が殺人の犯人にされてしまいます! それに今、我らが主人には戦う意志さえも…”
”問題はそこだがよ”
ヴァージャは静かに言い、アスタロトから離れる。
そしてじっと征司の姿を見た。
征司は今、動きを止めている。
そばに転がってきたカリスの頭部を見つめたまま、動きを止めてしまっている。
まだ彼の心は、状況をはっきりとは理解していない。
あまりのことに精神的なショック状態になっていた。
そんな彼に、ヴァージャは優しく言葉をかける。
”まだ、お前は理解できなくていい…お前が理解するには、まだ早すぎるんだ”
「……」
”そのかわり、ちょっと体借りるぜ。あとで死ぬほど筋肉痛になるだろうが、そこは許せよ”
「………」
征司はやはり反応できない。
ヴァージャの声が全く聞こえていないようだ。
だがヴァージャはそれでも構わないという様子で、今度はアスタロトを見た。
真っ直ぐな眼差しで彼にこう言う。
”1回きりの無茶だ…サポートは頼むぜ、アスタロト”
”待ってください、この状況でここを離れれば『手』を使わなくても我らが主人が犯人にされてしまいます! そうなれば、この世界での行動範囲がせばまり…”
”いや、もう遅ぇんだよアスタロト。ヤツはそれも見越して事を起こしやがったんだ”
ヴァージャはそう言って、右手の親指を引く形でアスタロトにアージスタル号を見ろと指示する。
その降り口からは船員たちが次々に現れ、物言わぬ骸となったロダフスやカリス、そして仲間たちを見て驚愕している姿がある。
その目が次に向いた場所…
それは、ショック状態のままへたり込んでいる征司だった。
彼らの目が、どんな光を帯びているのか。
それをヴァージャはアスタロトに教えてやる。
”あいつらにとって船長やカリスは『家族』だった。だがセェジやミュゼはそうじゃねえ。ミュゼはあいつらが見下してる種族だが、今はこの場にいねえからどうしようもねえ。となると残りはセェジしかいねぇんだよ”
”彼らは、我らが主人を悪者にするしかない…そういうことですか”
”ああ。なんつってもセェジは特殊な能力を使うことができるからな…敵意が向かうとしたらそっちしかねえ。真実だの事実だのはもう関係ねーんだ”
”何も知らない多くの者が負った心の傷を癒すために、少しばかり異質である個人を生贄にすると…そういうわけですね。そしてそれはこの世界でも同じというわけですか”
”その通り…本当にあの野郎はクソ野郎でどうしようもねえ外道だぜ。この船の思い出が、いい思い出どころか一気にトラウマになりやがった”
ここまで言った時、ヴァージャの姿がふわりと消えた。
そして征司の全身にしびれが走る。
「…く、う…」
3秒ほどしびれが走っていたが、やがてそれは止む。
まぶたが一度閉じられ、次の瞬間。
勢いよくカッと開かれた。
その直後、征司にしては少し低い声が口から漏れる。
「行くぜ、アスタロト」
”…はい”
へたり込んだままだった征司の体は、瞬時に立ち上がって船とは反対方向へ走りだした。
それを見たアージスタル号の船員たちは、武器を構えて雄叫びをあげる。
その雄叫びは間違いなく、征司を「仲間たちを殺した恩知らず」に設定したことを告げるものだった。
征司の体はそれを全く関知することなく、素早く人と人の間を走り抜けていく。
「はあッ!」
力を込めて跳躍する。
ヴァージャに操縦者を交代した征司の体は、一度のジャンプで建物の2階へ到達する。
さらにそれを続けることで、屋上にまで一気に上がることができた。
ヴァージャは港町を行き交う人々を見下ろしながら、何かを探し始める。
そんな彼に、アスタロトは尋ねた。
”…ヤツを無傷で帰すわけにはいかないと言いましたが、策はあるのですか? さっきも言いましたがヤツの姿は…”
「ああわかってる。ヤツの姿は見えねえし手応えもわからねえってんだろ? だが、手がねえわけじゃねーんだぜ…見てみな」
”…?”
ヴァージャに示され、アスタロトは下を見る。
そこにはパカラ港で生活する人々が行き交っている姿しかない。
まだアージスタル号の船員たちは、ここまで来ていないようだ。
それだけヴァージャの走る速度は速かったし、建物の屋上に登る速度も尋常ではなかった。
だが、ヴァージャが示した方向には人々がいるだけで、特別な何かがあるわけではない。
アスタロトは首を傾げ、彼にこう訊いた。
”人々がいますが…他に何かありますか?”
「いや、それでいい。人がたくさんいるってのがわかるよな? ポイントはそこだ…で、だ」
”…はい?”
ヴァージャは何かを小声でアスタロトに言う。
その言葉は地獄の大公をモチーフとした彼を、いたく不思議がらせるものだった。
パカラ港が衝撃に包まれたのは、それから2分後だった。
とはいっても、それは殺人事件で起こった衝撃ではない。
「う、うわあああ! どっかの軍が攻めてきたぞおおおお!」
パカラ港沖に突如現れた武装船団。
その船の数は1000を超え、静かな港町は一気に恐慌状態へと陥った。
「な、なんなんだありゃ!?」
「一体どこからあんな数の船が?」
「お、おい、どこの国の船なんだあれ…」
沖を埋め尽くし、海面が見えないほどの船の数に、人々はおびえた。
そもそも、今までこれほど多くの船がいるという報告がなかったのに、なぜ突然現れたのかが人々にはわからなかった。
「明らかに軍船じゃねーかあれ…」
「まさかこの街を乗っ取ろうってんじゃねーだろうな!」
「あ、あんなに多かったら、いくらなんでもかなわないよ…」
恐怖におびえつつも人々は波止場に押し寄せ、武装船団を見てはさらに強い恐怖に染め上げられた。
この状況の中で、アージスタル号付近で起きた殺人事件は小さなものとなってしまい、ほとんどの人がそれを気にしなくなってしまう。
人々が言うように、1000もの武装船団が沖からやってくるなどという情報は、これまでパカラ港にもたらされることがなかった。
今日未明に沖で漁をやった漁船ですらそれを知らず、一体どこから出てきたのかわからないというのが、さらに人々の恐怖をあおっていた。
「…よし、成功だ」
建物の屋上で、ヴァージャは満足げにうなずいた。
それを不思議がるアスタロトの隣には、人魚のような姿をした偽魔ウェパルがいた。
沖に現れた大船団は、このウェパルが作り出した幻影だった。
だがアスタロトには、ヴァージャの目的がよくわからない。
”…一体何が目的なのです? ウェパルの力で大船団を見せたとしても、それは幻です…いつまでも見せておけるものではありません”
「こういうのはな、ちょっとの時間でいいんだ…ちょっとの時間が効果的なんだよ」
そう言いながら、ヴァージャは通りを指さす。
それまでゆったりとしていた人の往来が、大船団の出現によって慌ただしいものへと変化している。
「あの野郎…あのクソ野郎は、悠々と普通に歩いて帰るだろう。余裕シャクシャクな顔をして、追跡されることなんかあるわけがないって安心しきって帰るんだ。だがそうはいかねえ」
”そうはいかないと言いますが、私たちにはヤツの姿は見えないのですよ…?”
「俺らには見えねえだろうぜ。だが、全員に見えねえようにするとな、いろいろ不都合が出てくるんだよ。ほら、あれ見てみな」
”…?”
アスタロトはヴァージャが指し示した場所を見た。
そこでは、荷物を持った男が走る男とぶつかり、謝る場面が見える。
”あれがどうかしましたか?”
「誰にも見えねえってのは便利なようで、人ごみの中じゃ不便なんだぜ。あんなふうにぶつかられまくるし、足だって踏まれまくる。それにな…」
ここまで言いかけて、ヴァージャの言葉が止まった。
アスタロトは不思議に思い、視線を彼の顔へと移す。
するとヴァージャはニヤリと笑っていた。
勝ち誇ったようなその表情で、彼は新たな地点を指さしてみせた。
「急にみんなが動いたのがよかったらしい。見つけたぜ、あのクソ野郎をな…!」
”なんですって!?”
アスタロトは驚きながらその場所を見る。
ヴァージャが指し示した地点では、多くの人々が港から走って逃げる姿が見えた。
多数の人間がまとまって走っているため、人の塊が別の意志を持って動いているようにも見える。
だが注目すべきは、その真ん中に小さく生まれた「隙間」だった。
「顔を憶えさせるようなヘマはやらねーだろう。だが、存在してることは周りに示しとかねーとな? そうじゃねーといろんなヤツにぶつかって動きにくいったらねえ…」
ヴァージャはニヤリと笑う。
その瞬間、偽魔ウェパルのヒレがふわりと動き、風を切る音が彼のこの言葉と重なる。
「そうだろう? クソ野郎」
「…うっ!?」
頬に小さな痛みを感じ、恭一は思わずその場所を押さえた。
その後で手を離し、手のひらを見る。
「ほう…?」
中指のあたりに、うっすらと血がにじんでいた。
頬の皮膚を薄く切られたらしい。
その直後、頬の傷からウジがわき始めた。
恭一は瞬時に背中から「手」を伸ばし、頬の傷をなでることで治療と同時にウジも一掃してしまう。
「あの短時間で立ち直り、私に反撃してくるだと…しかもこの私に血を流させるとは」
「えっ?」
恭一と手をつないでいたミュゼが、血という言葉を聞いて心配そうに彼を見た。
「血、でたの? だいじょうぶ?」
「ああ、もう治った。大丈夫だ」
ミュゼに優しく言い、恭一はまた人々の中で悠然と歩き始める。
これ以降、ヴァージャの反撃が恭一に届くことはなかった。
「少しばかり私も油断していたようだ。『傀儡の王』の効きを、もう少し強くしておこう…フフッ」
そうつぶやく恭一は、とても楽しそうに微笑んだ。
やがて彼はパカラ港を離れ、住処としているレブリエンタ家の屋敷へと戻るのだった。
>その4へ続く
”お、おい…なんだってんだ”
いつもは強気で、そして皮肉屋でもあるヴァージャの声が、今は震えている。
征司の目が見たものを彼も感じて、声を震わせている。
だが小さな声がその口から漏れるのは、少しの時間だった。
彼はすぐにあらん限りの声で叫んだ。
”おいちょっと待てェ! こんなことが…こんなことが起こっていいわけがねーだろうがァ!”
その叫びは征司と、すぐそばにいる偽魔たちにしか聞こえない。
征司は何も反応せず、偽魔たちの中でただひとり常時偽魔としての能力を発動させているアスタロトも、青い顔をして黙り込んでいる。
”チッ…!”
ヴァージャは忌々しげに舌打ちをし、3頭身になっている偽魔セーレをその手につかんで無理やりに引き寄せた。
小さな馬に乗った小さな美青年は、馬から落ちないようにバランスを取るのに精一杯だった。
”う、うわあ”
”おいセーレ! いろいろおかしなことが起こってるの、お前ならわかってるよな!”
”え、え…? なんで僕?”
どうにかバランスを取り、しかしヴァージャの言葉に意味がわからないという表情をするセーレ。
そこにヴァージャの怒声が降り注ぐ。
”お前、誘拐事件の時に言っただろーが! 一瞬でワープするのはこの世界の禁忌だからできねえって!”
”あ、ああ…それは確かに言ったけど”
”じゃあなんでこんなことが起こったんだ! アイツは…あのクソ野郎はいきなり出てきて、いきなり消えやがったんだぞ! 一体何がどうなってる!”
アージスタル号の面々と別れ、しばらくたった時に恭一は突然姿を現した。
そして征司の見送りに来ていた者たちのほとんどを殺し、ただひとり殺さなかったミュゼの手を取ってその場から消えてしまった。
この世界では、離れた場所へ瞬時に飛ぶ空間魔法が禁忌とされている。
偽魔セーレの瞬間移動は魔法ではないが、この世界では空間魔法と同じとみなされ、使用することができなかった。
そのため、ミュゼ誘拐事件の時はわざわざ馬車を借りて貨物列車を追いかける、という行動に出る他なかったのである。
しかし恭一は、征司の目の前で瞬時に消えた。
それがヴァージャには納得できなかったのである。
しかしその解答は、セーレではなくアスタロトからもたらされた。
”…『傀儡の王』…です”
”なんだと?”
ヴァージャはセーレを右手に持ったまま、アスタロトの方を見る。
彼がどういうことだと尋ねると、アスタロトは青い顔のままこう続けた。
”『傀儡の王』…その能力は『他者の認識を操ること』。ヤツは瞬間移動をしたわけではありません…私たちが、ヤツの姿を見ることができなかったというのが正しいのです”
”姿を見ることが…できなかった?”
”そうです。そばにいても、目がヤツの姿を見ていても、それを認識できなければ何も見ていないのと同じなのです。ヤツはその能力を使って、瞬時に現れて消えたように見せた…”
”つまり…”
ヴァージャはその手からセーレを放した。
そして征司の視界内で、できるだけ広く周囲を確認する。
”ヤツは、あのクソ野郎は今も近くにいるってことなのか!”
”無駄です。私たちには、ヤツの姿を認識することができません”
”それはお前がそう思ってるだけだろーが! 『手』でいろんなとこ攻撃したら、もしかしたら…”
”わかりませんか!”
アスタロトは激昂した。
青い顔のままで、しかしヴァージャに怒りを見せている。
これは今までのアスタロトにはない行動だった。
彼は熱を帯びた言葉をヴァージャにぶつける。
”ヤツの姿が見えないだけではないのです! 攻撃をしたところで、それが当たったのかどうか、そこにいたのかどうかも私たちにはわからない! 一体今はどこにいて、どういう状況なのかさえも私たちには全くわからないのです!”
”そんなもん知ったことかくそったれがァ! このまま、このままあのクソ野郎をすんなり帰せるわけねーだろって話をしてんだよ俺は!”
ヴァージャも負けてはいない。
アスタロト以上に熱い口調で、さらに胸ぐらをつかむ勢いでまくしたてる。
かと思うと、急に静かになった。
”やっと、やっと素直に笑えるようになったんだぜ…こっちに来るまでの戦いがどれだけ悲惨だったか、お前だって知ってるだろ”
”…はい”
アスタロトも、ヴァージャの雰囲気に感化されて静かになる。
だがここでヴァージャの言葉は、また激しい熱さを取り戻した。
”そんなセェジの心をズタズタに引き裂きやがったあンのクソ野郎を、このまま帰すわけいはいかねえ…! 絶対に無傷で帰すわけにはいかねーんだよ!”
”ですがこの状況で『手』を出すわけにはいきません! 状況からして、我らが主人が殺人の犯人にされてしまいます! それに今、我らが主人には戦う意志さえも…”
”問題はそこだがよ”
ヴァージャは静かに言い、アスタロトから離れる。
そしてじっと征司の姿を見た。
征司は今、動きを止めている。
そばに転がってきたカリスの頭部を見つめたまま、動きを止めてしまっている。
まだ彼の心は、状況をはっきりとは理解していない。
あまりのことに精神的なショック状態になっていた。
そんな彼に、ヴァージャは優しく言葉をかける。
”まだ、お前は理解できなくていい…お前が理解するには、まだ早すぎるんだ”
「……」
”そのかわり、ちょっと体借りるぜ。あとで死ぬほど筋肉痛になるだろうが、そこは許せよ”
「………」
征司はやはり反応できない。
ヴァージャの声が全く聞こえていないようだ。
だがヴァージャはそれでも構わないという様子で、今度はアスタロトを見た。
真っ直ぐな眼差しで彼にこう言う。
”1回きりの無茶だ…サポートは頼むぜ、アスタロト”
”待ってください、この状況でここを離れれば『手』を使わなくても我らが主人が犯人にされてしまいます! そうなれば、この世界での行動範囲がせばまり…”
”いや、もう遅ぇんだよアスタロト。ヤツはそれも見越して事を起こしやがったんだ”
ヴァージャはそう言って、右手の親指を引く形でアスタロトにアージスタル号を見ろと指示する。
その降り口からは船員たちが次々に現れ、物言わぬ骸となったロダフスやカリス、そして仲間たちを見て驚愕している姿がある。
その目が次に向いた場所…
それは、ショック状態のままへたり込んでいる征司だった。
彼らの目が、どんな光を帯びているのか。
それをヴァージャはアスタロトに教えてやる。
”あいつらにとって船長やカリスは『家族』だった。だがセェジやミュゼはそうじゃねえ。ミュゼはあいつらが見下してる種族だが、今はこの場にいねえからどうしようもねえ。となると残りはセェジしかいねぇんだよ”
”彼らは、我らが主人を悪者にするしかない…そういうことですか”
”ああ。なんつってもセェジは特殊な能力を使うことができるからな…敵意が向かうとしたらそっちしかねえ。真実だの事実だのはもう関係ねーんだ”
”何も知らない多くの者が負った心の傷を癒すために、少しばかり異質である個人を生贄にすると…そういうわけですね。そしてそれはこの世界でも同じというわけですか”
”その通り…本当にあの野郎はクソ野郎でどうしようもねえ外道だぜ。この船の思い出が、いい思い出どころか一気にトラウマになりやがった”
ここまで言った時、ヴァージャの姿がふわりと消えた。
そして征司の全身にしびれが走る。
「…く、う…」
3秒ほどしびれが走っていたが、やがてそれは止む。
まぶたが一度閉じられ、次の瞬間。
勢いよくカッと開かれた。
その直後、征司にしては少し低い声が口から漏れる。
「行くぜ、アスタロト」
”…はい”
へたり込んだままだった征司の体は、瞬時に立ち上がって船とは反対方向へ走りだした。
それを見たアージスタル号の船員たちは、武器を構えて雄叫びをあげる。
その雄叫びは間違いなく、征司を「仲間たちを殺した恩知らず」に設定したことを告げるものだった。
征司の体はそれを全く関知することなく、素早く人と人の間を走り抜けていく。
「はあッ!」
力を込めて跳躍する。
ヴァージャに操縦者を交代した征司の体は、一度のジャンプで建物の2階へ到達する。
さらにそれを続けることで、屋上にまで一気に上がることができた。
ヴァージャは港町を行き交う人々を見下ろしながら、何かを探し始める。
そんな彼に、アスタロトは尋ねた。
”…ヤツを無傷で帰すわけにはいかないと言いましたが、策はあるのですか? さっきも言いましたがヤツの姿は…”
「ああわかってる。ヤツの姿は見えねえし手応えもわからねえってんだろ? だが、手がねえわけじゃねーんだぜ…見てみな」
”…?”
ヴァージャに示され、アスタロトは下を見る。
そこにはパカラ港で生活する人々が行き交っている姿しかない。
まだアージスタル号の船員たちは、ここまで来ていないようだ。
それだけヴァージャの走る速度は速かったし、建物の屋上に登る速度も尋常ではなかった。
だが、ヴァージャが示した方向には人々がいるだけで、特別な何かがあるわけではない。
アスタロトは首を傾げ、彼にこう訊いた。
”人々がいますが…他に何かありますか?”
「いや、それでいい。人がたくさんいるってのがわかるよな? ポイントはそこだ…で、だ」
”…はい?”
ヴァージャは何かを小声でアスタロトに言う。
その言葉は地獄の大公をモチーフとした彼を、いたく不思議がらせるものだった。
パカラ港が衝撃に包まれたのは、それから2分後だった。
とはいっても、それは殺人事件で起こった衝撃ではない。
「う、うわあああ! どっかの軍が攻めてきたぞおおおお!」
パカラ港沖に突如現れた武装船団。
その船の数は1000を超え、静かな港町は一気に恐慌状態へと陥った。
「な、なんなんだありゃ!?」
「一体どこからあんな数の船が?」
「お、おい、どこの国の船なんだあれ…」
沖を埋め尽くし、海面が見えないほどの船の数に、人々はおびえた。
そもそも、今までこれほど多くの船がいるという報告がなかったのに、なぜ突然現れたのかが人々にはわからなかった。
「明らかに軍船じゃねーかあれ…」
「まさかこの街を乗っ取ろうってんじゃねーだろうな!」
「あ、あんなに多かったら、いくらなんでもかなわないよ…」
恐怖におびえつつも人々は波止場に押し寄せ、武装船団を見てはさらに強い恐怖に染め上げられた。
この状況の中で、アージスタル号付近で起きた殺人事件は小さなものとなってしまい、ほとんどの人がそれを気にしなくなってしまう。
人々が言うように、1000もの武装船団が沖からやってくるなどという情報は、これまでパカラ港にもたらされることがなかった。
今日未明に沖で漁をやった漁船ですらそれを知らず、一体どこから出てきたのかわからないというのが、さらに人々の恐怖をあおっていた。
「…よし、成功だ」
建物の屋上で、ヴァージャは満足げにうなずいた。
それを不思議がるアスタロトの隣には、人魚のような姿をした偽魔ウェパルがいた。
沖に現れた大船団は、このウェパルが作り出した幻影だった。
だがアスタロトには、ヴァージャの目的がよくわからない。
”…一体何が目的なのです? ウェパルの力で大船団を見せたとしても、それは幻です…いつまでも見せておけるものではありません”
「こういうのはな、ちょっとの時間でいいんだ…ちょっとの時間が効果的なんだよ」
そう言いながら、ヴァージャは通りを指さす。
それまでゆったりとしていた人の往来が、大船団の出現によって慌ただしいものへと変化している。
「あの野郎…あのクソ野郎は、悠々と普通に歩いて帰るだろう。余裕シャクシャクな顔をして、追跡されることなんかあるわけがないって安心しきって帰るんだ。だがそうはいかねえ」
”そうはいかないと言いますが、私たちにはヤツの姿は見えないのですよ…?”
「俺らには見えねえだろうぜ。だが、全員に見えねえようにするとな、いろいろ不都合が出てくるんだよ。ほら、あれ見てみな」
”…?”
アスタロトはヴァージャが指し示した場所を見た。
そこでは、荷物を持った男が走る男とぶつかり、謝る場面が見える。
”あれがどうかしましたか?”
「誰にも見えねえってのは便利なようで、人ごみの中じゃ不便なんだぜ。あんなふうにぶつかられまくるし、足だって踏まれまくる。それにな…」
ここまで言いかけて、ヴァージャの言葉が止まった。
アスタロトは不思議に思い、視線を彼の顔へと移す。
するとヴァージャはニヤリと笑っていた。
勝ち誇ったようなその表情で、彼は新たな地点を指さしてみせた。
「急にみんなが動いたのがよかったらしい。見つけたぜ、あのクソ野郎をな…!」
”なんですって!?”
アスタロトは驚きながらその場所を見る。
ヴァージャが指し示した地点では、多くの人々が港から走って逃げる姿が見えた。
多数の人間がまとまって走っているため、人の塊が別の意志を持って動いているようにも見える。
だが注目すべきは、その真ん中に小さく生まれた「隙間」だった。
「顔を憶えさせるようなヘマはやらねーだろう。だが、存在してることは周りに示しとかねーとな? そうじゃねーといろんなヤツにぶつかって動きにくいったらねえ…」
ヴァージャはニヤリと笑う。
その瞬間、偽魔ウェパルのヒレがふわりと動き、風を切る音が彼のこの言葉と重なる。
「そうだろう? クソ野郎」
「…うっ!?」
頬に小さな痛みを感じ、恭一は思わずその場所を押さえた。
その後で手を離し、手のひらを見る。
「ほう…?」
中指のあたりに、うっすらと血がにじんでいた。
頬の皮膚を薄く切られたらしい。
その直後、頬の傷からウジがわき始めた。
恭一は瞬時に背中から「手」を伸ばし、頬の傷をなでることで治療と同時にウジも一掃してしまう。
「あの短時間で立ち直り、私に反撃してくるだと…しかもこの私に血を流させるとは」
「えっ?」
恭一と手をつないでいたミュゼが、血という言葉を聞いて心配そうに彼を見た。
「血、でたの? だいじょうぶ?」
「ああ、もう治った。大丈夫だ」
ミュゼに優しく言い、恭一はまた人々の中で悠然と歩き始める。
これ以降、ヴァージャの反撃が恭一に届くことはなかった。
「少しばかり私も油断していたようだ。『傀儡の王』の効きを、もう少し強くしておこう…フフッ」
そうつぶやく恭一は、とても楽しそうに微笑んだ。
やがて彼はパカラ港を離れ、住処としているレブリエンタ家の屋敷へと戻るのだった。
>その4へ続く