ヴァルハラの門 その8
(…?)
突如として意識を失った征司は、真っ暗な闇の中にいた。
ふと体を起こしてみるが、起きているのか横たわっているのか、自分ではよくわからない。
(…なんだ? どうなってる?)
こうなる前の状況が、彼には思い出せない。
ただふと、麻衣の右手を切断したことだけは脳裏に蘇ってきた。
(ああ、そうだ…やってやったんだよな、オレ…)
口元が思わず緩む。
そしてまた体を起こそうとするが、やはり自分では体勢がよくわからない。
しかしそれを気にすることもなく、続けてこんなことを考えていた。
(麻衣の…シンプルな弱点ってのは、攻撃するために必ず『自分自身がそばにこなきゃならない』ってこと…それに気付くのがやっとだった。そばに来た瞬間に、俺自身がちゃんと攻撃できるかどうかは…わかんなかった)
闇の中を漂う感覚は、水の上に浮いている感覚に似ている。
征司にとって、それは悪いものではなかった。
(そうだ…オレ自身がシンプル、シンプルって考え続けてて…弱点わかったけど攻撃できるかどうかわからない、どうしようって悩むのも変だなって思ったんだっけ。かなりのギャンブルだったけど…やってしまえばどうにかなるもんだな…はは)
征司にとって、自ら麻衣へ戦いを挑むのは相当な賭けだったようだ。
しかし彼には、答えを見つけたならすぐにでも実行しなければならない理由があった。
(オレはもともと、アイツのオモチャみたいなもんだったからまだしも…あの人が殺されるかもっていうのはな…なんかイヤだったな)
征司はもともと恭一に人生を操られ、その人生の大半を実験のために消費されてきた。
それに気付いてからあらためて恭一の玩具となるのは耐えられないものがあるが、勝てばいいだけの話だと考えれば気も楽にできる。
だが弥生は違った。
麻衣の襲撃を受けてから少し話をして、彼女がどういう経緯で施設に来たかは知っていたが、もともとは普通の人生を歩んでいたのだ。
そして彼女の能力は、自分のように直接戦闘に役立つものではない。
そう考えると、できるだけ早く麻衣の行動を牽制しておく必要があった。
(父さんと母さんの仇をとるってとこまではいかなかったけど…とりあえずは追い払えたしな。あの人にいきなり手を出すってこともしないだろ…あと2日だしな…)
そう考えながら征司は、自らが心の中で言葉にした「あと2日」ということを考えている。
恭一が目指しているという異世界がどういうものなのか、彼にはまったく想像がつかなかった。
とはいえ、征司にとっては想像がつくかどうかはどうでもよかった。
異世界は恭一と1対1で戦えるチャンスのある場所、という認識しかなく、それまでに恭一の能力を解き明かして弱点を知っておきたかった。
だが、ぼんやりと闇に差し込んでくる光に気付くと、そちらに気を取られてしまう。
光は弱いものだが、闇に比べるとさすがに明るい。
それはドアを開けた隙間から漏れているらしく、縦に長い形をしていた。
(ん…?)
今まで考えていたことをとりあえず放り出し、光に神経を集中させる。
すると、光の中で起こっている出来事がだんだん見えるようになってきた…
「うぐぇ」
のどがつぶれたような音。
吹き出す血液。
薄暗い部屋で、小さな体が痙攣している。
拘束台の上で痙攣している。
ドアの向こうの目は、それを見ていた。
それを見ながら歯を食いしばっていた。
なぜなら、歯を食いしばっていなければ、あごが震えて歯同士が当たってしまう。
そうなれば音が立ち、ドアの向こうの「生きている人間」にそれがばれてしまう。
ばれてしまえば殺される。
それがわかっているために、ドアの向こうにいる少年は歯を食いしばっていた。
(し、し…! 死んだ…! しんぺー、死んだ…!)
やっとの思いでドアから離れ、音を立てないように四つん這いで進む。
たまに口元を手で押さえ、嘔吐しないようにこらえながらゆっくりと、静かに進む。
開いたままのドアからは、小さな笑い声が聞こえていた。
周囲に人がいないのもあり、その声が少年の背後に届く。
「フフフフフ…いい子だ、いい子だァ…でも悪魔はいなァい……ダメな子だ」
(せ、先生に、呼ばれて…ほめられるんだってしんぺー言ってたけど…! 違う、あれはちがう…!)
「ダメな子だが…かわいいなァ……フフフフフフフフ」
(悪魔がいないってなんだ? なんだ…? 悪魔は先生だろ…! い、いつかぼくも殺される…! いい子になっちゃいけない…!)
ドアの向こうの笑い声は、少年の心をいつまでも恐怖の檻に閉じ込める。
どうにかトイレまで行き、吐けるだけ吐いてから部屋に戻ったが眠れるはずもなかった。
そして翌日。
朝一番に子どもたちが集められ、にこやかな中年男性がその前に立ってこう言った。
「今日は、お知らせがありまーす」
「おしらせ?」
「なにー? せんせーおしらせなにー?」
「はいはい、今から言いますよー。しずかにー」
「はーい」
先生と呼ばれる男性の優しい声に、20人ほどの子どもたちは素直に黙る。
そして彼は子どもたちにこう言った。
「みんなのお友だちの西村 新平くんが、新しいご家族のもとへ旅立ちましたー!」
「わー!」
「えー、しんぺーずるーい! いいなー!」
「あっ、でもわたしはここがすきだから、ここにずっといてもいいもんねー!」
「……」
さまざまな反応を見せる子どもたちの中、ひとりだけ青い顔をした少年がいた。
彼にはわかっている。
(『新しいご家族』ってなんだよ…!? 旅立ったって死んだってことじゃないか! 先生はウソをついてる…ぼくたちにウソをついている…!)
さらに1週間後。
「…先生、わたしきっと先生の役に立つね」
「ああ、そうあって欲しいものだ…よ!」
「げはっ」
同じ部屋で。
今度は女の子が殺される。
そしてそれを少年はまたも目撃していた。
彼にはわかったのだ。
(せ、先生が誰かを殺す時…! その子に必ず『呼び出し』がかかる…! まなみちゃんは昨日、先生に秘密の呼び出しをされたってぼくだけに教えてくれた…)
「ハハハハハハ! いた、いたぞ悪魔が!」
(い、いた…? なんだ悪魔って…!?)
「ジュルジュルル…べちゃ」
(う、ううううっ!)
おぞましい音に耐え切れず、少年はその場を逃げ出すしかなかった。
この時も彼は見つからなかったが、衝撃的なものを秘密にし続けるのは子どもの体には酷であり、その影響が出てきてしまう。
「あの…丸坊主にして、もらえないですか」
「えっ? だってキミ、そんなキレイなストレートなのに…」
「いいんです、お願いします」
「う、うん…わかったわ」
女性の先生に頼み込み、彼は頭を丸めた。
秘密を抱えることがストレスとなり、目立たない場所であったが円形脱毛症を発症してしまっていたのだ。
それを隠すため、逆に丸坊主にするという選択肢をとった。
このことはこの施設…児童養護施設なかよしホームにいる女の子たちを、たいそう落胆させた。
「えー! なんで丸坊主になんかしたのよー!」
「ショックー!」
「あ、あはは…」
少年は顔立ちが整っており、施設の中でも人気があった。
だが今の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。
「ぐぶぁ」
「げふっ」
繰り返される惨劇を、彼は目撃し続けた。
減った児童たちはすぐに「補充」され、施設から元気な声が消えることはなかった。
3回、4回と惨劇を見ていくうちに、少年は気付く。
直接手を下す男の先生だけではなく、「新しい家族のもとへ旅立った子どもたち」のことを何ら詳しく調べようともしない女の先生も、自分が頭を丸めてくれと頼んだ先生も…
この施設にいる大人すべてが、惨劇が起こることに協力していることに気付いてしまった。
(このままじゃ、みんな殺される…ぼくも殺される! だけどどうしたらいい? みんなに言ってもきっと信じてもらえないし、それを先生に言われたらぼくが…!)
逃げ場がない。
助けようもない。
少年にできることは、ただ黙り込むことだけだった。
それまで親しかった友だちが全員消え、新しい子たちが入れ替わりに入ってくる。
そしてついに、彼にも「呼び出し」がかかった。
先生…施設長、中村 善行による秘密の呼び出しが、ついに少年を捉えるに至った。
この時、中村は少年にこう言った。
「今までよく我慢したね…そのごほうびをあげよう。このことは、みんなにナイショだよ…」
(…ば、ばれて…いた……!)
今までよく我慢したというその言葉。
どれほど少年の肝を冷やしただろう。
(ごほうびなんかない…ついにぼくも殺される! いやだ…いやだ、死にたくない! 死にたくない…!)
呼び出しの日はその翌日だった。
何も知らない子どもにとっては、それは待ち遠しい日だったろう。
だがこの少年にとって、それは囚人が死刑を執行される日、という感覚でしかない。
前日の夜など、彼が一睡もできなかったのも無理はなかった。
しかし。
「え…?」
少年は助かった。
昼前に知らない大人たちが大挙して押し寄せ、怒号の嵐が巻き起こった。
だが、さらに後で別の大人が現れることで怒号は止んだ。
どうやら前者は中村の債権者だったらしく、借金の返済を求めて踏み込んだようだ。
では後者は何者だったのか?
「…この子か?」
「え…」
「お前が呼び出すつもりだった子どもは、この子か? と訊いているんだが」
「は、はい! で、ですがなぜそれをわざわざ…?」
「お前が知る必要はない。行け」
「は、はい! ありがとうございます!」
中村は、後者の男に何度も頭を下げて、施設から逃げ出していった。
その様子を見ていた少年は、ぽかんと口を開けている。
「ふむ…」
男は、そんな少年をじっと見ていた。
一歩近づき、こんなことを口にする。
「お前は知っていたようだな」
「え…?」
声をかけられたことに気づき、少年は男を見る。
意味がわからないでいると、男はこう続けた。
「この施設で何が起こっていたのか知っていたようだな、と訊いている」
「…し、知りません」
少年は即座に嘘をついた。
その言動に男は微笑み、こう言ってやる。
「安心するがいい。あの男はもうお前を殺そうとはしない」
「え?」
「ここすべてを私が買い取った。お前も、お前の友だちもすべて私の施設に移ることになる」
「…じゃあ」
「ああ、お前は助かった。友だちもな」
「…!」
少年はこの時、大きな声で泣いた。
あらん限りの声をあげて泣いた。
少年にとって、男はまさに救世主だった。
今夜殺されるというところを救われて、感謝しない人間はいない。
だから少年は、ようやく泣き止んだところで男にこう言った。
「なんでもやらせてください。あなたのしようとしていること、すべてを手伝わせてください」
「…素質があれば使ってやろう。ただ…私は無闇に殺すことはせんが、殺す必要があると判断すればその場で殺すぞ」
「それでかまいません。どうせ一度殺されたようなものですから…どうかお願いします!」
「いいだろう。どうやらお前は普通の子どもより頭がいいようだし…期待させてもらうとしよう」
「ありがとうございます!」
そして少年は、男…加賀谷 恭一の実験台になりつつその仕事を手伝うようになった。
やがて、彼の中にとんでもない能力が秘められていることが明らかとなる。
「これは…! 今までさまざまな能力を見てきたが、まさかこんな能力まであるとは!」
恭一も思わず舌を巻く能力。
だがしかし、それにはデメリットもあった。
「いかん、これでは魔人の異細胞以外、肉体が安定しない…使ったそばから自分が肉体を失っては意味がない…!」
「…だったら…取り替えてしまえばいいんじゃないんですか…?」
恭一の嘆きを聞いた少年は、さらりとした口調で言う。
頭を抱えていた恭一は顔を上げ、彼にこう尋ねた。
「とりかえる、だと?」
「異細胞以外の肉体が安定しないから、まずいんでしょう? だったら…ぼくの体を全部、異細胞にとりかえてしまえばいいんですよ」
「ほう…!」
「あなたの役に立つのなら、ぼくはなんだってできます。なんでもやらせてほしいと最初に言ったはずです」
「そうか…それはありがたい。では遠慮なくそうさせてもらおう!」
恭一に迷いはなかった。
そして少年もそれは同じだった。
少年の中にある異細胞を培養し、人間の肉体に近づける。
この実験で何百人もの子どもが犠牲になったが、もはや少年にとってそんなことはどうでもよかった。
自分を救ってくれた男の役に立てるのなら、その他のことはどうでもよかったのである。
なかよしホーム内で友だちが殺されることに恐怖していた彼からは、まったく考えられない感覚をこの時の彼は持っていた。
その強烈な思いが少しずつ、肉体の取り替えにも影響を及ぼしてくる。
変質した体は男性のそれではなくなってしまい、女性の、しかも少女の肉体へと変化していく。
そこに元少年だった脳と心臓を移植するという、もはやどちらが本体かわからない状態へと変わっていった。
そして「彼女」は生まれる。
「どう?」
巨大な特殊水槽から液体が抜かれ、そこからゆったりとした足取りで出てくる。
あられもない姿のまま、恭一にポーズをとってみせる。
彼はそんな「彼女」を、笑顔で歓迎した。
「ククク…まさか性別まで変わるとは予想外だったが…能力は安定した。実験は成功だ!」
「よかった! この体になった甲斐があったのね、あたし!」
「お前の能力は『ヴァルハラの門』と名づけよう…いつでも門を開けば別世界へ行ける、というイメージだな」
「カッコいい! んじゃ、『あたしの名前』は?」
「そうだな…」
恭一は腕を組み、しばらく考える。
やがて何か思いついたようで、腕組みを解いて彼女にこう言った。
「麻衣というのはどうだ?」
「うん、かわいくていい感じ! じゃああたしはこれから麻衣として生きていくわ…よろしくね、パパ!」
「フフッ、パパか。何やらくすぐったい呼ばれ方だな」
「あら? だってあたしの体を作ってくれたのはパパなのよ? だからパパ。なんにもおかしくないわ」
「はっはっは、なるほどな…だがお前、かなり性格が変わったようだな?」
「うん、なんかすっごい気分がいいの! ようやくホントの自分になれたっていうか…なんかよくわかんないけど、テンション上がっちゃってさ!」
「興味深いな。もしかしたらお前は、もともとの感覚が女だったのかもしれんな」
「そんな細かいことはいいじゃない! ねえパパ、あたしのバースデーパーティーしよ? おっきなケーキなんかも買っちゃってさ!」
「いいだろう、たまにはお前の言う事も聞いてやらんとな」
恭一はそう言いながら笑う。
麻衣は嬉しそうに、彼の左腕に自らの両腕をからませた。
そして少年の名前は、明らかになる前に失われる。
なぜなら「彼女」の中に、もうその記憶は存在していないからだ。
(ははっ、麻衣…お前もなかなか、きっつい過去持ってるな…)
征司は、彼女の手が体内に残された影響により、彼女が持つ記憶を追体験することとなった。
それは、手そのものが「魔人の異細胞」であることも強く関係している。
(そうだな、考えてみりゃ…血を吸う人間なんていないんだし、いたとすりゃそれは人間じゃないんだし…手だって特別製だってことか…なるほど…)
こうして、麻衣が「生まれた」秘密を征司は知ることとなった。
闇の中に差し込んでいた光は消え、それと同時に彼はこの中でも意識を失った。
>その9へ続く